No.230  2002.11.11

法句経(ほっくぎょう)に聞く ―7―

●まえがき:
今回の法句経は、『萎(しお)れたる花びらは散る』と言う詩です。
私の家の庭に植わっている『ハナミズキ』は、6、7月には淡い桃色の葉っぱで色どられていましたが、今は、枯れ葉となり、ほとんどが散り染め、代わって沢山の鮮やかな赤い実が枝を飾り、それを目当てに、様々な小鳥達が、訪れて来ています。我が家の庭には、3本のハナミズキがありますが、この1週間の中に、殆んどが鳥達に食べられてしまいました。写真は、僅かに残っているハナミズキの赤い実と、まさに枯れ落ちる寸前の葉っぱの様子です。

自然は、役割の終わったものに執着せず、時が来れば、はらりと花びらを自ら舞い落とします。また、実(み)は小鳥達に啄(ついば)まれていきます。そう言う淡々とした自然の成り行きを見られたお釈迦様が、人間も既に過ぎ去ったものにこだわる執着を捨て去り、自然と同じ様に役割を終えたものに意識を止めず、さらさらとたださらさらと流れて行く川の水のように、自然に任せてはどうかと説かれたのが、今回の詩です。

●法句経377:萎れたる花びらは散る

萎れたる花びらを
すておとす
バツシカ草のごとく、
乞食(こつじき)するものらよ
かくのごとく
むさぼりと
怒りとをふりすてよ。

●友松円諦師の註釈:
ちょうど、バツシカ草がその凋んだ(しぼんだ)花びらを振るい捨てるように、比丘(びく)らよ、それの如く、貪り(むさぼり)と怒りとを捨てなさい。

●私の意訳:
萎れた花びらを捨て落とすバツシカ草がそうであるように、仏道修行に励む者ならば、過去への執着から心に湧き起こる、貪り(むさぼり)と怒り(いかり)、愚痴(ぐち)を振り捨てる努力をすべきである。

●あとがき1:
バツシカ草とは、ジャスミンの一種と説明されていますが、これを椿と考えても良いでしょう。椿の花は、時節が来れば、ぼったりと落ちます。その状況を思い起こせば良いと思います。

乞食(こつじき)するもの達と言うのは、村人から食物の寄進をうけて修行に励む僧侶と言う意味だけではなく、仏道に励む私達一般民衆も、含んでいると考えたいです。
私達も、自分が食物を作らずに、食物を他の人の労力に頼って頂いている訳であります。無償では無しに対価を支払ってはいますものの、やはり、食を乞うている存在ですから、同じく乞食(こつじき)であります。

他人様のご努力によって生かされている事を知れば、ちようど、時節が到来して花びらが落ちるように、貪りの心も、怒りも、愚痴も捨てざるを得ないのではあるまいか、こうお釈迦様は言われたのです。

自分の力で生きていると思っている限りは、感謝の心もなく、従って、他の人にサービスすることもしないでしよう。お釈迦様は、生かされて生きている事が分れば、貪り・怒り・愚痴の煩悩が消えていくのが、自然の成り行きではないかと、花びらの消え行く様に喩えられて、説かれたのだと思います。

親鸞聖人は、『自然法爾(じねんほうに)』と言う言葉を好まれました。無相庵カレンダーのお言葉の一つでもあります。私達は、結局は、自然の摂理にお任せすると言う事でしかないのでありますが、なかなか任せる事が出来ずに、自分の都合の良いようにと計らいます。とても、お任せは出来ないのであります。

悔やんでも変わる事が無い過去を悔やみ、決して自分の思い通りにはならない未来を支配しようとします。親鸞聖人は、そう言う自己を深く深く見詰められ、自分は罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫で、とても、お釈迦様の様にはなれないと思われたのだと思います。

しかし、『だからこそ私は、仏法に縁を持つ事が出来、仏様から見守られる身となったのだ』と親鸞聖人は逆転の発想をされ、歎異鈔の有名な一節『悪人こそ救われる』と言う大胆な提言をされた訳であります。

では、親鸞聖人は、お釈迦様の説かれる今回の教えを否定されたのでしょうか?そうでは無く、やはり、そうありたいと努力をされる中で、ますます、お釈迦様に程遠い自己の現実が知られ、いよいよそう言う自分をも生かしてくれる大いなる宇宙の力(仏様)を感じられ、念佛の世界を生きて行かれたのだと思います。

●あとがき2:
仏教に誤解があっては困りますので、更に付け加えなければなりません。

『過ぎ去った事を思わないように』と言う事は、過去の失敗に学ぶ必要がないと言う事を言っているのではありません。仏教では、現在は過去があっての現在であり、未来は現在の結果が現れると説きます(因縁果の真理)。

私達個人も、輝かしい未来の為に、大いに過去から学ばねばなりませんし、世界も、人類も、歴史から学び、不幸な未来を回避しなければなりません。これは、仏教の教えと言うよりも、真理であります。

仏教は、仏様に祈ったり、願ったりする事を説いているのではありません。この世の真理、宇宙の真理、道理を説いている訳であります。

そして、今を大切に生きよと教えます。過去を生かす現在、未来を孕んだ(はらんだ)現在 を精一杯生きよと言う教えです。

私の会社(株式会社 プリンス技研)は、今年になって、従業員全員を解雇しなければならず、工場も五分の一の間借り工場に移転致しました。私の経営に関する過去を振り返りますと、多くの反省点があります。また、近い将来を予測すると致しましたら、日本の経済環境、、借金残高、手持ち資金状況等を考えますと、会社整理・自己破産と言う結論に至ります。

そんな中、私は、新しい1日、1日を区切って、今日出来る事をやるしかないと言い聞かせながら、生きています。少なくとも1ヶ月後の事は考えない、精々考えても、1週間以内の事とするように努力しています。

未来は、私だけの考えや力で決るものではありません。世界の経済状況、日本の経済状況とも無関係ではありません。インターネットでコンタクトを取って来ている国内外の企業と、どう言う縁が待っているかも知れません。インターネットさえも、3年前には、会社の行く末に関係がある事とは思ってもいませんでした。

どんな結果が待っているかは分りませんが、今、出来る事をやる事をしっかりやると言う事しか、私に出来る事はないと、仏教の説く真理に学んだ事であります。


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No.229  2002.11.07

田中さんのノーベル賞に想う

ノーベル化学賞の田中耕一さんも、物理学賞の小柴昌俊・東大名誉教授も、ノーベル賞授賞に至った研究姿勢についてのコメントは『好奇心』『常識を疑う』『人がやらない事をやる』でした。

このコメントは、技術分野で生きる者が持つべき姿勢として、私もよく耳にしてきた言葉です。しかし、それを実際に、しかも異常なまでに徹底的に実行されたのが、田中さんであり、小柴さんではないかと思います。

私達は、様々な分野や、色々な仕事で、その道の心得と言うものを必ず聞かされます。しかし、それを自分のものとして実行出来るか出来ないかと言うところに、凡人と道を極める人の分かれ目が有る様に思えます。ただ、世界的に卓越したノーベル賞ともなりますと、もっと徹底的な好奇心、もっと常識を徹底的に疑う心、そして、絶対に他人がやりそうも無い事を果敢な勇気を持って実行する事が必須条件なのだと今回改めて思いました。

この度のノーベル賞は、これまでの受賞年齢平均値からすると極めて若い43歳の田中さん、しかも企業で出世街道を驀進(ばくしん)する田中さんではなくて、博士でも無い一研究員で、世間的には無名の田中さんがノーベル賞を授賞した事が、実に刺激的です。

田中さんのお陰で、ノーベル賞が身近な賞になり、多くの技術者を勇気付け、活性化し、技術者を目指す子供達が増え、技術立国、日本の復活になるのではないかと言う期待が高まります。

技術分野に限らず、『好奇心』『常識を疑う』『人がやらない事をやる』は、進歩・発展に貢献する上でのキーワードだと思います。スポーツでも然りで、直ぐに象徴的に思い浮かべられるのが、スキーのジャンプ競技です。札幌オリンピックで、日本が金・銀・銅を独占した時は、2枚のスキー板は、平行に揃えていたけれども、最近は、皆V字飛行になっています。これも、飛形点が悪かったにも関わらず、異常に距離を伸ばした一つのジャンプがキッカケになったのではないかと思います。

私達は、『普通はこうだ』『こう言うはずだ』『他の皆がこうしている』『昔から皆こうして来た』と言う常識に従って、或いは常識に頼って行動し、発言し、思考致します。その方が楽だからでしょう。其処には、安心と平穏はありますが、緊張感はないのだと思います。従って私達は、なかなか感動的な悦びを見出せないのだと思います。

実は、私が開発した技術も、私とは技術分野が異なった技術者の一言がキッカケとなり、これまでの技術では出来なかった材料(プラスチックの軽石とでも言う様な材料です)が加工出来るようになりました(未だ、多くのニーズ(需要)に結び付いていませんので、相変らず会社は危機的状況ですが)。これも常識の積み重ねでは出来なかった技術である事は間違いありません。

私は、そう言う貴重な経験をしながらも、なお、未だ常識から解放されず、得てして『こんな事は絶対無理だろう』『実験しても無駄だろう』『それは出来ません』と、常識の世界に埋没しようとする自分を感じて来ました。

勿論、理論的に到底無理と言う事もある訳ですが、やはり、無理を承知でやって見ると言う、ある意味では『狂気の沙汰』が必要なのだと、田中さんのノーベル賞に思い直しました。

そして、私は、技術分野でもそう言う姿勢を取り戻そうと思っていますが、自分の人生にとっての最大の関心事である仏教についても、自分の取り組む姿勢を改めて問い直そうと思いました。それはノーベル賞的な名誉を得たいと言う事ではなくて、私は、お釈迦様や親鸞聖人その他の祖師方の説かれた教えを出来るだけ忠実に理解しようとして来ましたが、疑う心と言うと極端になりますが、頭から信じきるのではなく、自らの体と心で実証し、ある意味ではお釈迦様、親鸞聖人から離れて見ると言う事も大切なのではないかと思うようになりました。その方が却って、お釈迦様、親鸞聖人の求められたものに近付くのかも知れないとも思うのです。

仏教に限らず、キリスト教に致しましても、また他の宗教におきましても同様ですが、何れも大昔の教祖とも言うべき人のお言葉の真意を知り、その説かれた真理に如何に従えるかと言うのが、これまでの信仰者の信仰態度であります。

多くの祖師方、宗教学者さん達のお陰で、私は、お釈迦様のお考えの一端を知る事が出来ましたし、親鸞聖人の至られたご心境を語られた文章をこの眼で確認出来ました。これら先輩諸氏方のお陰が無くして、今日の私も有り得ません。

そう言う感謝とは別に、非常に大それた考えではありますが、宗教史上の偉大な存在である、お釈迦様、キリスト様の時代から、もう2000年以上経過しております。現代の人間が知り得た、大きくは宇宙、小さくは素粒子の世界に関する知識は、2000年前とは比較出来るレベルないと言って言い位に進化致しましたので、真理は変わらないにしても、理解の仕方、信仰態度などは少々進化しても良いのではないかとも考え始めているところです。

人間如何に生きるべきか、何故人間に生まれて来たのかと言う基本的質問に、解答を与えられたお釈迦様、キリストさまの時代から2000年以上経過した現代、無差別テロと言う人類の滅亡に直結する行為が、世界の至る所で頻発している事を考えれば、宗教のあり方が切実に問われているのだと、私は思います。

今回、日本の二人に与えられたノーベル賞が刺激となり、遺伝子情報も解明され、また宇宙の誕生、生命の起源にも次々と新しい情報が得られ、一般の私達にも情報が開示された現在、仏教の説き方、浄土真宗の説き方にも、ノーベル賞に匹敵する位の進化・発明が要るのではないかと私は、その想いを強く致しました。

お釈迦様、白隠禅師、親鸞聖人等の祖師方の辿られた道を歩みつつも、その道を少し幅広くするとか、バイパス(近道)を造るとかと言う努力が、遭い難い仏法に遠き宿縁を頂いた者に求められているのではないかと、田中さんのノーベル賞から考えさせられた次第です。


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No.228  2002.11.04

法句経(ほっくぎょう)に聞く ―6―

●まえがき:
無相庵カレンダーの中に『独りを慎しむ』と言うお言葉があります。私達が行動したり、発言したり、考えたりするときは、必ずと言って良いほど、『こうすれば、他人にはどう受け取られるか?世間はどう見るか?』と他からの評価を気に致します。『独りを慎む』とは、誰かが見ているから、こうしようと言う事ではなくて、誰も見ていなくても、自然と正しい行いになると言う事ですが、私にはなかなか出来ていない事であります。

何故『独りを慎しむ』事が出来ないのでしょうか?それはきっと、人間は生まれ落ちる前から1年近くを母親の胎内で生育され、生まれ落ちてからも、母親を始めとする周りの人々からの誉め言葉と叱咤激励によって行動を規制され監視されて成長するからだと思います。

今日の法句経ののお釈迦様のお言葉は、そう言う人間の業(ごう)を乗り越えて、他人の評価を気にしない悠々たる生活を営むのが聖者なのだとおっしゃいます。更には、神様が見ているからとか、仏様が喜ぶからと言う事さえも動機となってはいけないとおっしゃっています。

私の知る限りのキリスト教では『神の御心に従って』と言うように、神様が見守っているから良い事をし、悪い事をしたら神様の前で懺悔して許して貰うと言うような教えと受け取れますが、お釈迦様は、そう言う神仏も含めて他者の想いや評価に我が身の処し方を依存させず、自らの意思に従って生活せよと説かれた訳です(この法句経と同じ事を説かれたお言葉として、『自らを灯火とし、法を灯火とせよ』と言う自灯明・法灯明はお釈迦様のご遺言としても有名です)。

自らの意思と申しましても、欲に駆られた自己ではなく、仏性と言う、本来私達が生まれながらにして持っている清浄な心から発する意思である事は勿論であります。

禅門に『随所に主となる(ずいしょにしゅとなる)』と言う言葉がありますが、平易に言いますと『世間の毀誉褒貶(きよほうへん、誉め言葉や批難言葉)に惑わされる事なく、常に法に照らされた自分自身が主人公になれ』と言う事ですが、これは、今日の法句経のお釈迦様のお言葉から来ているのではないでしょうか。。

お釈迦様は、聖者と言うものは、斯くあるべきと示されながら、私達在家(一般民衆)に対しても、これを理想として励めよと言うメッセージを遺されたものと解釈したいと思います。

●法句経420:足跡を知るに由なし

もろもろの神も
ガンダバも
ひとも
彼の足跡を知るに由無なし、
かかる漏(あく)のつきたる
聖者、
われは彼を婆羅門とよばん。

●友松円諦師の註釈:
もろもろの神もその人の生活の足跡を知ることが出来ず、況んや、ガンダバも人間もこれを窺い知ることが出来ぬような、欲情を征服しきった聖者、私はこうした人をこそ婆羅門(ばらもん)とよびたい。

●私の意訳:
もしこの宇宙に私達の行動の一部始終を見守る神々が存在するならば、その神々にさえ生活の足跡を知られない、欲とか執着から離れ切って、所謂(いわゆる)あくの抜けた聖者をこそ、私は聖者の中の聖者と呼びたい。

●あとがき:
ガンダバと言うのは、聞きなれないサンスクリット単語ですが、日本語に訳すのは難しいようです。ガンダバは非常に鼻が利き、匂いを尋ねていく才能があり、人間が本当はどんな行為をしているかと言う、人間の足跡を嗅ぎ分けようとしている、ある種類の神だと考えられています。

本当の聖者と言うのは、そのガンダバと言う鼻の利く神でも、その聖者の足跡はこれを嗅ぎ付けられるものではないと言う表現をされています。 『神にも人にもガンダバにも、いささかも束縛されていない悠々たる人間こそ立派な人間だ。それを私はバラモンと呼びたい』とお釈迦様は、力強く理想像を表現されたのです。

バラモンとは、本来は昔のインドにおける文教に携わる種族ですが、中国風には『君子』、西洋流には『立派な紳士』の事だと解釈してよいでしよう。

そして足跡と言う表現がありますが、人は自分の足跡(そくせき)を気にします。足跡を残したいと思います。普通の人の足跡(そくせき)には、必ず名誉とか執着がこびり付いています。だからこそ、人は足跡(そくせき)を残したいのですが、お釈迦様は、足跡を残さないで世の中の役に立つのが、真のバラモンだとおっしゃったのです。

最近、ノーベル賞の田中耕一さんが話題となっていますが、彼の謙虚さ、初々しさが感動を呼んでいます。この田中さんのこれまでの研究姿勢こそ『彼の足跡を知るに由無し』と言うべきものだと言って良いと思います。

報道で聞くかぎり、田中さんはノーベル賞を取るために研究したのではない、与えられた研究分野で、彼自身の興味の趣くまま、研究に没頭した結果に対して、たまたまノーベル賞が与えられたと言う事が事実のようですので、他の受賞者達とは全く立場が異なるのだと思います。そう言う意味では、世間的には目立たなかった優れた研究者を嗅ぎ分けたノーベル賞選考委員は、現代の優れたガンダバと言って良いと思います。

田中さんは足跡(そくせき)を残そうとか、ノーベル賞と言う名誉を獲得するために研究し発明したのではない。報奨なんてどうでも良いとまで言われており、日本人が忘れていた無私・無欲・謙虚の心を思い出させてくれました。

お釈迦様は、この田中耕一さんのような人をバラモンと呼びたいのだと思います。『論語読みの論語知らず』と言うように、バラモンと呼ぶべき人は、必ずしも仏教徒でなくて良いと思います。こう言う田中さん的な人は、多分世間的に知られていないだけで、他にもまだまだ多くおられるのではないでしようか。

『出世したいから仕事に精を出す』『人気を得たいから笑顔を振る舞う』『賞賛を得たいからボランティア活動をする』『信仰心が篤いと思われたいからお念佛を称える』『厚かましい人間と思われたくないから発言を遠慮する』等など、私達は世間の眼を気にします。

お釈迦様は、この様に世間の眼を気にするのでは無しに、淡々と自分の役割を果たして、且つ目立たない人物像を理想とされたのです。

さて、この今日の法句経に限らず、法句経は真理の言葉集でありますと共に、私には到達し得そうにない理想の言葉集のように思えます。そこで、親鸞聖人のお立場とはどう言う関係にあるかについて、考察してみたいと思いました。

親鸞聖人も、恐らくこの法句経の言葉をご存知だったと思います。そして、この理想像に向けて、20年にわたって比叡山での修行を積まれたものと思います。しかし、どうしても自分はお釈迦様の言われる理想像にはなり得ないと言うところで、大いに焦り、悩まれたものと想像致します。そして万策尽きて比叡山を下りられたのだと思います。

私達には理想があり、その理想に近付けないからこそ悩むのですが、親鸞聖人が思い描かれていた人間の理想像が高かった(自己の心の中の仏性に目覚められた)からこそ、私達よりも悩みは深かったのだと思います。しかし幸いにも法然聖人との出遭いによりまして、そう言うどうしようもない煩悩具足の凡夫をこそ必ず救い取ると言う阿弥陀仏の本願の教えに辿り着かれ、お釈迦様の理想像とは趣きは異なりますが、しかし煩悩を抱えたまま、凡夫のままで、しかし何にも妨げられない無碍の一道(むげのいちどう)の信心歓喜、称名念佛の道を歩まれたのだと思います。

人間の生まれ持った素質によりましては、田中耕一さんのように、お釈迦様の理想を簡単に実現される方もありますが、煩悩の強い、あくの強い私には、やはり親鸞聖人の辿られた道を一歩一歩踏みしめて行くしかないと思う次第です。


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No.227  2002.10.31

続―人生の最優先事項

先週の木曜コラム『人生の最優先事項』に対して、コラム読者さんのお一人(20歳代のOLさん)から下記の感想メールを頂きました。

大変お久しぶりです。
Tです。
24日のコラムを読んで久しぶりに感想を書いてみたくなりました。
『あなたの生きる目的は何ですか?』
『あなたの生き甲斐は何ですか?』
『あなたが生きる上で一番大切にしているものは何ですか?』
『あなたの生活信条は何ですか?』
この質問についての大谷さん自身の回答を是非お聞きしたいです。

私にはほとんど何も答えられないです(笑)。私が答えられるのは3番目だけかな。家族や愛情が一番大事だな。

これらの質問は自分の生活や仕事や環境に自信や満足感を持っている人でないと答えられない気がするなあ。というと私は自信もなければ満足もしていない、ウウム。となってしまいます。

以上が、Tさんのメールです。この後に個人的な近況報告の内容がございますが、割愛させて頂く事に致します。

さて、人生の目的、生き甲斐、一番大切な事、生活信条に分けて質問文を書きながら、私の解答は明確に致しませんでした。と言うよりも、即答する解答は、私にも未だ固まっていなかったからです。

本当は、『仏法を自分なりに極めて、お釈迦様、親鸞聖人のご心境に到達して、仏法を継承し、現代に、そして次の世代へ伝達する役割を果たしたい』、これが私の即答したい人生の目的であり、生き甲斐であり、一番大切な事なのですが、未だ、心の底からそう思えていない自分を感じましたので、差し控えさせて頂きました。勿論こう答えられる日は、もっともっと先かも知れません。ヒョットすると、そう言う即答が出来るようになりたいと言うのが、私の目標と言うべきかも知れません。

しかし、Tさんから問い合わせを頂きまして、私は、コラム読者さんに質問を投げかけながら、自分の解答を明示しないのも如何かと思い、現時点での考え方をまとめさせて頂き、下記のお答えメールをTさんに差し上げました。

Tさんへ
いや本当にお久し振り、僕も最近貴女の日記(ホームページ)を1回覗きました・・・・。
相変らず、現代的軽妙な文章はさすがだと思いながらね。

いや僕も、街角で突然あの様な質問をされたら、さっと答えられません。Tさんと同じです。私の妻も同じ様です。殆どの人がそうではないですか?一度、ご両親、兄弟、友人に聞いて見て下さい。『あんた、突然なによ!どうかしたん?』って事になるでしょうね。それだけ、私達は、世間の目の前の事に心が奪われて、東奔西走(とうほんせいそう)しているんですね。私もそうなんです。でも、ゆっくりと、自分の心と対話致しますと、次のような事になりますでしょうか。

> 『あなたの生きる目的は何ですか?』

> 『あなたの生き甲斐は何ですか?』

> 『あなたが生きる上で一番大切にしているものは何ですか?』

> 『あなたの生活信条は何ですか?』

●あとがき:
Tさんのコメントに『これらの質問は自分の生活や仕事や環境に自信や満足感を持っている人でないと答えられない気がするなぁ』とありますが、たとえば、人生の目的として、『仕事を成功させて出世したい』『大金持になりたい』『有名なタレントになりたい』と言う世間における名誉・財産を得る事においていましたら、確かにそれなりの充実感はあるのでしょうが、これは人生を通じて永続致しません。もう少し高次元の目的でなければ、年老いて現役を離れたら挫折感を味わう事になると思います。

人生とは何か?これは簡単に解答が出来るものではなく、一生掛けて答えを見付けるものかも知れません。しかし、その時々、自分が何の為に生きているかを自問自答する機会があっても良いと思います。

仏法は自己を問い直す事であると先師はおっしゃっています。問い直す事なく日々の生活に翻弄されたまま、人生の幕を閉じるのは、折角の人身を受けながら真に残念だと思います。

浄土真宗の蓮如上人は、お葬式でよく聞く【白骨の御文章】の中で、『されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり』と『後生の一大事』と申されてますが、これは、私達の死後、地獄に落ちる事を一大事と捉えられての表現のようですが、私は、ただ今、生きている人生の最優先事項の事を指していると解釈しています。

若い人には、仏法は年老いてから聞くものだと言う感覚があると思いますが、人間は年齢順に亡くなるものではありません。生まれた瞬間から、死と隣合わせの生を生きている訳です。
何時死んでも良いように、『後生の一大事』を解決しておかねばならないと言うのが、浄土真宗の教えであります。

仏前でお経をあげる。座禅をする、法話を聞きに行く、本を読む、他の人と人生について一緒に考える。そう言う時に、自分を問い直せると思います。それを継続していきますと、人生の最優先課題も知らず知らず、頭の中だけではなく、身を持って解決して行くのだと思います。

Tさん、有難うございました。


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No.226  2002.10.28

法句経(ほっくぎょう)に聞く―5―

●まえがき:
少し前のコラムで『愛別離苦、怨憎会苦』と言う『苦』を取上げました。今日の法句経『愛するものに会うなかれ』は、その源となるお釈迦様のお言葉だと思います。

今日の法句経を表面的に読みますと『人を愛する事』を否定されているように受け取ってしまい、お釈迦様の事を、人間味の無い、暖か味の無い人間像として描いてしまいますが、そうでは無くて、私達の誰でもが陥ってしまう『愛するが故の苦しみ』を例として、苦の根源と、苦に遇わない為の道標(みちしるべ)を示されたのだと思います。

『愛を育む(はぐくむ)』と聞きますと、愛は美しく清らかなものと言うイメージが湧きますが、残念ながら私達人間の愛には必ず『執着』と言う邪魔物、魔物がぴったりと寄り添います。寄り添うと言うよりは、自分への執着を愛だと勘違いしていると申しても過言ではないと思います。

親子愛、夫婦愛、恋愛、何れも自己愛が出発点です。恋愛は、自分を愛してくれる相手だからこそ深く愛し合うようになりますから、相手の裏切りに遇うと、愛は即刻憎しみに変わってしまいます。また、何れの愛も、相手が限定されておりますから、実に排他的なのです。ですから、私達の愛はキリスト教の神様の愛、仏教の仏様の愛(仏教では慈悲と言いますが)とは全く異なり、愛を育てながら、苦も同時に育ててしまいます。

ただ、自己愛と執着心は、私達が生まれながらにして持たされている本能であり、私達を突き動かす極めて強い力です。仏教では『無明煩悩(むみょうぼんのう)』と申しまして、理論的に説明出来ない感覚的なもの、即ち動物的本能です。たとえば、異性を求める感情は理性で抑え込む事が出来ない本能です。私は、地球上に初めて生まれた単細胞を出発点として、数億年と言う永き間、遺伝子を受け継いで今日の私がありますから、闘争本能にせよ、欲望そして執着と言う本能も、私の細胞に埋め込まれた遺伝子(DNA)の為せる仕業だと考えています……。

理論的に説明出来ないと言うもう一つの例をあげたいと思います。私達夫婦は結婚以来、8箇所に移り住みました。はじめの5箇所は賃貸住宅でしたが、それでも『住めば都』と言う通り、一度住み着きますと、その土地への執着心が芽生えます。家を買おうと思う時、必ず、その時点で住んでいる近くの物件にしか興味が湧かないものです。しかし一旦その土地を離れれてしまえば、あれだけ執着して離れる事に抵抗していたはずなのに、またしても新しい住み処(すみか)に愛着が生まれると言う経験を繰り返して来ました。

3年前に建築した現在の家は既に売却手続きをしています。9件目は再び賃貸住宅に移る事になりますので、今の家にはこれまで以上に離れ難い感情を感じています。売却を決断しながらも、出来れば住み続けたいと言う想い(執着心)はどうする事も出来ません。持つが故の苦しみである事を実感しています。

現在握り締めているものへの執着は、私達の理性から説明は付きません。本能である事がよく分ります。お釈迦様は、愛を否定されたのではなく、愛の根源にある本能、執着心に身を任せるなとおっしゃりたいのだと思います。

●法句経220:愛するものに会うなかれ

愛する者らと
相逢うことなかれ
愛せざるものらとも
又しかるべし
愛するものを見ざるは苦
愛せざるものを見るは又苦

●友松円諦師の註釈:
愛するものに会ってはいけない。愛していないものについても亦同じである。なぜならば愛するものを見なければ悩み、愛するものを見れば、又悩むからである。

●私の意訳:
人を愛すると言う事は苦しみを産む事であるから、愛する人と遇わないようにした方が良い。また愛する事が出来ない人達と交わる事も避けた方が良い。 愛する人と一緒に居られないのも苦であり、愛せない人を見るのも苦だからである。

●あとがき:
お釈迦様が亡くなられる時、弟子の阿難が尋ねました。『私に一つお尋ねしたいことが残っております。それは自分の心を考えて見ますと、どうも女性に対する心が未だ落ち着きませぬ。どうしたらよろしゅうございましょう』とお尋ねしました。お釈迦様は簡単に、『女性には逢わない方が良いだろう』と言われました。『しかし、もし万一、女性に逢ったならば?』『見ぬがいい』『もし見ましたら?』『愛着せぬがいい』こう答えられました。執着心を戒められたのです。

また、お釈迦様は6年間のご修行の後、暁の明星を見て忽然とお悟りになりましたが、お悟りになられて直ぐに自分の故郷に帰られました。そこにはヤショーダラと言う自分の妻がいます。弟子を連れていかれますと、ヤショーダラは、それはもう心のたしなみを止めかねてお釈迦様の姿を見るなり、お釈迦様に抱き着かれました。弟子は、これを引き離そうとしましたが、お釈迦様は、弟子を制止し、彼女の思いのままに任されました。お釈迦様は、女に逢わぬ方がよいと言われる一方で、その愛を否定された訳ではありません。智慧の目で自然の執着心を整頓せられていたのです。『執着しないが良い、愛は執着するから行き過ぎる。だから自己の破滅に駆られていくのだ。この執着心の勢いに溺れ、乱れ、脱線していくのだ。この己に執着する心、煩悩を智慧で整頓する事が大切だ』と説かれたそうです。

仏教は、欲を否定するものではありません。『小欲知足(しょうよくちそく)』と言う仏教の言葉があります。欲に任せず、欲を制御する事を説いている訳ですが、『苦しみたくなければ、執着心に任せないようにしなさい』と、お釈迦様はおっしゃりたいのだと思います。

常に仏法を聞き、お釈迦様の言葉を聞き続けなければ、私達は、欲を際限なく脹らませてしまいます。論語の『君子危きに近寄らず』は、むしろ欲が起る事を未然に防ごうと言う事なのだと思います。『愛するものに会うなかれ』は、そう言う意味も含んでいるのでしょう。

ここまで、執着心を悪者として扱って来ましたが、友松円諦師は、そうではないのだと、次の様に申されています。これはお釈迦様のお考えでもあろうと思いますので、長くなりますが、付け加えたいと思います。

『従来の仏教の考え方からは余り珍重されないが、人間が築き上げた文明をじっと味わって見ると、何かこの執着の力と言うものこそが、使い様によっては文明の母で有り得たのであるまいか。だから執着と言うものは、人間の持つ一つの精神の力、作用であって、そのもの自体として、善いも悪いもあるものじゃない。善悪ではなくして一つの力だ。その力を善く使えば、文明の母として善いものになりましょう。もし悪く使えば、仏教で言う煩悩とか執着とか言うものになりましょう。よく考えて見ますとその執着の力は、その力の行手がちゃんと分っている時、即ち、理想、目標に方向づけられていれば、それは一つの尊い文明の礎になるところの力です。人を救い、社会を益するところの本願力になります。己を利するだけで、何の理想も無いような執着こそは、確かに自他を悩ます煩悩だ。この盲目的な力でありますところの執着に利他的社会的な方向付けをする、一つの目標をつけてやると言うことが私達現代に住むものの任務ではないだろうか』

まさにこの通りだと思います。


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No.225  2002.10.24

人生の最優先事項

世間を過ごしていく上で大切なのは、何が一番優先事項かを考察し実践出来る能力だと思います。最優先事項を誤ると、企業に限らず、国も混乱致します。今の日本がその状態だと思います。

現在の日本の最優先課題は、雇用情勢の回復だと思います。実質的失業者は1000万人を超える言われます。私も二十数人の失業者を出した経営者ですから、大きな顔をして言える訳ではありませんが、今政府が最優先で取り組むべきは、雇用情勢を回復させるために産業の息を吹き返させる事です。小泉首相は、ハンセン氏病、北朝鮮拉致被害の弱者救済と言う歴代首相が出来なかった事を前進させました。弱者への思いやりは評価したいと思いますが、しかし、今日本で悲鳴を上げている多くは経済的弱者です。中小・零細企業経営者とその家族、そして日本のサラリーマンの90%が働く中小・零細企業で働くサラリーマンとその家族です。現在の日本の最優先課題は、その3千万人乃至4千万人の経済的弱者を救う事であり、小泉首相の取り組むべき最優先課題だと思います。

よく個人金融資産が1400兆円あると聞きますが、庶民の多くは住宅ローンの支払に四苦八苦し、資産デフレの為に、家を売って出て行く事も出来ないと言うのが実態です。3年前に20兆円を中小・零細企業に貸し出し、一時期景気が回復しかけた事がありました。銀行に注入するより中小・零細企業にお金を注入すべきだと思います。そうすれば初めて消費が活発になり、デフレを食い止められ、株価も上がり、不良債権問題も解消するはずです。不良債権処理を最優先としている限り、日本の危機、私達の生活の危機は、続きます。政府与党が一体になって、日本の最優先課題は何かを決めて欲しいと思います。

さて、個人の最優先事項は何でしよう。個人も最優先事項を間違うと、人生を棒に振ります。
うっかりすると、何時の間にか欲望(財産欲、名誉欲、食欲、性欲、睡眠欲)の満足が最優先となり、マスコミのネタになる転落の人生にさえなります。

『あなたの生きる目的は何ですか?』      『……』
『あなたの生き甲斐は何ですか?』     『……』
『あなたが生きる上で一番大切にしているものは何ですか?』     『……』
『あなたの生活信条は何ですか?』     『……』

街角で突然上記の様な質問されて、即答出来ますでしょうか?
即答出来ないと言う方が結構多いのではないでしょうか。そんな事を常に考えて生きている人は稀だと思いますし、普通は、明日あの人と会った時はこうしなければとか、明日の服装はどうしょうとか等と世間の対応に忙殺されているのではないでしょうか?しかし、やはり人生の基本(何故私は生まれて来たのかと言う事)は抑えておく必要があります。世間の出来事に一喜一憂するのも悪くはありませんが、自分の目的地はきっちりと把握しておかねば、糸の切れた凧と同様、また、船長のいない外国航路の船舶と同様、何処に行き着くか分りません。船長がいなくとも、航海士と操縦士だけでも船は進みます。しかし、航海は穏やかなものとは限りません。嵐に遭遇したり、突発的な事態に陥った時には、やはり冷静な判断が出来る船長さんがいなければ、目的の港には行き着きません。

人生も同じです。欲望・本能に従って行動しようとする自分(航海士)がいます。そして、理性で行動を選択する自分(操縦士)がいます。普通は理性の自分が勝っているので、過ちは致しません。しかし理性は、損得勘定とか善悪勘定です。他人からどう評価されるかと言う勘定です。理性は生まれてから身に付けた知識です。理性だけで解決出来ない事態が人生には発生します。

後悔の無い人生の目的地に着くためには、私達の心を統御する船長さんが必要です。

人生と言う海を渡る上での船長さんとは、私は宗教だと思います。私は仏教徒ですから、船長さんは、仏法の真理だと思います。どう言う真理かと言う質問があると思いますが、これは仏法を浴びる程聞きながら世間の荒波を渡って行くうちに、はっきりして来るものだと思います。

私の尊敬する、故井上善右衛門先生は、『私達は仏法を聞く為に生まれて来たのだ』と言われました。名誉・財産を勝ち取るために生まれて来たのではないのだと………。

人生の最優先事項は、何の為に生まれて来たのかを問い直す事だと思います。


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No.224  2002.10.21

法句経(ほっくぎょう)に聞く ―4―

●まえがき:
四苦八苦と同様に、私達がよく使う『ありがとう』と言う言葉も仏教を語源としています。
今日の法句経テーマの『有ること難し』が『有り難い』となり、『ありがとう』となったものだと思います。ですから、『ありがとう』はもともとは『滅多に無い、稀にしか起らない』と言う意味なのです。

今日の法句経では、ありがたい事として、『人としての生命を頂く事』、『死ぬ運命にありながらも現在只今生きている事』、『仏法に出遇う事』、『仏法の体現者(悟りを開いた方)が実際に世に現れる事』の4項目を挙げています。

考えてみますと、今ここにいる事も含めて、すべては有り難い事ばかりですが、私には、なかなか有り難いとは思えないのです。生きている事が当然であり、不思議とは思えない。空気が無ければ直ちに死に至るのに、その大切な空気の存在すら忘れて生きています。ご飯を頂く事も、自分の稼ぎで食材を買って食べているから当たり前になっています。

今朝の朝食一つをとって考えましても、当たり前としか思えない私ですが、一つ一つの食材や道具を検証しますと、手に入れる事が出来た源を尋ねれば、遠い遠い過去にまで溯らなければならず、無限とも言うべき多くの人々の働きがあってこそ、今この食卓で食事が出来ている事が分ります。お米が日本の主食となるまでに携わった人々、そして今朝の食卓に届くまでに関わった人々、ご飯を炊く道具、水道水、ガス、電気、排水システム、と、恩恵は無限に受けているのです。

私はナイターテニスを致します。テニスのプレーも、ラケットとボールが無ければ出来ません。コートも要ります。プレー相手も勿論です。ラケット一つとっても、多くの素材が使用されています。ボールだってそうです。多くの人々の研究工夫の末に、そしてそれらを製造する人々のお陰で、一球のボールが打てる訳です。ナイター設備が無ければ、アフターファイブのテニスも出来ません。冷静に検証しますとテニスが出来る有り難さが分りますが、普通は、すべてが当たり前の事になって感謝を忘れているのが私です。

更に元はと言えば、地球が存在し、大気、太陽……自分が今ここにいるお陰の両親、そして無数の祖先と考え行きますと、朝食をとっている事も、テニスをしている事も、極めて有り難い事であるとしか言い様がありません。考えれば考えるほど、有り難い事に取り囲まれています。

すべてが当たり前でないと感じられるようになった時に、心からの感謝の心が芽生えます。南無阿弥陀仏とお念佛が出るのだと思います。

●法句経182:有ること難し

ひとの生をうくるはかたく
死すべきものの
生命あるもありがたし。
正法を耳にするはかたく
諸佛の出現もありがたし。

●友松円諦師の註釈:
人間として生まれることは難いことである。死すべきものの地上に生命あるも難いことである。すぐれた真理を耳にすることも亦難いことである。仏陀がこの世にあらわれ賜うことも亦難いことである。

●私の意訳:
私達が今こうして人としての命を受けた事は、実に稀なことです。
更に、やがて死ぬ運命にありながら、 今こうして生きている事自体も、有り難い事です。
その上、仏法をこの耳で聴くことは、実に有り得ないと言って良い位に稀なことです。
仏法を体現した悟れる人々が、この世に現れる事もまた更に稀なことです。

●あとがき:

今回のテーマは、有り難い事についてですが、本当に有り難い事ばかりの人生である事は、冷静に考えれば、その通りであります。

最近、私達夫婦は、お経の前に、末尾の礼讃文を読み上げますが、読み上げながら、心の底から『人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く』とは思えていない 事に気付かされます。本当にそう思えたら、私はお釈迦様と等しいと言えましょうが、思えない私は、仏から遠い遠い存在なのだと思います。

しかし、折角生まれ難い人間に生まれたのですから、世間の名誉・地位・財産を人生の第一目的には生きたくないと思うようになりました。人生目的を間違えますと、とんでもない方向に迷い込みます。

私がそうですが、幼い時から競争社会に身を置いた人間は、どうしても世間の名誉・社会的地位・財産を、他人よりも優れて多く獲得するのが人生の目的になり、それが幸せなのだと思ってしまいます。これは致し方無い道理だと思います。仏教に帰依していた私の母も、やはり教育ママでした。勿論、道徳的・倫理的に間違った事には、厳しく指導はあったと思いますが、勉強第一でもあったと思います。勉強さえしていれば、頭を撫でられていたように思います。

人間の価値は、世間の名誉・地位・資産で決るものでは無いと言う正論だけで、子供を育てる勇気は誰しも持ち得る事は難しい面もあると思いますが、やはり仏教徒は、そう徹するべきだと思います。私の母も、それを充分認識しながらも、私達5人の子供の教育の実践場面では、世間の名誉・地位・財産の重要さと、信仰心と真心で生きて行って欲しいと言う狭間で揺れながら、未亡人32年間を精一杯私達子供のため、また仏教興隆の為に生き抜いたと思います。

私の父は、私が小学校5年の時に交通事故死しました。父は、増田製粉と言う大証2部の上場企業の役員をしている時に亡くなりました。社葬もして頂き、また死後20年経過しても、墓参に来てくれる同僚・部下の方々がありましたので、多分、父は、世間の名誉・地位・資産に命を賭けず、真心で会社の仕事に、また同僚に接したのだと、想像していますから、私も、父に近付きたい、せめて7回忌位までは、墓参して頂ける『一隅を照らす人物』になりたいと思います。

以前のコラムで前述の『一隅を照らす』と言う事をお伝えしましたが、人生の目的・目標は、ノーベル賞のような大きな事はしなくとも、仏法と言う真理を聞きながら、自分と縁のある人々との付き合いの中で、心と心の交流により支え合い、心豊かな人生を全うする事に尽きると思います。

私は、この度世間における名誉・地位を失い、財産もすべて失いつつある時になって初めて、人の情の有り難さを身に沁みて感じる事が出来ました。世間における問題は、やがて世間の中で解決していくものだと思います。しかし、真心と言うものは、世間の中だけでは生まれないと思いますし、味わえないと思います。真心(まごころ)は、信心(しんじん)そのものだと思います。私は、この度、幾人かの真心に接しさせて頂きました。私が真似することも出来ない真心に遇い、人生観は確実に変わったと思います。

今回の法句経ではないですが、本当の有り難さに出遭ったと言うことだと思っています。



この写真の花は『極楽鳥花(ごくらくちょうか)』と言います。
友人が私たちの幸福を呼ぶためにプレゼントしてくれました。
初めて見ましたが極楽鳥を思わせるありがたいお花です。
ありがとうございました。

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No.223  2002.10.17

愛別離苦・怨憎会苦

『この問題の解決には四苦八苦(しくはっく)した』と言う表現をする事があります。この四苦八苦は、ご存知の方も多いと思いますが、仏教を語源としています。

四苦は、生・老・病・死の四つの苦。八苦は、生老病死以外の四苦、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)のを加えたものです。五蘊と言わず、五陰と言う事もあります。

今回は愛別離苦と怨憎会苦について考えてみたいと思います。

愛別離苦とは、愛するものと別れなければならない苦しみ。そして、怨憎会苦とは、気の合わない人と付き合わなければならない苦しみです。どなたも例外なく、両方の苦の経験をお持ちだと申しても良いと思います。万一お持ちで無ければ、生まれながらの仏様と言うしかありません。

この二つの苦しみに限りませず、八苦ともに、我が身可愛さから生じる苦であります。我が身が可愛いからこそ、生じる苦でありますから、禅門の悟りを開いた人も、浄土門の安心(あんじん)を得た人も、例外なく、すべての人が感じる苦と言って良いと思います。

私は、敢えて『禅門の悟りを開いた人も、浄土門の安心(あんじん)を得た人も』と申しました。私は、血の通う人間ならば、やはり、好ましい人との別れは辛いし、気の合わない人と付き合うのは出来る限りは遠慮したいと言うのが正直なところだと思います。しかし、悟りを開いた方も、浄土門の安心(あんじん)を得た人も、苦痛は苦痛と感じると思いますが、苦痛が悩みに発展して、自らを苦しめ続けるものではないのだと思います。前のコラムで申しました、第一矢は受けても、第二矢は受けないと言って良いでしょう。

悟りを開いたから、肉親の死も悲しくないと言うのは、私は仏教のお悟りではないと思います。また自分が癌を宣告された、しかし、何れは死ぬ存在だから別に苦しくもないと言うのも、どこか間違った悟りだと思います。仏教は、そう言う非人間的な心境へ導くものでは決してありません。

『第一矢は受けても、第二矢は受けない』と言う事を申しましたが、苦しみは苦しみとして存分に受けて苦しむしかない(これを第一の矢と言う)、しかし、苦しみが悩みとなってはいけない、即ち、何故自分がこんな目に遇わなければならないかとか、あの人のお陰でこんな目に遇っている、実に運がない、何とかして逃避出来ないか、何とかして前の状況に戻れないかと心を悩ます(これを第二の矢と言う)事は無くなると言うのが、悟りとか安心を得たと言うのだと思います。

仏教は、呪い(まじない)でも無いし、超能力を得るものでもありません。しかし仏法を身に頂く事により、災いがそのまま災いでは終わらない、災いを縁として仏道の心境が深まり、災いが災いと感じられなくなるものだと思います。悲しみも悲しみのままでは終わらず、悲しみが悦びに転じると言う奇跡が起ると思います。

怨憎会苦について

怨憎会苦の代表的なものは、サラリーマンの上司との関係と、嫁姑の関係、そして隣家との関係だと言って良いと思います。

私もすべて経験致しました。その中で、サラリーマン時代の上司との関係について、紹介します。私から見ると軽蔑するしかない上司に回り逢って、しかも15年間縁が切れませんでした。しかし、彼は社長にとって有能だった訳で、常務へと上り詰めました。自分の元上司がたまたま組織上の部下になった人に、君付けで呼んだ事に象徴されるのですが、北朝鮮の恐怖政治そのものでした。私はあからさまに抵抗したため、昇進の道は閉ざされたのは当然だったと思います。

その会社で19年間勤務しましたが、尊敬出来る上司に回り逢ったのは、一人か二人です。それも瞬間的でしかありません。これは、それ程尊敬出来る人間が少ないと言う事ではなく、私の心の中に問題があったと今は思います。私は、怨み憎しむべき心の持ち主が相手側だと思っていましたが、実は、自分の心の中にその怨み憎むべき心を持ち続けていたと言うより外はないのです。

会社を辞める頃、自分も管理職になり、漸くかの怨憎会苦の常務について、彼も彼なりに踏ん張っていたのだと理解が出来るようになっていました。しかし、どうしても好きと言う感情は芽生えませんでした。人間として理解する事と、相性と言うか好き嫌いは別問題ですね。

今思うに、私が自分と言うものがどれほどの人材かを自覚していたら、もっと尊敬すべき上司に回り逢っていたと思います。結局は、自分の器が小さい故に、他人の器を正当に評価出来なかったのだと自戒させられています。尊敬すべき上司に回り逢いながら、ただ自分の慢心・驕慢により、上司を正しく評価出来なかっただけだと思います。いや、他人を評価するだけの値打ちも無い自分だと思います。

愛別離苦について

15日に北朝鮮から5名の方が一時帰国されました。愛する我が子と24年も別れ、その消息も明確では無かったご両親達の苦しみはいかばかりだったでしょうか。私達には想像する事は出来ますが、ただ想像だけであり、実際の苦しみは到底分るものではないと思います。

しかし、誰しも、愛しい人との別れを経験します。親との別れ、子との別れ、配偶者との別れ、恋人との別れもあるでしょう。愛が深ければ深い程、別れる苦しみは大きいものです。

仏教では、これらの苦を受けないように修行せよと言うものではないと思います。第二の矢を受けないと言う事ではありますが、それと、この苦を機縁として、自己の心を見詰めて欲しい、我執に気が付いて欲しいと言う事だと思います。

愛別離苦も、怨憎会苦も、私は人を対象に説明して来ましたが、物にまで拡大して良いと思います。大切にしている持ち物との別れもあるでしょう。嫌な役回り、仕事に就かなければならない時もあるでしょう。やはりその苦を自己を見詰め直す機縁として捉えて行くと言うのが、仏道であると思います。

世間の苦はすべて、仏法を身に頂き、深める機縁なのであります。


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No.222  2002.10.14

法句経(ほっくぎょう)に聞く―3―

●まえがき:
  『死ぬ程辛い目に遇う』、『死ぬ程怖い目に遇った』と言う表現をする事がありますが、誰にでも死は最も嫌なものであると言ってよいでしょう。それほど死を嫌うにも関わらず、日常生活では死を忘れているのもまた事実であります。自分が死ぬ存在である事すら忘れて生活していると言っても良いでしょう。

  しかしまた反面、誰しも自分の死については考えた事もないと言う人もいないと思います。私も幼い頃から、夜寝る時や、夜の星空を見上げた時等の独りになった時にはふと自分自身の死について考える時がありましたし、今でもあります。

  であるにも関わらず、通常は、明日も生きている事が当たり前であり、それを前提に明日の計画を立て、一週間後の予定を立て、いや一ヶ月後、数ヶ月後、数年後の心配まで致します。

  死は人間にとって最重要問題であるはずなのに、何故か直視しようとはしないのが普通一般の人間だと思いますが、仏法の教えは違います。先ず死の問題を解決せよとまで申します。今日の法句経は、この死に関するお釈迦様の見解の一つです。

●法句経6:死の領土にあり

われらはここ
死の領域に近し
道を異にする人々は
このことわりを知るに由なし

このことわりを知る
人々にこそ
かくしていさかいは止まん

●友松円諦師の註釈:
『私達はここでやがて、死なねばならないのだ』このことを他の人々は、ほんとうに気付かないでいる。誰でも、もしこの事を自覚するならば、その人には、もはや、あらそいというものがなくなってしまう。

●私の意訳:
私達は、自分は何時までも生きているかのように思うけれども、今現在、既に死の隣にあります。仏道を歩まない人には、この道理・真理を知る由もありません。
この道理・真理を本当にわきまえた人は、もう、争っている訳にはいかなくなるでしょう。

●あとがき:
  道を異にする人々とは、仏教徒以外の人々と捉えて良いと思います。欧米、そしてキリスト教では、死を忌み嫌うところがありますし、死ねば終わりと言うところがあり、お墓をあまり大事にしない傾向にあるようです。

  仏教では、お釈迦様の誕生日(4月8日)も亡くなられた日(2月15日)も共に降誕日、涅槃会として大切にしますが、キリスト教ではキリストの降誕日(12月25日)をクリスマスとして祝いますが、亡くなられた日は重要視されていないようです。

  仏教では、先ず、明日にでも、いや次の瞬間にも死ぬ存在である事を自覚せよと申します。
次の瞬間に死ぬ可能性があるのは間違い無い事実である事は誰にも理解は出来ます。新聞報道の事件・事故を見てもそうです。神戸の震災でも、一瞬の中に多くの人命が失われました。昨年のニューヨークの同時多発テロの時も、考えられない事が起り、一瞬の中に数千人の人命が失われました。次の瞬間に死ぬ事もある事は事実ですから、頭では死と隣り合わせと言う事は理解しています。

  しかし、自分は明日死ぬかも知れないとはどうしても思えないと言うのが私です。だから、今の瞬間を大切に生きると言う事も出来ない訳です。仏教では、自分の命が明日をも知れないものだと分れば、精進するものだと言う考え方を致します。今日の法句経でも、お釈迦様は『死と隣り合わせと言う事が分れば、他人と争そっている訳にはいかないだろう』とおっしゃっています。

  私も未だ死を直視出来ていません。だから死を乗り越えていません。そして死のカーテンを外せていません。生きている限り、死の恐怖が無くなるものではないと思いますが、仏教の無常観を体得して、せめて今日一日の命を大切に生きて行けるようになりたいと思います。

  無相庵カレンダーの12日のお言葉『世の中は、今日より外はなかりけり、昨日は過ぎつ、明日は知られず』の通り、真っさらな一日、一日を生きて行ければと思います。


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No.221  2002.10.10

あなた、気は病んでいないでしょうね!

  真屋順子さんと言う女優さんがいらっしゃいます。昔、歌手の前川清さんと一緒に、萩本欽一さんの番組『欽ちゃんのどこまでやるの』のレギュラーとして活躍されていた事が私には印象深く残っています。

  久しくテレビでもお目に掛からないと思っていましたが、その真屋順子さんが、先日NHKの番組に出演されていました。私は真屋さんがご病気である事を知らなかったのですが、一昨年、脳内出血により数日間意識不明になり、意識が戻られてからは左半身が不自由となられ、女優活動をストップされていたそうです。それ以来初めてのテレビ出演だったそうですが、勿論その体験に関する話をお聞きすると言う趣旨の番組企画でした。そのお話の中での印象深い言葉が今日の題名、ご友人からの『あなた、気は病んでいないでしょうね!』です。

  真屋さんも、病を身に受けられた当初は絶望のどん底にあり、自分がそう言う状態にある事を友人・知人にも伝えたくなかったと言う事で、外部との接触は殆ど断たれ、家族に介護されての生活を送られていたそうです。家にあっては、それまで一切の家事を真屋さんに頼っていたご主人とご長男が手分けしてくれて、家族の有り難さも心に沁み、これまでに無い気持ちの通じ合いも経験されたようですが、心は決して晴々とはならなかったそうです。

  そう言う生活を送っているある日、友人との電話の中で、その友人から『あなた、気は病んでいないでしょうね?』と言われたそうです。この一言で、真屋さんは、はっと気付かされ、『体は病んでいても、心まで病んでいてはいけない』と心を転換されたそうです。それからは隠し立てせずに自分の病を他人に伝えるようになったそうです。車椅子に乗って、体験発表をされたり、舞台への復帰を目指してリハビリに励まれるようになったそうです。

  左半身が不自由な事は不自由だけれど、幸いにも口が動いて喋れる事に感謝されていると言う事ですが、『ないものねだり』から『ある事の有り難さ』を感謝されると言う心の転換を果たされました。『普通である事の幸せ』を思い知らされている私には、ビンビンと響く体験談でした。

  一つの言葉が一人の人の人生を変える事があるとは聞いていますが、それは、聞き手の心の中の葛藤状態とのタイミングが合った時であろうと思います。この『あなた、気は病んでいないでしょうね?』と言う言葉が病んでいる人すべてを救うものではない事も確かです。真屋さんも必死で出口を探しておられて、もう少しと言うところで、図らずもこの言葉に遇って、心の病からの出口を見出されたのだと思います。

  この真屋さんのお話しをお聞きしながら、お釈迦様の説法の中の、「第二の矢」という教えを思い出しました。その『第二の矢』の教えの中でお釈迦様は、悟りを開いた人でも肉体的な苦痛が無くならないことや、感受性が変わらないことを説いておられます。悟った人でも、足にとげが刺されば痛いし、花を見れば美しいと思います。しかし、これを「第一の矢」とするならば、普通の人はそれに続いて「第二の矢」を受けてしまうと言う訳です。けがや病気をすれば『何故私がこんな目に遇わないといけないのか』『何とかして、あの時の幸せな時に戻りたい』と悩み苦しみますし、美しいものを見れば何とかして自分のものにしたいと執着します。それが第二の矢です。
白隠禅師が「三合五勺の病気に八石五斗の気の病」と言っておられますが、本当はこちらの気の病の苦しみの方がはるかに大きい訳です。このような第二の矢を受けないのが、仏教においては、禅門では悟りの心、浄土門では信心なのです。

  真屋さんは、第二の矢をお友達の一言で、自ら抜き取られたと言う事になります。そのお友達も、多分同様に心が病む様な経験をされた思慮深い方なのだと思いますし、一生の友になった事だと思います。

  私も公私共に破産状態ではありますが、心だけは破産しない様に踏ん張っています。こうしてコラムを書かせて頂く自体、自分の心と冷静に向き合う時を与えて貰っていると思いますとともに、一種のストレス発散をさせて頂いているとも思い、真屋さんのお話しを聞きながら感謝した次第です。

  そして私は今回、色々な方から、色々なお励ましを頂きました。苦境の中にある事は不幸には違いありませんが、その不幸にお釣が来る位の優しさ、人情に出会いましたし、それに引き換えての自分のお粗末さ加減にも気付かされました。こんな目に遇わなかったら、とんでもない人生になったと思います。第一の矢を受けて、第二の矢を受ける前に、第一の矢を放ち返す位の気構えで、望みたいと思います。


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