No.275  2003.04.17

青山俊董(あおやましゅんどう)尼のご紹介

今の日本には仏法の流布に骨身を削られて活躍されている二人の尼僧さんがいらっしゃいます。瀬戸内寂聴尼(天台宗、80歳)と青山俊董尼(曹洞宗、70歳)がそのお二人です。一般の方々は、作家でもあり、マスコミに度々登場する瀬戸内寂聴さんは知っていても、青山俊董尼は知らないと言う方も多いと推察致しますので、私自身お会いさせても頂き、一般の方々が描かれている尼僧像に近い青山俊董尼をご紹介するのは私の役割のような想いから、ご紹介させて頂きたいと思うようになりました。

青山俊董尼のご著書は、仏教を学ぼうとする方には勿論ですが、人生に行き詰まって立ち往生している方にも、優しい言葉で語りかけ、人生観を転じさせて下さり、生き生きとした人生の第一歩を与えて下さるものと確信しています。瀬戸内寂聴さんも、青山俊董尼の著書【悲しみはあした花咲く】(光文社版)に次の様な推薦文をしたためておられます。

『青山俊董尼は、私の一番尊敬している尼僧さまです。きびしい修行をされ、若い尼僧さんたちを導かれています。この法話は若い人たちの迷いや悩みに答え、やさしい言葉で語られています。きっとあなたを救ってくれるでしょう』
私自身は、昭和57年と58年に、私の母が主宰していた仏教講演会(垂水見真会)にお越し頂いた時に直接ご法話(講題は、真実の生き方を求めて、と無財の七施)をお聞き致しました。私が37歳の頃で、青山俊董尼は、50歳前でしたが、厳しい修行に裏打ちされた美しく清廉な尼僧さんと言う印象と共に、当時76歳の母(その4年後に亡くなりました)が『今度生まれて来るとしたら、青山俊董尼の様な女性に生まれたいけれど、私の様な下品下生(げぼんげしょう、凡夫の中でも最下級の凡夫)には何回か生まれ直さなければとても無理なんよ、でも憧れるわぁ!』と溜息していたのをはっきりと覚えています(今年5月に500回目の講演会を迎える垂水見真会を誕生させた母も、多くの方々に仏法の種を蒔き、私にこのコラムを書かしめて、今も青山俊董尼と共に大活躍しているのだと思いますが………)。

それでは、以下に、青山俊董尼のご経歴と主なご著書をご紹介致します。そしてご著書の中から、印象深い部分を抜書き致しました。そのためかなりコラム内容が長くなりましたが、是非お読み頂き、出来ればご著書をお求め頂いて、座右の書として頂ければと思います。

●経歴と現在:
昭和8年、愛知県一宮市に生まれる。5歳の時、長野県塩尻市の曹洞宗無量寺に入門。15歳の時に得度して、愛知専門尼僧堂に入り修行。その後、駒沢大学仏教学部・同大学院・曹洞宗教化研修所を経て、39年より、愛知専門尼僧堂に勤務。51年、堂長に。59年より特別尼僧堂堂長及び正法寺住職も兼ねる。現在、無量寺住職(長野県塩尻市片丘5926)も兼務。参禅指導・講演・執筆に活躍するほか、茶道・華道の教授としても禅の普及につとめている。

●主なご著書:
『もう一人の私への旅』(彌生書房)
『新・美しき人に』(ぱんたか出版) 『茶禅閑話』(中山書房仏書林)
『法の華鬘抄』(柏樹社) 『松籟に聴く』(柏樹社)
『典座教訓 すずやかに生きる』(大蔵出版) 『道はるかなりとも』(佼正出版社)
『生かされて生かして生きる』(春秋社) 『仏のいのちを生死する』(春秋社)
『わが人生をどう料理するか』上・下(春秋社) 『道を求めて』(主婦の友社)
『花有情』(主婦の友社) 『禅のまなざし』(鈴木出版)
『般若心経ものがたり』(彌生書房)
『悲しみはあした花咲く』(光文社) 『心の道しるべ』(彌生書房)
『照らされて知るわが姿』(鴻盟社)
青山俊董先生の本をアマゾンで探す

●青山先生の講義が聞けます:
青山先生が送って下さったご著書の中に、この4月から始まったNHKラジオ講座のテキストがございました。是非お聞き頂きたいと存じます。1年間にわたるものです。テキストは、本屋さんに置いてあると思います。

講座名:典座教訓(てんぞきょうくん)をよむ
―道元に学ぶ人生―
番組:NHKラジオ第2放送の『NHK宗教の時間』
日時:毎月第二日曜日、午前8:30〜9:00
(再放送は、第3日曜の午後5:30〜6:00
4月は、この日曜日(20日)に再放送がございます。

●ご著書からの抜書き:

元服:『生かされて生かして生きる』(春秋社)より抜粋

今ここでの生きざまを転ずるということ、『投げられたところで起きる小法師かな』と言うことの例の一つに、高校入試に失敗した中学三年の男の子の『元服』という作文をご紹介いたしましょう。
  僕は今年三月、担任の先生から勧められて、A君と二人、K高校を受験した。K高校は私立であるが、全国の優等生が集まって来ている、いわゆる有名高校である。担任の先生から、君達二人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。僕らは得意であった。父母も喜んでくれた。先生や父母の期待を裏切ってはならないと、僕は猛烈に勉強した。ところがその入試でA君は期待通りパスしたが、僕は落ちてしまった。得意の絶頂から、奈落の底へ落ちてしまったのだ。何回かの実力テストでは、いつも僕が一番で、A君がそれに続いていた。それなのに、その僕が落ちて、A君が通ったのだ。誰の顔も見たくないみじめな思い。父母が部屋に閉じこもっている僕のために、僕の好きな物を運んでくれても、優しい言葉をくれても、それが余計にしゃくにさわった。何もかもたたき壊し、ひきちぎってやりたい怒りに燃えながら、布団の上に横たわっている時、母が入って来た。
『Aさんが来てくださったよ』
と言う。僕は言った。
『母さん、僕は誰の顔も見たくないんだ。特に世界中で一番見たくない顔があるんだ。世界で一番いやな憎い顔があるんだ。誰の顔か言わなくたってわかってるだろう。帰ってもらってくれ』
  母は言った。
『せっかくわざわざ来てくださっているのに、母さんにはそんなこと言えないよ。あんたの友だちの関係って、そんな薄情なものなの。ちょっとまちがえば敵味方になってしまうような薄っぺらいものなの?母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ。いやならいやでそっぽを向いていなさいよ。そしたら帰られるだろうから』
  と言っておいて、母は出て行った。入試に落ちたこのみじめさを、僕を追い越したことのない者に見下される。こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、僕は気が狂いそうだった。
二階に上がって来る足音が聞こえる。布団をかぶって寝ているこんなみじめな姿なんか見せられるか。胸を張って見すえてやろうと思って、僕は起き上がった。戸が開いた。中学の三年間、A君がいつも着ていたくたびれた服のA君。涙を一杯ためたくしゃくしゃの顔のA君。
『君、僕だけが通ってしまってごめんね』
  やっとそれだけを言ったかと思うと、両手で顔を覆い、駆け下りるようにして階段を下りて行った。僕は恥かしさでいっぱいになってしまった。思い上がっていた僕。いつもA君になんか負けないぞとA君を見下ろしていた僕。この僕が合格してA君が落ちたとして、僕はA君を訪ねて、僕だけが通ってしまってごめんね、と泣いて慰めに行っただろうか。ざまあみろと余計に思い上がったに違いない自分に気がつくと、こんな僕なんか落ちるのが当然だと気がついた。彼とは人間の出来が違うと気がついた。通っていたらどんな恐ろしい一人よがりの思い上がった人間になってしまったことだろう。落ちるのが当然だった。落ちてよかった。本当の人間にするために天が僕を落としてくれたんだと思うと、悲しいけれども、この悲しみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
  僕は今まで思うようになることだけが幸福だと考えてきた。が、A君のおかげで思うようにならないことの方が、人生にとってもっと大事なことなんだということを知った。
  昔の人は15歳で元服したと言う。僕も入試に落ちたおかげで元服できた気がする。

  15歳の少年の作文です。今まで自分の方が上だと思っていた。自分よりできないと思っていたお友達に追い越されてくやしくて、くやしくて、布団をかぶってのたうち回っていた。まさに、地獄の思いをしていた。その地獄の思いが、一瞬にして落ちてよかったとひっくり返った。落ちたことの背景に神様、仏様のお心までも受けとめて、私を人間らしい人間にするために神様が落としてくれた。仏様が落としてくれた。ありがたかったんだと転じましたね。
  凡夫の私どもの喜びというものは、入試に合格することをもって喜びととかく考えがちです。しかし、入試に合格した喜びと、落ちてよかった、落ちて、落ちることで人間にさせてもらうことができてありがたかったという喜びとは、喜びの深さが違います。本当の喜びとは落ちたとか合格したという条件によって左右するものではなく、そのことを通して何に気付くか、何を学ぶか、そのことの方が大事だと言うことですね。どう受止めるかということですね。

―完―

大悲無倦常照我 私は、この作文を書いた男子生徒と同類の人間であり、『僕だけが通ってごめんね』と言ったA君の様な深い優しさを持ち合わせていないと思います。A君は、まことに生まれながらにして高等な人格だと思います。私がもしA君の立場になった場合、よしんば慰めに行って同じ言葉を発したとしても、逆に反感を買うだろうと思います。『彼は自分とは人間の出来が違うと気がついた』まさにその通りだと思います。

私もこの度、入試に落ちた以上の人生の失敗、人生での敗北を経験している訳ですが、『彼とは人間の出来が違うと気が付かされた』と言う同じ想いを致しました。サラリーマン時代、私が課長代理と言う末端の管理職の時に、係長昇進の為の推薦文を書いた部下(3歳下)が、 今ではその会社の部長職に昇進されているのですが、この半年で2回、ご夫婦で遠いところを高額であろう弁当と重いビールを携えて、慰問に来てくれました。
彼は、神戸大震災の折りにも、関東の工場に勤務されていたのですが、その時も、色々な食物を一杯ダンボールに詰めて送ってくれました。

私は、彼とは人間の質が違う、出来が違うと、この度改めて深く感じています。彼は九州の工業高校出身、私は七帝大と言われる国立大学出身ですから世間的には私の方に軍配を上げられるでしょうが、彼はとっくの昔に元服され、私は60歳を目の前にしても未だ未だと言うところなのです。

大きな借金を抱えて苦しんでいる人間に、普通は誰も近付いて来ません。私の不徳の致すところでもありますが、同じ大学で同じ釜の飯を食った仲間達はいまのところ誰一人近付いて来てはくれません。近付いて、しかも慰めてくれるのは、稀少の中の稀少であるというのが実体です。それが残念とか悲しいとか恨めしいと言うのではなく、よくよく考えて見ますと、私だってその稀少の人間の仲間には入れない自分ではないかと、我が身を振り返り、慰問に来てくれたかつての部下に、いよいよ頭が下がるのです。
人間の価値は、こう言う場面で現れるのだと、この元服のお話しを読み直しながら、改めて、身に染み入った事でした。

日本一のビリッコ:『法の華鬘抄』(柏樹社)より抜粋

  近頃とてもうれしい話を聞き、このせちがらい世の中、しかもこの寒空の中にあっても、私の心はカイロを抱いているようにホカホカと温かく、そのことを思い出すと思わずニコニコと顔がほころんでしまう。
  ある研修会に講師として招かれ、三日間過ごした。もう一人の講師で、日頃から敬慕申し上げて来た米沢英雄先生が、休憩時間のひととき、煎茶茶碗を手でかこむように持ちながら、こんな話をして下さった。
  「私の孫はね、運動がからっきし駄目なんですよ。走り競争をしてもいつもビリッコでしてね。この間の幼稚園の運動会でも、やっぱりビリッコを走っていたんだそうです。途中で孫の前を走っていた子供が転んだそうです。そしたら孫の奴、転んだ友達が起き上がって走り出すのを待っていてやって、まためでたくビリッコになったんですよ。親も親で、そのことをよろこんで話してくれましてね。ハハハ……」
  さも嬉しそうに話して下さったおじいちゃん先生の笑顔が、今も私の心に焼き付いて離れない。人を蹴飛ばしてでも、先へ出ようとする人が多い今の世の中で、「あんた馬鹿ね!転んだのを幸いに追い抜いてゆけば、みじめなビリッコの思いをしなくてもすんだんじゃないの!」と言いかねない親の多い中で、その温かく、汚れなく、純なる心をそっと大切に見守り育ててやろうとしていて下さるご両親やおじいちゃんの姿は、転んだ子供が起き上がるのを待っていてやるお孫さんの姿と共にさながら天寿国曼荼羅を見る思いで、何とも嬉しいきわみである。
  まじめに努力しながらも悪い成績をとって苦しんでいる高校生に、私はこの話をして励ましながら、更に言葉を添えた。
  「一般世間のモノサシは、たとえばマラソンならいかに早く走るかとか、いかに能率良く仕事が出来るかというところにあるけれど、そうではない別のモノサシもあると思うのよ。兎と亀が走り競争をしたという昔話があるでしょう。亀が兎に勝ったというけれど、どんなに走っても、ふつうに走ったら亀が兎に勝てるはずがありません。兎が怠けて昼寝をしていたから、亀が勝つことが出来たのでしょ?そのことにどれだけの努力を払ったかというモノサシではかれば、ビリッコの亀が一番になり、それが仏さまのモノサシだという教えじゃないのかしら?一番二番と言う序列や結果よりも、その中味に何がもられているかということの方が大切、その過程が大切だということじゃないかしら。
  ここでもう一つ考えておきたいことは、その努力の内容が、人に負けたくないと言うセリアイからの努力では駄目だということです。競争意識からだけの頑張りは、勝ったとき高慢になり、負けたとき劣等感にさいなまれて立ち上れなくなりますからね。又そういう努力のありようは長続きしません。疲れてしまいます。背比べせず、私の力なりに全力を尽くし、しかも結果は問わない、万一失敗しても悔いないという姿勢が大切なのよ。」
  生涯を教育にかけられた東井義雄先生も、運動は全く駄目で、師範学校に在学しておられるとき、全員何かの運動部に入らなければならず、粘ること位は粘れるだろうというので、マラソン部に入られたそうである。毎日の日課に一万メートルのマラソンがあり、そのコースの途中に女学校がある。女学生の見ている前を、みんなから何百メートルも遅れて、犬に吠えられながら走るのはつらかったが、そのつらさ、はずかしさを、先生は四年間背負って走り続けられた。四年間ビリッコを走りながら考えられたことは、やはりこの「兎と亀」の昔話だったそうである。
  兎の中にも日本一駄目な兎もあり、亀の中にも日本一の亀があるという話ではなかろうか。一番二番より素晴らしいビリッコもあるということではなかろうか。日本一の亀、日本一のビリッコならなれるはずだと。そしてもっと大変なことに気付かれた。"ビリッコにも大きな役割がある。僕がビリッコをやめたら、仲間の誰かが、このあわれなビリッコをつとめなければならない。それを僕がずっと一人で引き受けているおかげで、仲間はこのみじめな思いを味わわなくてもいいのだと気がついたら、世の中がにわかに光あふれるものに感じられた"というのである。
  米沢先生のお孫さんと共に、まさに日本一世界一のビリッコである。禅門に「損する事を得なり」という言葉があり、沢木興道老師も晩年「得は迷い、損は悟り」と口ぐせに云っておられたが、得することしか考えない我利我利の凡夫が、少しでも無我の修行をさせて頂こうと思ったら、道にそった生き方をさせて頂こうと思ったら、つとめて損する方へ、皆の嫌がることをさせて頂こうという方へと努力するより他に、方法はないのかも知れない。

―完―

このお話しも、『元服』のお話しと同様、受取り方を間違いますと、仏教は世間で敗北する方を奨励しているのか、敗北しないと仏法は分らないのか、なんか暗くて惨めで悲しいなということになります。私も一時期そう言う疑問を抱いたことがありました。身に沁みる苦労をしなければ仏法の扉は開かないのだろうか?死を告知されたり、倒産、自己破産を経験しないと悟りへの道は開けないのかと考えたことがあります。

確かに、どこで聴聞するご法話の内容も、どなたのお話しも苦難から学んだと言う話が含まれていますから、苦難が嫌な人、苦難を避けたくて仏教の門を叩いた人は、どなたもそう言う想いをされるのではないでしょうか。ある人は『貧乏しないと仏法は分らないと云うなら、私は仏法は分らなくてもいい!』と申します。

この考え方は、世間を代表するものですし、私もそう云う想いから完全に解き放たれていると言う訳ではありません。恐らく死ぬまで、消えない想いではないかと考えます。お金がないよりある方が良い、病気よりも健康が良い、乞食よりも大学教授かお医者さんになって尊敬されたいと思う気持ちを誰も否定出来ません。

しかし、世間の競争に勝っているように見える社会的地位の高い有名人やお金持ちが私より人生の幸せを掴んでいるとは言えないと言う事にもまた頷かざるを得ません。

仏法は世間での勝利者になることを否定している訳ではないと思います。ただ、世間での勝利者=人生の勝利者ではないと言う事に気付いて欲しいと言うのが仏法の説くところです。実際のところ、仏法を説かれたお釈迦様自身が、世間の勝利者の頂点である王位の継承を約束されていた皇太子であったにも関わらず、もっと確実で、永遠に変わることのない幸せを求めて出家されたとお聞きしています。

世間での敗北が即ち人生の敗北ではない、受験に失敗した、病気になった、会社で出世が出来ない、事業に失敗したと言って、人生を諦めずに、本当の幸せ、永遠に変わらない幸せを求めて欲しいと、青山俊董尼も声をからして仏法を説いて下さっているのだと思います。

最後に、不治の病に罹(かか)ったり、極端には癌の告知を受けられた方の心の救いとなればと思い、また現在健康な人にも是非ともお読み頂きたい一節を付け加えたいと思います。健康な方も病気の方も共に明日が知れない身であります。常に死を抱えた生命を生きている私達でありますから、自分の事として受け取りたいものです。

癌告知の後で:『般若心経ものがたり』(彌生書房版)より抜粋

北海道の知床半島の入り口に位置するところに斜里と言う町があり、鈴木章子さんと言う方が住んでおられた。浄土真宗のお寺の奥さまである。乳癌が次第に転移して、四十七歳を一期として世を去られたが、仏法の教えに照らされ導かれることによって、癌と共に生きる人生が、これほどまでに深く、素晴らしいものになるかと、おどろくばかりである。
  先ずは、肺癌のベッドの上で気付いたこと。財産も肩書も、旦那さまも子供も、何の役にも立たない。はぎとられるものは全部はぎとられて、まる裸の一個の人間がベッドの上にころがされているだけ、そこで大切なことは、心にどんな宝をいただいているかだ、ということに気が付いたという。
  この気付きは大切である。章子さんは幸いに癌のお陰で早く気付くことが出来た。癌にでもなって、否応なしにはぎとられるという土壇場に追い込まれないと、人は一生気付かずに終わってしまう。財産も肩書も旦那も子供も、皆持ち物に過ぎない。いざというとき何の役にも立たない。いざというとき全部置いてゆかねばならないものばかり。そんな中途半端なものに目がくらみ、得たといって酔っ払い、失ったといって死にたくなるほどに嘆き悲しんでいる私達。これさえ手に入れば最高に幸せと思い込んでいたものが、いかに泡沫(うたかた)のような中途半端なものであったか。癌のお陰で気づき、早く手放すことが出来た章子さんは、むしろしあわせ者である。
  金子大栄先生(浄土真宗の学徳優れた方、故人)は、
「信仰は、宗教は、その人の置かれた状態をなおすのではなく、お金がない人が急にお金持ちになったり、魚のとれないときに急に魚がとれるようになったりというように、その状態をなおすのではなく、人間そのものを救う」と語っておられる由。われわれ凡夫が「救われた」と思うときは、苦の状態から逃れて救われたと思う。つまり条件が変わらないと救われないような気がする。そうではない。状態は少しも変わらないまま、癌がなおって救われるのではなく、癌の苦しみの中に身を横たえていると言う状態は少しも変わらないまま、むしろ癌の苦しみのお陰でしっかりとアンテナが立ち、その場所がそのまま如来さまのご説法の一等席と頂ける。まさに「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」とおっしゃった尻枝神父さま(キリスト教の神父様)のお言葉そのままである。
  章子さんは亡くなる二ヶ月ほど前に自宅で静養されていた。夜寝る時、ご夫婦で「お父さん、ありがとう、また明日会えるといいね」「お母さん、有り難う、また明日会えるといいね」と挨拶しあったと言う。間違いなく明日を迎えることが出来るという保証はない。永遠の別れの思いをこめて「おやすみなさい」と言う。さいわいに朝を迎える事が出来たとき、「お父さん、会えてよかったね」「お母さん、会えてよかったね」と心踊る思いで挨拶を交わしたそうである。
  四十六年の人生の歩みの間、こんな挨拶を一度だってしたことがあったであろうか。健康にまかせて「忙しい!忙しい!」と、心も体も宙に浮いたような生き方しか出来ず毎日の挨拶もうわのそらの挨拶しかして来なかった。癌をいただいたお陰で、一度一度の挨拶が、恋人のように胸躍らせての挨拶ができる、と喜びの中で語る章子さん。

癌は
私の見直し人生の
ヨーイドンの
  癌でした。
私、今、
  出発します。
これは章子さんの最期の頃の詩である。章子さんは言う。「人生はやり直しは出来ないが、見直し出直すことはできる。癌のお陰で死を見据える眼が深くなり、一日いただくことができた生命の限りない重さにも気づかしていただくことができ、はじめてこの生命をどう生きたらよいかも見えてきた。癌のお陰で、ようやく人生の意味も、生命の意味も、生命の重さも、そしてあるべきようも見えてきた。死は終着点ではない。出発点だ。よし、やるぞ!」と言うのである。
「乳癌だけでは気づかないボンヤリ者の私のために、肺癌、転々移と言う癌までくれまして、"章子よ、目覚めよ、章子の華を咲かせてくれ"との、如来さまの大慈悲の贈り物であった」と感謝しつつ四十七歳の生涯を閉じられた。

―完―

誰しも癌にはなりたくない、しかし、誰しも何れは必ず死に直面致します。この死の予言だけは間違いなく当ります。私は処刑日時の決っていない死刑囚です。しかしそれを忘れて、いや忘れたくて、世間の忙しさに紛れているのが私です。

実はこの3月、妻の幼馴染から久し振りの電話が入り(年に1回ずつお互いの誕生日に電話でお祝いを言い合うだけですが、一番心を通わせている友人のようです)、昨年末に癌を告知されたと言うことを知らされました。しかも大腸癌から肝臓にまで転移しており、大腸癌は手術したけれど、肝臓は癌が点在しており手術は出来ないと言う事でした。このままでは余命1年程度だと言われたとか……。妻も私も大変なショックを受けました。勿論極親しい人がこんな事になったのはじめてであり、どんな言葉をかければよいか、どんな事が出来るかと考えましたが、結論は得られませんでしたし、今もどうすれば、どうするべきか分らないままです。

そう言う想いを抱きながら、この青山俊董尼のご著書を読ませて頂いた次第です。そして、考えて見れば、私も私の妻も、そしてその親友も、状況には多少の違いがあっても、同じく明日知れぬ身である事ではないかと気付かされました。自分は永く生きるような積もり、明日は保証されているような錯覚に囚われていた事に気付かされた次第です。

私が癌を告知された場合、章子さんとか妻の友人のような強くて柔軟な心境になれる自信も器量も度量もありませんが、天から頂戴した今日一日を妻と一緒に大切に生きて行く事しかないのだなと思いました。

妻の友人には、諸般の事情が許せば、この連休にでも泊り掛けで我が家に来て頂き旧交を温めたいと予定しています。

●あとがき:
今回、青山俊董尼をご紹介する機縁をお与え下さいましたのは、このコラムにアクセスされたフランス在住のご夫人(外国の方をご主人に持たれている日本女性)です。お聞きしたところによりますと、『青山俊董』をキーワードにして検索され、無相庵に訪ね来られたと言う事です。

何回かのメール交換をさせて頂き、無相庵カレンダーと青山俊董尼の小冊子等をお送りさせて頂きました。青山先生のご著書の紹介を希望されましたが、私も最近のご著書を存じ上げていなくて、厚かましくも青山先生に直接、事の経緯をお知らせして、ご紹介をお願い致しましたところ、写真にお示したものを含めて数冊のご著書をお送りくださいました。それも、ご自筆のお言葉を書き入れて下さいました。

僅かな御志をお包みしただけですので大変恐縮した次第でしたが、仏法広まれと言う尊いお心からの真心とお受け致しました。そして、私もご著書を一気に読ませて頂き、感銘溢れる内容に年月を経て接しさせて頂き、私自身が大きな心のプレゼントをも頂いた気持ちです。

このプレゼントを私だけではなく、皆様にも差し上げたく、青山俊董尼をご紹介させて頂いた次第であります。

青山先生、有り難うごさいました。またyco様(フランスのお方のご自称)、ご縁を頂きまして本当に有り難うございました。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]



[HOME]