No.200  2002.07.29

白隠禅師座禅和讃に学ぶ ―1―

●まえがき:
  仏教は、世間における苦難そのものを解決する事に関しては、役に立つものではありません。しかし、関係がないものではありません。関係がないならば、何びとも宗教を求めないし、仏教を求めないと思います。むしろ苦難があるところにこそ、仏教の光明が光り輝かなければならないと思います。

  苦難は誰にも必ず訪れるものです。その苦難から逃避する事なく、真正面から受止めて、逆に立向かって行く気力を与えるものが、宗教であり、仏教でなければならないと思うのです。経営危機と言う苦難の中にある今だからこそ、私は、改めてそう思います。

  仏教の先輩の言葉であったかどうか定かではないありませんが、『順境に一歩退き、逆境には一歩進め』と言う事を聞いた事があります。人間はなかなか不動の心を持ち得ないから、敢えてこのような表現を取られたのだと思いますが、『世間では楽しい事もあり、苦しい事も起るが、これにいちいち動ずることなく、生まれ難い人間に生まれた意味を噛み締めて精一杯人生を生き抜きなさい』と言う事だと思うのです。そしてそれは、蓮如上人の『仏法を主とし、世間を客人とせよ』と言う事だと思います。

  また、これから勉強する禅の言葉に言い換えるならば、『随所に主となる』即ち『衆生本来仏なり』と言うこの座禅和讃の冒頭の宣言になるのだと思います。

  私は、今、世間におけるところの大きな苦難を受けております。決して心が安定している訳ではありません。しかし、世間の真実は、地獄を覗く様な苦難を受けなければ分らないと言う事がはっきりし出しております。

  表面に現れている世間は虚仮とも言うべきものです。損得を離れた友情の世界とか、義理人情の世界とか、仲良き事は美しきかなとは、実に表面的なものであった事が実感される時が来ます。私の心も、他人の心も、凡夫の心底をえぐり出せば、我執や損得しかないと言う事がはっきりする時が、誰の身にも必ず起こります。

  しかし、そう言う目に遇わないと、私のような凡夫は人生を深く洞察出来ません。自分が凡夫である事を認識出来ません。従って仏心に出遭う事が出来ません。苦難に遭遇する事は辛い事ではありますが、これが仏様の智慧と慈悲ではないか……今、私はそう感じています。

●本文:
衆生本来佛なり。水と氷の如くにて。水をはれて氷なく。衆生の外に佛なし。

●現代直訳:
私達衆生は、もともと佛以外の何ものでもない。ちょうど水と氷の関係と同じなのである。氷が溶けて水になるように、私達衆生の外に仏がある訳ではない。

●註釈:
  衆生(しゅじょう)は、梵語のsattvaを漢訳したもので、元々の意味は、一切の生物、一切の人類や動物、或いは有情(うじょう)と言う事ですが、この和讃では、私達人間、私達凡夫を指していると考えて良いでしょう。

  ですから、冒頭の言葉を言い換えますと、『私達凡夫は、もともと仏なのである』と白隠禅師は宣言された事になります。

  仏と言う言葉にも色々な解釈があります。この大宇宙そのものとか、宇宙を動かす働きだと言ったりすることもありますが、そう言う意味を含みつつも、この座禅和讃では、覚りを開いた人、即ちお釈迦様のような人と解釈して良いと思います。

  しかし、『凡夫はもともと仏である』と言われても、『はいそうですか、その通りです』とは頷けません。しかし、『水と氷の関係と同じ事だ』と説明されますと、少し耳を傾けたくなります。確かに、水が0℃以下になると氷になりますが、どちらも酸素原子一つに水素原子が二つ結合した分子であり、本質は変わりません。水と氷だけではなく、雨も、霰(あられ)、雹(ひょう)、雪、露、霧、霜、すべては同じ分子であります。全く同じであるがまるで違う、まるで違うが、全く同じであると言う表現が出来ると思います。

  ところで、水と氷の違いは何でしょうか。水は温かいが氷は冷たい。水に形は無いが、氷には形がある。水は流れるが、氷は流れない。水はどんな処にへでもしみこみ、何とでも融和するが、氷は決してしみこまないし融和もしない。水は草木を育てるが、氷は草木を痛め、殺します。

  水と氷の本質(分子構造)は全く同じものですが、その形と働きは、全く正反対です。仏も凡夫も丁度そのように、全くおなじものでありながら、まるで違うものであります。仏は慈母のような温かい心を持っておられますが、凡夫は皆、他人のことなど考える暇の無いほど冷たい心の持ち主です。仏の心には色も形も姿もありませんが、凡夫の心には『俺が俺が』の固まりがあります。水がこんこんと休みなく流れるように、仏の心は、常に流れて止まらない自由な心であります。

  反対に凡夫の心は、衣食に執着し、財産に執着し、酒や色に執着し、名誉に執着し、常に何かに固着してしまい、動きの取れない不自由な心ではないでしょうか。

  この自我、我執、自己愛が凡夫と仏を分け隔てているのですが、これはちょうど、氷と水の関係だと白隠禅師はおっしゃる訳です。これは、白隠禅師独自の結論ではなく、お釈迦様が苦行を捨てられて、菩提樹の下で瞑想され、暁の明星を見て、お悟りを開かれた内容そのものなのです。

  山田無文老師は、次のように述べておられます。
  『病は自然に治癒す、医は之を助くるものなり』とは、遠くギリシャの、泰西医学の祖といわれるヒポクラテスの有名な言葉であります。それと全く揆(き)を同じくするものは、お釈迦さまの、『奇なる哉、奇なる哉、一切衆生、悉く皆如来の智慧徳相を具有す。但だ妄想執着を以っての故に証得せず』と、仰せられたお言葉であります。
  如何なる名医も、生命力の絶えた者を助けることは出来ないように、如何なる大宗教家といえども、仏性のない者を仏にすることは出来ません。瀕死の大病人が全快するのは、彼自らのなかに抱いておる、根強い生命力のたまものであって、医者や薬は、その生命力を最も発揮しやすいように、助勢したにすぎません。罪悪深重煩悩熾盛の凡夫が、大安心を得て仏になれるのも本来、かれに仏性が有るからであって、善知識の指導は、その仏性の自覚を促進するに役立つにすぎせん。そこで、『衆生本来仏なり』という、この短い一句こそ、仏法の根本原理でありまして、この一句がほんとうにわかれば、仏法はすべてわかったと言っても、過言ではないでしょう。
  お釈迦様をはじめ、歴代の祖師方が、たったこれだけの真理を、より多くの皆に知らせようと、お骨折り下さったのであります。ことに禅宗は、『直指人心、見性成仏』(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)と申しまして、一切の方便や手立てを用いず、単刀直入にひとびとの本心を指ししめして、その本心本性をはっきり見せて、直ちに仏にしてしまおうという、最も明快な宗旨であります。

  更に山田無文老師は、親鸞聖人も同じ事をおっしゃっていると、次の様に述べられています。

  中国の禅宗6祖、慧能禅師の孫に、馬祖道一禅師と言う方がおられます。この方は、6祖の禅風を受け継ぎ、中国独異の禅を大成された方ですが、この馬祖大師が好んで用いられたお言葉に、『即心即仏』と言うお言葉があります。このお言葉は、『衆生本来仏なり』ということであり、『凡夫の心がそのまま仏心だ』ということでもあります。

  即心即仏の一句は、禅宗では大切な一句でありますが、これは、元々浄土門の『観無量寿経』の中の、『是心是仏』が根拠となっていると言われています。この『観無量寿経』の是心是仏という言葉を、親鸞聖人は『教行信証』の中で、こう註釈しておられます。

  浄土教と言われ、他力門と言われる親鸞聖人の思想でも、心の外に仏の無いことを認められておるのです。しかもその譬えは、水と氷ではなくして、火と木であります。これも面白いではありませんか。火というものは、木を擦りあわせることによって生じます。しかも火は、木を離れて存在しない。その離れては存在しないことによって、木が火となってゆくのであります。

  仏から衆生が生じるのではなくして、衆生の心から仏が生じるのであります。その生じた仏は衆生を離れては存在しない。だから、衆生の外に仏なし、と白隠禅師は歌っておられます。

  末法の現代において、仏を拝む事は絶対にできないのであります。仏を見たかったら、衆生の中に、仏を見出してゆくより外、仏の拝みようはありません。そこを『衆生の外に仏なし』といわれたのであります。

  氷から水を生じますと、氷は次第に溶けて、水の量が増し、氷は水に浮いて動き出し、氷のままでも少しも邪魔にならぬことになります。
  煩悩のままで救われるとか、罪悪も妨げにならぬとかいわれるのは、そこのところでありましょう。そうなれば、放っておいても、煩悩が菩提となり、罪悪が功徳へと転換されてゆく時がくるのであります。

  そこのところを親鸞聖人は、御和讃に、

と詠われたのです。


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No.199  2002.07.25

人事を尽くすのみ

  2年前の7月から続いて来た経営危機も、いよいよ正念場を迎えた。こうしてコラムを書くのは異常であり、もう筆も進まないと言うのが本当のところである。しかし、こう言う局面を乗り越え、こう言う辛い時期を振り返って書く事は、多くの先輩経営者が既に成されている事であるので、私は、乗り越えられるか、乗り越えられないかも知れない状況の今こそ、心の葛藤も含めて、書き残したいと思う。
  これからは、これが最後のコラムと言う想いで、書き残す積もりである。

  私が、会社勤務し始めたのが、昭和43年(1968年)である。そして、色々な経緯があったものの、会社設立したのが平成4年(1992年)であるから、脱サラ10年になる。

  私は、高度成長期の約20年間をサラリーマンとして過ごし、バブル崩壊後のデフレ下の10年間を経営者として過ごした事になる。高度成長期の感覚がやっと体から抜けたのは極最近である。20年間かけて受けた高度成長のマインドコントロールはなかなか心身から抜けなかったと自戒している。

  世の中の不景気、製造業の空洞化傾向を考えると、製造業の我が社の存続は極めて難しいと言うのが冷静で常識的な見方ではあるが、幸いか不幸か分らないが、弊社が3年前に開発した基礎技術は、色々な可能性を秘めており、更なる技術開発・用途開発をすれば、大きな果実が得られると言う期待があり、何とか粘っている訳である。

  実際、多くの企業が関心を寄せてくれており、共同開発契約をしている企業も、10社弱になるが、どの企業も、開発リスクを負えない経営環境と風土にあり、お金を出して共同開発しようと言う企業は殆どない。開発に必要な智慧とお金は我が社が負担し、成功すれば、果実は貰いたいと言うのが大方の企業である。これは企業批判ではなく、時代の流れ、世界の流れから来る、日本企業の共通の宿命(共業、くごう)だと思っている。

  日本の製造業は、後進国に出来ない製品や技術を開発しなければ、どの企業も、遅かれ早かれ先細りになる事は間違いないのであるが、今の日本企業は、開発の必要性を認識してはいるものの、成功が確実ではない開発にお金は出さないのではなくて、出せないのである。そう言う経営内容であり、経営マインドなのである。勿論これはバブル崩壊後に大企業に根付いた悲しい業病である事は間違いない。

  大企業の経営層の関心は、コストダウン・リストラに集中してしまったのである。一方、日本の技術を底辺から支えて来た中小零細企業も、金融機関の貸し渋りに遭遇して、リスクのある技術開発に取り組めなくなってしまっている。勿論、不動産の価値低下により、金融機関が求める担保余力が皆無になっている事が追い討ちをかけている事は確かである。

  こんな中、開発を進めるのは非常に困難であるが、残された数ヶ月で、製品化が確実な技術開発・用途開発をして、大企業に投資を求めるしかない状況である。非常に可能性は少ないが、あらゆる努力を傾注する積もりである。

  正直なところ、ここまで追い詰められると、これまでこのコラム蘭で書いて来た『天命に安んじて、人事を尽くす』という心境には、どうしてもなれない。自分が出来る事は何でもやる、他人への支援要請は、期待が薄かろうが、1%の可能性に賭けて徹底して断行する積もりであるが、どうしても、最悪の事態における身の処し方が、ついつい頭をよぎる。マイナス思考に陥っては、この難局は乗り越えられない事も分っているので、心を奮い立たせる努力をするのであるが、私の頭を占めるプラス思考のシェアーは10%程度かも知れない。90%は不安との闘いだと言うのが正直なところである。

  良寛禅師が、『災難に遇う時は災難に遇うが良く候。これが災難を逃れる唯一の方法である』と言われているので、この事態を真正面から受止めて、苦しむだけ苦しみ、逃避せずに、毎日のハードルを飛び越えて行くしかないと言うのが、仏教徒としての最後の誇りと言えるだろうか……。

  ただ、零細企業の経営者として真剣に思う事は、日本が再生するためには、昭和30年代から40年代にサラリーマンの精神にも溢れていたチャレンジ精神を取り戻せないと、決して1980年代の日本に戻りはしないだろうと思う。ゼロリスク、ローリターンを目指す経済社会では、何れはすべての企業が破綻するに違いないと思う。

  日本を再生させるには、行政の構造改革と共に、資産デフレ、即ち不動産の価値の低下を食い止めるしかないと思う。住宅需要は潜在的にあるのは間違いないのであるから、住宅の買い替えを促進する、色々な施策(逆鞘分の持ち越し融資、親子孫のリレー返済など)を工夫すべきである。

  今のデフレ状況は、私の保有している不動産価値も、毎年10%ダウンしているところに如実に現れている。そして歯止めが掛かりそうにないのが現実である。こう言う状況が、延いては、日本企業の地盤沈下を促進しているのである。
  小泉首相が執着する郵政民営化が今の最優先課題だとは思えない。はた又、抵抗勢力の言う道路工事の計画通り実施も死守すべき時ではないと思う。
  日本の弱者、即ち350万人の失業者、そして零細企業経営者の声に耳を傾けてくれる救世主の出現無くして、日本の再生は無いと思うのである。

  愚痴を込めての提言である。


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No.198  2002.07.22

白隠禅師座禅和讃に学ぶ ―はじめに―

  これまで、約1年にわたって勉強して参りました歎異抄は、浄土門・浄土真宗の真髄を表わしたものですが、これから勉強する座禅和讃は、同じ仏教の中では対照的とされる聖道門、禅宗の真髄を表わしたものだと言って良いと思います。
  まず座禅和讃に入る前に、仏教に慣れ親しんでいない一般の方々向けに、浄土宗・浄土真宗と禅宗について説明させて頂きます。

●浄土真宗と禅宗について:
  一般の方が、仏教と接されるのは、お葬式・法事の時です。現在の日本では、真言宗、浄土真宗、浄土宗、曹洞宗、日蓮正宗(創価学会含む)が大半で、これから勉強する白隠禅師は臨済宗の禅僧ですが、その臨済宗の信者数は、浄土真宗の七分の一、同じ禅宗の曹洞宗の四分の一と言われます。私は、この原因は、臨済宗が仏教の正道を歩んで来たからだと思います。即ち、葬式仏教に成り下がらずに、お釈迦様の歩まれた、苦からの解脱を求める仏教の王道を歩んだからだと考えています。今回取上げる座禅和讃を残された白隠禅師をはじめとして、多くの大善知識(悟りを開かれた方々)を世に送り出したのは、臨済宗だけだと言っても過言ではない程であると思います。

  禅宗は、6世紀にインドから中国に渡られた、お釈迦さまから27代目とされる達磨大師(だるまたいし)を第一祖として、中国、日本へと相続されて来た大乗仏教の宗派です。一方、浄土門は、仏教八宗の祖と言われるインドの龍樹菩薩を第一祖として、やはりインド、中国、日本へと相続された大乗仏教の宗派です。共に、溯ればお釈迦様を源としています。

  従いまして、このコラムの中で明らかにして行きたいと思っていますが、浄土真宗も禅宗もお釈迦様のお説きになられた同じ仏教ですから、禅の悟りと浄土真宗の信心(阿弥陀仏の本願を信じ、お任せする心)は、何も異なるところはないのではないかと私は思っています。丁度、山の頂上に至る道は色々とありますが、頂上は一つであると言う事と同じだと思います。そう言うところが明らかに出来たら幸いだと思います。

  さて、その日本の禅宗には大きく3宗派があります。臨済宗、曹洞宗、黄檗宗がありますが、今回学ぼうとする座禅和讃を書かれた白隠禅師(1685〜1768年)は、臨済宗中興の祖と言われる方であり、500年に一人しか出ない仏教史上の逸材と言われています。

  私は、この白隠禅師の座禅和讃を10歳の頃から母親と共に朝夕の読経に取り入れ、意味も充分把握しないまま暗誦していましたものですから、非常に親しみを持っています。
  勿論、幼い頃は、意味を全く承知していませんでした。20歳を過ぎまして、母が最も敬愛する禅僧であられた山田無文老師の著『白隠禅師座禅和讃講話』(春秋社版)を読ませて頂きましたが、その時も、文字の表面的な意味を捉えただけで、なかなか理解には至りませんでした。

  しかし、今、山田無文老師の『白隠禅師座禅和讃講話』を読み返す時、浄土真宗信者の母が、一般の門徒さんが決して読まない『般若心経』や『白隠禅師座禅和讃』を何故有り難がって読んでいたのかを理解するに至りました。
  この無文老師の講話には、禅の悟りの境地と親鸞聖人の至られた境地が同じであると、繰り返し繰り返し述べられているからです。私は、この山田無文老師のご講話をご紹介しながら、座禅和讃を学びたいと思いますし、一般の方々にもご紹介したいと思います。

  末尾に、山田無文老師の講話の一節をご紹介したいと思います。親鸞聖人の信心と、山田無文老師の悟りの境地は、何れも如来から賜られた、同じものである事が分ります。

  故山田無文老師は、臨済宗妙心寺派管長、花園大学学長をされた20世紀の名僧と言われます。お顔は、こちらのサイトでご覧ください。

●白隠禅師座禅和讃:
衆生本来佛なり。水と氷のごとくにて。水をはなれて氷なく。衆生の外に佛なし。衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ。譬えば水の中に居て。渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて。貧里に迷うに異ならず。六趣輪廻の因縁は。己が愚痴の闇路なり。闇路にやみじを踏みそえていつか生死をはなるべき。夫れ摩訶衍の禅定は。稱嘆するに餘りあり。布施や持戒の諸波羅蜜。念佛懺悔修行等。その品多き諸善行。皆以の中に皈するなり。一座の功を成す人も。積みし無量の罪ほろぶ。悪趣何処に有りぬべき。浄土即ち遠からず。辱くも此の法を一たび耳に觸るとき。讃嘆随喜する人は。福を得ることかぎりなし。
況や自ら廻向して。真に自性を證すれば。自性即ち無性にて。己に戯論を離れたり。因果一如の門ひらけ。無二無三の道直し。無相の相を相として。往くも皈るも餘所ならず。無念の念を念として。歌うも舞うも法の聲。三昧無礙の空ひろく。四智圓明の月さえん。以の時何をか求むべき。寂滅現前する故に。當處即ち蓮華國。以の身即ち佛なり。

少し難読な言葉の読み方:
譬えば→たとえば     六趣輪廻→ろくしゅりんね     摩訶衍→まかえん     皈する→きする     辱くも→かたじけなくも     三昧無礙→さんまいむげ     四智圓明→しちえんみょう     寂滅現前→じゃくめつげんぜん

●山田無文老師の講話集より:
  浄土門でたいせつな、三部経の一つである観無量寿経の中に、われわれが仏を憶念し観相する時は、仏の三十二相八十隨好形が、さながら、われわれの心の中に現れてくださる。そのとき、われわれの心が、そのまま仏であり、われわれの心が、仏になってしまう≠ニ、記されてあります。「是の心是れ仏なり、是の心、仏と作る」とあります。是心是仏是心作仏であります。禅宗で、よく使われるこういう大切な言葉が、浄土門の経典からでておるということは、おもしろいではありませんか。浄土の信心も、禅の悟りも、その心境は同じところに帰するのだと思います。信心の世界には、自力も他力もありません。信心不二、不二信心であります。
  讃岐の庄松といえば、浄土真宗の妙好人でありますが、あるとき、人がたずねました。「庄松どんや、このごろのように、耶蘇(キリスト教)がはやっては、心配なことじゃのう。仏法は亡びるかも知れんで」と申したら、「なにがサ、凡夫が仏になる以上の教えはないぞよ」と、庄松が答えたということであります。信心決定したものではありませんか。たとえ、他力だと言っても、仏法である以上は、凡夫が仏であることをよろこばしていただく以外に、信心の妙味はないでありましょう。
  親鸞聖人も、ご和讃に歌っておられます。

と。信心をよろこばせていただく人は、煩悩のまま罪業のまま、如来とすこしも異ならぬ心境に遊ばしていただけるのだと歌われたのであります。いや、それどころか、信心がそのまま仏だといわれるのであります。「大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり」とは、もと『涅槃経』にあるお言葉でありますが、信心が決定するとは、わたしたちが生まれたまま持っておる本心、自己本具の仏性が分ることにほかなりません。
  ここにいたりますと、浄土門のご信心も、「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて」と歌われる座禅和讃の安心(あんじん)も、全く同一味の真理だということになります。だから親鸞聖人も「罪障、功徳の体となる、氷と水の如くにて、氷多きに水多し、さわり多きに徳多し」と、歌われるのであります。
  親鸞聖人ほど、自己反省のきびしかったお方は、宗教史上にも珍しいでありましょう。自分ほど罪ふかいものはない、自分ほど煩悩の多いものはない、愛欲の曠海に沈淪し、名利の大山に迷惑すと嘆いておられますが、それは、聖人に実に崇高な本心があるからこそ、この反省と嘆きがでるのであって、その自己を反省してゆく鏡のような崇高な本心こそ、仏性でありましょう。

  禅宗は自力宗だとよくいわれるのでありますが、この自力他力という言葉は、浄土門のほうから自宗を宣伝するために唱えだされたことで、禅宗のほうから、みずから自力だと名乗ったことはないのであります。道元禅師も、「仏法をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己を忘るるなり」と、いっておられますとおり、仏法がわかるとは、真実の自己がわかることであり、真実の自己がわかるとは、自分というものをわすれてしまうことであります。
  禅とは自力どころか、自己をすててしまってこそ禅であります、強いて自力他力という言葉をみとめるならば、自力とは、自力をすてるまでの自力であり、他力とは、他力をすてるまでの他力でありましょう。禅で自己をわすれたところと、念佛でハカライをすてたところは、おそらく同じところへ帰入するのでありますまいか。そこは、自他の区別のない無心という境地であります。


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No.197  2002.07.18

カウンセリング―無条件の受容―そして信心

  登校拒否、アルコール依存症、引き篭りなどのカウンセリングにおいては、カウンセラーは、無条件で相手を受け容れなければ、相手を変える事は出来ないと言うのが、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャースの『非指示的療法』の考え方だそうです。この療法が、カウンセリングの世界では、有名過ぎる程有名である事を、私は知りませんでした。

  カウンセリングと言うのは、悩める人の相談に乗って、心情を聞き出したりして、本人のやる気を引き出す事位かと簡単に考えていましたが、これは大きな間違いである事を知りましたが、更に、この根底にある『無条件の受容』と言う考え方が、浄土真宗の本願と信心と救いの関係を現代的解釈する上で有用な考え方であると思い、ご紹介するものです。

  そして、この考え方に基づく対話手法は、私達の日常のコミュニケーションと良好な人間関係を構築する上でも、大変有効なものであると感じました故に、かなり詳しくご紹介します。

  先ずは、その革命的な心理療法を考案したカール・ロジャースについての説明から入ります。

■カール・ランセン・ロジャース (C.R.Rogers : 1902-1987)
アメリカの臨床心理学者。 シカゴ大学心理学教授兼カウンセリングセンター所長。アメリカ臨床心理学会長。ロジャースは、わが国においては非指示的心理療法(non-directive psychotherapy)の提唱者として知られている。
1930年代のアメリカにおいては、指示的心理療法(directive psychotherapy)が盛んであった。診断を行なうものはカウンセラーであり、カウンセラーが診断に基づいて治療方法を指示するというやり方、カウンセラー中心の指示的療法であった。これに対してロジャースは、クライアントの自己治療能力を信頼し、カウンセリングにおける主導権 をクライアントに委ね、カウンセラーは助言や指示を与えてはならない、と主張した。彼の心理療法が非指示的心理療法といわれる理由である。この時期の代表的な著作として、1942年の「カウンセリングと心理療法 (Counseling and Psychotherapy)」がある。

  そして、以下はカウンセリングの実例的説明です(文献からの抜粋です)。

  人づきあいが好きな方は「聞くことが得意だ」と思いがちです。しかし、実際に相談に乗るとなると、「心から聞くこと」は本当に難しいのです。
  人が話したくなるためには、まず話したくなるような「聞き方」が大切です。では、プロのカウンセラーは、具体的にどのようなテクニックを使うのか。たとえば次のようになります。

  カウンセラーである聞き手は自分の意見や感想をまったく述べていません。相手の言うことを「鏡」のように写し出すように返しているだけです。自分の言ったことが整理されて、鏡のように返ってくると、話し手はとても満足します。

  仕事場におきましても、上司がこのような聞き方をすれば、理解しようと努めている気持ちが伝わり、部下は安心して自分の言いたいことが言えるようになります。勿論、反抗期にある子供を持つ親も、心掛けるべき点であると思います。

  このように、相手の話を確認しながら聞く方法を、カール・ロジャース博士は「非指示的聞き方」、「クライエント中心療法」と呼びました。相談者が自分を見つめ、自分の意思で解決に向かうやり方はカウンセリングの世界でよく使われています。

  ロジャースの聞き方には、ちょっとしたテクニックがあります。それは、相手の話を繰り返し(リステートメント)、再述するのです。これを単なる繰り返しととられると誤解があります。「あなたが抱えている問題をこのように理解しましたが、間違っていませんか?」という確認や整理をするのです。

  なぜなら、相手の心を完璧に間違いなく理解することはできません。当然「理解のゆがみ」が生じます。そこでそのゆがみを最小限にとどめるために確認するわけです。ただし、注意すべきは聞くことは同意することではないということ。

「君の言いたいことはよくわかるよ」というのは、相手に賛同する言い方です。非指示的な聞き方では、「君はそう思ったわけだね」と、部下の言ったことや感情をフィードバックしていきます。

  人間関係をよくするためだけなら同意や同情は有効です。しかし、部下に仕事を覚えさせるのが上司の役目。そのためには、問題を掘り下げて自分を見つめさせ、部下の「気づき」を広げる方向に導かなければ本質的な解決にはなりません。

  質問や分析、解決策の提案などを極力抑えて、話を繰り返して確認しながら、相手の心の中にある映像をお互い見える形でつくりあげる。これが優れた上司の聞き方の第一歩です。

カウンセリングの父と呼ばれるカール・ロジャース博士が提唱した「非指示的な聞き方」に、心を汲みながら相手の話を鏡のように告げ返していく技術「アクティブリスニング(能動的な聞き方)」があります。考え方を整理するため、相談に対するいくつかの対応 を整理してみましょう。

同僚がグチをこぼしたとします。
「アイツはどうして言われたことしかできないんだろうな」↓

説教型の対応:「新人なんだから大目に見ろよ。オマエだってそう思われてるかもしれないぜ」

同意型の対応:「しょうがないよ、いまの新人は命令されたことしかやらないんだよ」

アクティブリスニングの対応:「ほかの仕事にまで気がまわらないアイツに不満を持っているんだね」

  このように相手の思いや感情を理解し、伝え返す対応がアクティブリスニングです。共感的理解とも言います。このように返答することで、相手からの次の言葉を待つわけです。説教型では常識論で相手の感情を頭から抑えた言い方になっています。同意型は友好関係を築くには有効ですが、相手に「やっぱり俺の判断は正しいんだ」との思いこみを持たせてしまうかもしれません。

  私達は、決して相手の事を考えずに喋っている訳ではありませんが、ここまで相手の心理を慮って喋っていません。私は、このカール・ロジャーズの手法を知って、多いに反省し、日常の会話に応用し、気持ち良い人間関係を築いて参りたいと思います。

  それから、この無条件の受容は、浄土真宗で言うところの、阿弥陀仏の摂取不捨(せっしゅふしゃ)であると言う捉え方があると言う事を以前のコラムでご紹介致しました。

  ここで一般の方のために阿弥陀仏の摂取不捨についておさらい致しますと、阿弥陀仏即ちこの大宇宙を動かす大きな力は、私達人間を生かすために、太陽・空気・雨を始めとする大いなる恵みを与え、『どうか、生まれ難い人間に生まれたからには、他の動物のような無自覚な生き方では勿体無い事だよ、人間らしい生き方をしてくれよ』と願いを掛けて、私達の身も心も、共に育んでくれています。
  この働きを浄土真宗では、阿弥陀仏の本願であり、智慧と慈悲であると申します。この阿弥陀仏の私達への願い(智慧と慈悲)を私達凡夫が信じて疑わない(信心を得る)ならば、私達が譬え煩悩を持ったまま、時として過ちを冒そうとも、決して見捨てず、必ず救い取って下さると言う事を『阿弥陀仏の摂取不捨』と申します。即ち、私達が悪人だろうと善人だろうと、無条件に抱き取って下さると言う事です。ここが、カール・ロジャースの言う無条件の受容と一致すると思います。

  私は更に、阿弥陀仏の無条件の受容と同時に、私達も、この人生で発生して来る色々な問題、苦しみも楽しみも、悩みもすべてを取捨選択する事なく(無条件で)受容する事が、阿弥陀仏の摂取不捨を確実なものにするのだと思います。それが、親鸞聖人がおっしゃるところの浄土真宗の信心では無いかと思いました。


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No.196  2002.07.15

歎異鈔の心―總結の4―(完)

  7月12日に我が家の14歳の老犬が亡くなった事をお伝え致しました。一昨日13日(土曜日)に火葬し、今は仏壇にお骨を安置しています。私達家族を選んで、この世に生まれて来た14年間の生命でした。怖い位の勢いで庭を走り回っていた若い頃、そして、腰の力が衰えて、休み休みしながら散歩したこの2、3ヶ月、寝たきりとなった最後の10日間、最後の力を振り絞って、体を動かして、呼び掛けに応えてくれた死ぬ直前。
  色々と想い出を有難う!リトル。冥福を祈ります。
  未だ可能性に満ちた少年時代のリトルと、晩年、静かに番犬の役目を果たすリトルの写真を掲載致します。

●まえがき
  いよいよ歎異鈔解説も最後の項になりました。
  全体を通して、親鸞聖人のお教えが間違いなく後世に伝わって欲しいと言う著者唯円坊の切実な願いが満ち溢れている事を感じると共に、また、現代の私達に対する嘆きでもあるように感じました。

  私は、あの鎌倉時代の人々が心に抱く『浄土』と、現代の私達が受け取る『浄土』には、大きなギャップがあると思っています。もっと言えば、親鸞聖人のイメージする浄土と、私が受け取る浄土とは、かなり異なるものがあると思います。

  親鸞が生まれ青年になっていった当時は、平家が壇の浦で滅亡し、源義経が兄頼朝によって奥州で殺されると言う、戦争が日常的で、巷には死体がごろごろとしている時代でした。民衆は常に恐怖にさらされ、食糧もそう豊富ではありませんでした。生きる事に必死であり、生を楽しむ余裕は無かったのではないかと思います。この世は、まさに穢土(えど。苦しく汚れ切った世界)以外の何ものでも無かったはずです。

  人の悩み・苦しみは時代を経ても変わる事はないとも言われますが、現実は悩み・苦しみの種類も、深さも微妙に異なって来ていると思います。
  事実、今のアフガニスタンやパレスチナと、今の日本とは明らかに苦しさの質も大きさも異なります。今の私達日本人は、この世を浄土とは思わないまでも、穢土とは思わないのではないでしょうか。パレスチナで自爆テロを実行する人は、死ねば天国へ生まれると教育されていると聞きます。

  何を申したいかと言いますと、現代人は、死後の浄土往生を願っていないのではないかと言う事です。死ぬのは怖いけれど、浄土へ行くか地獄へ行くかを気にはしていないと思います。従って、浄土真宗も、少々説き方に工夫を必要としているのではないかと思います。

  唯円坊の言葉一つ一つの解釈に躓かず、浄土の真宗の要を現代的に説きなおすべき時に来ていると思います。
  私には未だ、その力が備わっていませんが、今後の課題としたいと思います。

●本文
これさらに、わたくしのことばにあらずといへども経釈のゆくぢもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもさふらはねば、さだめて、おかしきことにてこそさふらはめども、故親鸞聖人おほせごとさふらひしおもむき百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、かきつけさふらうなり。かなしきかなやさひはひに、念佛しながら直に報土にむまれずして、邊地のやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなく、筆をそめてこれをしるす。なづけて、歎異鈔といふべし。外見あるべからず。

●現代解釈
  いろいろと述べて来ましたが、決して私独断の言葉ではないのですが、何分にも、私は経釈の筋道も知らず、教義の浅い深いもわきまえない身ですから、きっと、おかしい点も多々あると思います。しかもこれらは、親鸞聖人のお教えの百分の一位にしかなりませんが、ほんの一端を思い浮かべ思い浮かべして書いて参りました。
  幸いにもお念佛を申しながら、直ちにお浄土に往生しないで、邊地即ち化土に留まると言うのは、悲しいと思います。親鸞聖人のお教えを聞く同じ身でありながら、信心が異なっていては残念と思い、涙ながらに、筆を取って書いて来ました。これに、私は歎異鈔と名付けたいと思います。仲間内の内々の申し送りでもあり、外部にはお見せにならないようにお願いします。

●あとかぎ
  作者唯円坊も、また後世の蓮如上人も、この歎異鈔を軽々しく公には開示しないようにと言う言葉を書きつけられています。

  第3条に悪を肯定するかのように受け取れる箇所があるからだと思います。そして多分、親鸞聖人のお教えは、当時の新興宗教であったはずですから、少しでも、揚げ足を取られるような事があれば、迫害を受ける状況にあったからではないかと思います。

  確かに、親鸞聖人のお教えは、簡単なものではないと思います。そして、誤解を受け易いものだと思いますからこそ、唯円坊が、気遣って、この歎異鈔を遺してくれたのだと思います。この歎異鈔の存在がなければ、親鸞聖人のお心が、伝わり難かったかも知れません。

  取り敢えず、これで歎異鈔の解説を一旦終了とさせて頂きます。ご愛読まことに有難うございました。後は、ご自分で原文を何回もお読み頂きまして、一つ一つの言葉や表現に拘らず、その奥にある心を読み取って頂く事が何よりも肝要な事と存じます。

  私の解説は、あくまでも、パイロット(水先案内人)に過ぎません事を何卒ご了解頂きたいと思います。私は、事情が許せば、数年後にまた、2回目の歎異鈔解説をさせて頂きたいと言う願いを持っています。


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No.195  2002.07.11

禅宗と浄土真宗

  無相庵ホームページ(コラム1回目)は、2年前の7月13日に開設させて頂きましたので、もう丸2年になります。実は、その2年前の7月14日に私の取引先の会社から、主力製品が中国製品に切り替えられる可能性があると言う連絡がありました。今思いますと、この無相庵ホームページ開設の日の翌日と言うのは偶然ではないように思われます。

  この2年間は、会社の危機を抱えながらのものでした。苦しみの真っ只中だからこそ、人生を深く見詰め直し、問い直し、仏教に歩むべき道を問い掛けて来られました。だからこそ、コラムの筆が進み、2年間も休む事なく続けられたと思います。これからも縁が尽きるまで続くのだと思います。

  写真は、無相庵の部屋です(無相庵の無相と言う文字が、次の『白隠禅師座禅和讃』の中に出て参ります)。

  歎異抄解説の次に、禅宗・臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師(江戸時代、1685−1768)の『白隠禅師座禅和讃』の紹介に移りますが、その前段階として、私も深く勉強した訳ではありませんが、禅と浄土真宗の違い、そして同一性について、今の領解を申し述べ、一般の方々に多少の参考になれば有り難いと思います。

  一般の方には、禅宗と言えば座禅、浄土真宗と言えば南無阿弥陀仏と言う事になる事と思いますが、何れも仏教、お釈迦様のお教えの道を外れるものではない事は確かです。

  禅と言う字は、梵語(サンスクリット)のディヤーナと言う言葉の発音に当て字されたものですが(禅那とも書かれます)、ディヤーナは、翻訳しますと『静慮』、「静かに思慮する」と言う事です。従って、座禅とは、座って静かに考えると言う事なのです。宗教とか信仰と言うよりも、哲学と言っても良いと思いますので、人間の分別を斥ける浄土系とは、かなり趣きを異に致します。

  趣きを異にする事は、キーワードとして、下記のようにかなり相反するイメージに現れていると、私は考えています。

禅宗:理性的、能動的、自力、悟り、疑い、解脱
真宗:感情的、受動的、他力、悪人、信、凡夫
  『禅宗は、この世に生きている間に悟り、仏になる事を目的として座禅し、浄土真宗は、この世で仏になる事はなく、死んだ後に浄土へ往生する事を信じて念佛を称える』、こう言う事ではないかと思います。

  では、浄土真宗が言うところの凡夫については、禅宗は、どう考えるのでしょうか。悟りを開けば、煩悩が無くなり、凡夫では無くなると言っているかと言えば、そうではありません。悟った後でも、やっぱり死にたくないと言う事は、現実に悟りに至られた多くの禅僧が言われています。お酒を好んで飲まれた禅僧もいらっしゃいます。欲が無くなる訳ではないのです。

  煩悩が無くなるのではなく、煩悩にも囚われず、悟りにも囚われない、何にも囚われない、事実を事実として認識し、全肯定、或いは全否定とも言うべき、無我の境地を体得するのが、禅宗を行ずる目的ではないかと推察しています。
  般若心経の色即是空、空即是色と言う心境を体得する。言い換えれば、因縁果の道理を体得すると言う事だと思います。

  それでは、浄土真宗は、禅宗のような悟りはないかと言いますと、やはり、色即是空、空即是色と言う心境にならなければ、信心を得たとは言えないようであります。ただ、表現としては、自然法爾(じねんほうに)と言い、すべてを阿弥陀仏にお任せする心境にならないと、浄土へは参られないはずであります。自然法爾とは、色即是空、空即是色を言い換えた表現であり、因縁果の道理そのものであります。

  禅宗では、自分の心と対決して、理性・知性の限りを尽くして、自分の心の中の仏に出会います。だから自力と言われますが、最後の最後は、気付くのではなく、何らかの機縁で、『色々と求めて来たけれど、このままで良かったんだ』と気付かされるようです(だから禅宗の方々は、自宗を自力宗とは申されません)。
  それを白隠禅師は『衆生本来仏なり』と言われるのです。


  浄土真宗は、阿弥陀仏を信じてお念佛が称えられるかどうかが問題です。お念佛を称える事は簡単ですが、阿弥陀仏を信じる、お任せするのは実に大変です。難中の難と言われています。やはり、自分を信じる我執(がしゅう)と言う厄介ものとの闘いに勝たねばなりません。他力とは言われますけれども、任せる心境になるまでは、自力の限りを尽くさざるを得ません。

  到達した心境は、禅宗も真宗も全く同じであると言っても過言ではないと思います。ただ、人間には、個々に性格と言うものがあります。理屈好きで疑い深い人は禅宗向きかも知れません。情緒豊かで他人を信じ易い人は、真宗向きかも知れません。

  ご自分の性格が分らない人は、どちらの道も歩いて見る事を勧めます。『衆生本来仏なり』と言う事が『白隠禅師座禅和讃』の結論です。


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No.194  2002.07.08

歎異鈔の心―總結の3―

  我が家のワンちゃん(愛称リトル)が寝たきりになりました。今年8月で満14歳ですから、人間の年齢に換算致しますと、100歳になろうかと言う老犬です。大型犬のシェパードですから、14歳は超長寿だと、獣医さんには言われましたが、1ヶ月前頃から、腰にベルトをして持ち上げてやらないと散歩出来なくなり、終に10日前には好きな散歩も出来なくなり、1週間前からは、寝たきりになりました。好きだった牛乳にも反応しなくなり、私達が近付きましても、力無く目玉を動かすだけの状態です。私達は老人の介護経験を致しませんでしたが、老犬の介護により、死を目前とした老いの現実に遭遇しています。段々と欲が小さくなっているような様子です。だから死ねるのかなとも思ったりしています。
  庭に咲く槿(むくげ)の花の季節には、この老犬介護の日々を思い出す事になるのでしょうか。

●まえがき
  今回の本文にある『彌陀の5劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり』と言う言葉は、幼い時から、私の母の口から誰に言うでもなしに能く発せられているのを聞いていました。母は、その言葉の後に、必ずお念佛を申していましたが、今思えば、同感、共感、懺悔、歓喜、感謝が複雑に入り混じったお念佛だったんだろうなと、懐かしく思い出されます。
  また『曠劫よりこのかたつねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき』と言う言葉も、全く同様に聞いておりました。

  幼い時ですから、深い意味は何も分らないで、親鸞の教えと言うのは、自分をどうしようもない人間と思うのが出発点かと、暗く重苦しい感じを懐いていました。その上、煩悩が無くなる訳でも無いですし、表面的には何も変わらない印象を持っていましたので、母には能く憎まれ口を叩いていた事を思い出します。今にして思えば、若気の至りと、申し訳なかったと思います。

  母の答えは『こんな私が、仏法に出会っていなかったら、もっともっととんでも無い母親になっていたんよ』でしたが、言い逃れではなく、本当にそう思っていたんだろうなと、母の信心を今にして漸く理解出来た自分です。

  そう言う意味でも、この總結のこの項は、特別な想いが致します。

  『親鸞一人がためなりけり』と言うのは、聞き様によりましては、思い上がった言葉と思われるのかも知れませんが、お釈迦様が『天上天下唯我独尊』と言われた独尊(私独りが尊い)と同様で、全く逆に非常に謙虚な、しかし慶びに満ちたご表明です。

  誰にでも、少し似た経験があるのではないでしょうか?ある言葉を聞いた時、『これは自分のためにあった言葉ではないか』と。

  『無眼人なり、無耳人なり』(むげんにんなり、むににんなり)と言う仏教言葉があります。『私に眼はあるけれども、実際には真実は何も見えていない。私は耳も持っているけれども、人の言う事を聞く耳を持っていない、真に無反省な人間です』と言う事だろうと思いますが、これは私の為にある言葉だと思う時があります。私一人のためにある言葉だと思える時があります。

  全く同一ではないと思いますが、『親鸞一人がためなりけり』は、そう言う風な『私にぴったり、私一人の為にある』と言う受取り方を私はしています。

●本文
聖人のつねのおほせには、彌陀の5劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと御述懐さふらひしことをいま、また案ずるに、善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれといふ金言にすこしもたがはせおはしまさず。されば、かたじけなくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。まことに、如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひともよしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ總じてもて存知せざるなり、そのゆへは如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、あしきをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念佛のみぞまことにておはしますとこそおほせはさふらひしか。まことにわれもひとも、そらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらうなり。そのゆへは、念佛まふすについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたんがために、またくおほせにてなきことをも、おほせとのみまふすこと、あさましくなげき存じてさふらうなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことにさふらう。

●現代解釈
  親鸞聖人が何時もおっしゃっていた事ですが『弥陀如来が五劫と言うとてもとても永い間の思案を重ねて立てられた本願は、よくよく考えてみれば、誰のためではない、この親鸞一人を救い取るためのものであったと思われてなりません。思えば、数知れない罪業を持ったこの身であるのに、これを救ってやろうと思って下さいました。なんと申し訳ない事であろうか』とご述懐されていました。その御述懐を今考えて見ます時、善導大師が『私は、現に罪悪をつくって、生死を繰り返している凡夫である。遠い昔から、苦海に沈み、常に輪廻転生を繰り返し、そこから脱け出す手掛かりも絶え果てた身である事を知らねばならない』とおっしゃった金言と全く異なりません。
  親鸞聖人のご述懐は、聖人ご自身について、おっしゃったのですが、勿体無い事です。これは、私達が、我が身の罪深い事も知らず、如来のご恩の高い事も知らないで、迷いさすらっている事をお見越しになられて、眼を覚まさそうと言うお気持ちであったと思います。全く、私達は、如来のご恩と言う事を喜ばず、自分が善いとか他人が悪いとか、皆で言い合っているに過ぎません。親鸞聖人は、『何が善くて何が悪いと言うことは、私には分りません。その訳は、如来の御こころに適う善いと言う事を知っていたならば、善いと言う事を知っていると言えますし、如来が悪いと思われる事を知っていたとしたら、悪いと言う事を知っていると言えますが、この煩悩具足の凡夫の身(煩悩と言う煩悩は残らず具えている凡夫の身)で、火宅無常の世の中(いつどんな事が起るか分らない不安定なこの世の中で、既に火が廻っているような家に住んでいるとしか言えない切羽詰まった状況)を生きているのです。すべての事は、そらごと、たわごとばかりで、真実なる事は何一つありません。そんな中で、お念佛だけが、永遠真実と言えるものです』とおっしゃっておられました。
  まことに、私も、他の人も、そらごとばかりを語り合っているのでありますが、その中で、とりわけて嘆かわしいことが一つあります。
  それは、念佛を申す事についても、信心のあり方等についてお互いに討論し合ったり、他の人に説明する時には、相手に一言も発言させないように口封じをしてしまい、話し合いを打ち切るために、親鸞聖人の仰せにない事まで、さも仰せの事のように言い張られる事があります。全く情けなく、嘆かわしい限りです。このような事がないように、これまでお伝えしたことをよく吟味して頂き、心に留めて欲しいと思います。

●あとかぎ
  親鸞聖人の浄土の真宗の要は、色々と挙げられるのだと思いますが、私は、この歎異抄の第1条に見える『摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)』が肝腎要ではないかと思います。
  この摂取不捨は、一般人には分り難いと思いますが、非常に近い喩としては、親の子供に対する想いではないかと思います。親は、子供の良い面も、悪い面もすべて知り尽くした上での愛情を持ち、決して見捨てる事はありません。見捨てる事が出来ないと言うのが、普通の親ではないかと思います。世間的から見て、どんな悪い子供、たとえ殺人を犯したような子供でも、見離す事は出来ないと言う事も珍しくありません。

  親鸞聖人も、阿弥陀仏の願いを信じて、念佛を称えようと思った瞬間から、阿弥陀仏は、どんな事があっても、私を見捨てる事はないのだと思われたのです。この摂取不捨をカウンセリングとの関係で解釈し説明してくれている方があります。法蔵館と言う出版社の編集員の方だと思いますが、和田真雄師と言われる方です。かなり長い著述ですが、ご興味のある方は、是非下記にアクセスして頂きたいと思います。   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/nkgw-sen/tarikisinjin-zen.html
(最初の文章は、一般の方には、難しいかもしれません。ロジャーズのカウンセリングと 無条件の受容による治療と言う項目の箇所をお読み頂きたいと思います)

  無条件の受容と言うカウンセリングの手法と阿弥陀仏の摂取不捨と結び付けるのは、他力の信心に関する現代的アプローチの一つだと思います。私も、こう言う少し冷静な見方、考え方も取りいれて、親鸞聖人の求めたものに近付きたいと思います。

  歎異抄解説も、残すところ、1項です。次の勉強は、親鸞聖人の求めるところを、少し観点を異にした、聖道門と言われる禅宗の臨済宗でよく読まれている『白隠座禅和讃』を選びました。
  引き続き、ご一緒に勉強をさせて頂きたいと思います。


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No.193  2002.07.04

事業のコツ・人生のコツ

  私は未だ57歳。人生これからがまとめの章に入ります。そして、私が脱サラ満10周年の今、極めて重要な局面を迎えており、とても、事業のコツ、ましてや人生のコツを申し述べる立場にはありません。しかし、成り行きで(仏教的表現では、縁が催して)こう言うコラムを書く事になりました。『頑張れ!』と言う天の声、神の声、仏様の声とお聞きして、頭をひねりました。

  私が配信を受けているメルマガに『がんばれ社長、今日のポイント』(ホームページ http://www.e-comon.co.jp/から見られます)があります。この無相庵と同じく2年前から始められたものですが、既に2万人に迫る読者を獲得しています。
  オリジナリティを大切にされる経営コンサルタントが作成・配信されており、他のメルマガとはかなり趣きを異にするからだと思います。私も、私の会社が経営危機に陥った時と符号していますから、世間の智慧を、このメルマガで頂きながら、2年間併走して来たと言う想いを持っています。この極最近のメルマガで、東京の弁当会社、株式会社玉子屋(http://www.tamagoya.co.jp/index1.htm)の経営理念の中にある『事業に失敗するコツ12箇条』を知りました。

  たまたま、その12箇条を肯定的表現に言い換え、『事業に成功するコツ』にし、メルマガ殿に提案しましたところ、今週の月曜のメルマガで紹介して頂きました。今の私が『事業に成功するコツ』なぞは、書ける状況・立場にありませんので、冷や汗ものでしたが………。

  そこで私は調子に乗り、仏教信仰者の立場から、事業を人生に置き換えて、箇条書きにして見ました。我田引水的ですが、ご参考になればと思います。また、皆さんもご自分の人生を振り返られて、今感じている人生のコツをまとめて見られたらどうでしょうか?

  事業に失敗するコツも、成功するコツも合わせて列挙致します。

    事業に失敗するコツ(株式会社玉子屋さんの経営理念より)
  1. 旧来の方法が一番良いと信じていること
  2. もちはもち屋だとうぬぼれていること
  3. ひまがないといって本を読まぬこと
  4. どうにかなると考えていること
  5. 稼ぐに追いつく貧乏なしとむやみやたらと骨を折ること
  6. 良いものはだまっていても売れると安心していること
  7. 高い給料は出せないといって人を安く使うこと
  8. 支払は延ばす方が得だとなるべく支払わぬ工夫をすること
  9. 機械は高いといって人を使うこと
  10. お客はわがまま過ぎると考えること
  11. 商売人は人情は禁物だと考えること
  12. そんなことは出来ないと改善せぬこと
    事業に成功するコツ(私がメルマガに投稿した肯定的表現)
  1. 常にもっと良い方法があるはずと、毎日、改善改良すべし。
  2. 競争相手は今の業界だけではない、すべて競争相手と認識すべし。
  3. 読書を含めて、情報収集の合間に仕事を励むべし。
  4. 常に事業計画を持ち、それに従って実施し、評価し、常に見直すべし。
  5. 仕事は効率を第一とし、忙しいのが仕事ではないと知るべし。
  6. 製品開発力よりも販売力が大切と思うべし。
  7. 従業員に支払う給与は、自分がこれで良いと思うよりも高い給与を支払うべし。
  8. 支払はどんな事があっても約束を守るべし。
  9. 機械が出来る仕事は機械に任せるべし。
  10. 顧客はとてもわがままなものだと思うべし。
  11. 取引はビジネスライクを主とすべし、しかし時には人情も大切な局面があると思うべし。
  12. 目標さえ決れば、後は出来ない事は無いはずだと取り組むべし。
    人生に失敗するコツ(私が玉子屋さん風に創作した12箇条)
  1. 現状の幸せに満足せず、もっと幸せがあるはずだと欲を脹らますこと
  2. この世の中、自分しか頼りにならないと思うこと
  3. 生活のためには身命を顧みず働くこと
  4. 人生、努力すればなんでも叶うと思うこと
  5. お金さえあれば、殆どの幸せが手に入ると思うこと
  6. 良い事をすれば、必ず良い報いがあると信じること
  7. 先ずは自分の幸せ、それから他人の幸せを考えること
  8. ボランティアは、自分の得にはならないと思うこと
  9. 他人は利用するだけ利用すべきだと思うこと
  10. 非は常に相手にあると思うこと
  11. 真偽・善悪より損得・好き嫌いを判断基準とすること
  12. この世の中、死ねばすべて終わりと思うこと

人生に成功するコツ(私の創作した人生信条)
コツはただ一つ、『仏法を主人として、世間を客人とすべし』(コラム、NO.191参照

●あとがき:
  私の会社は、極めて極めてと言うべき苦境にあります。余命何ヶ月と宣告された癌患者と同様です。事業に失敗するコツ12箇条の半分は、しっかりと自分に当て嵌まりますから、こう言う事態になったと思います。しかし、たとえ事業に一時的に失敗する事があったとしても、最終的には人生を成功に終わりたいと思い、この苦境は私を成功に導く試練の場と捉え、精一杯の智慧と工夫で体当たりしているところです。

  事業の成功が人生の成功ではありません。
  このコラムで何回もご紹介した豊臣秀吉が詠んだ辞世の詠『露とおき露と消えぬるわが身かな 浪花のことも夢の亦夢』は、我が人生に価値を見出せなかったと言うことだと思います。これでは如何にも悲しいと思います。秀吉は、私達に『人生は、名誉や財力だけではないぞ』と言い遺してくれているのです。
  私は、人生の成功は、これからの人生においても『人間として生まれて来て本当に良かった』と思える事だと思います。そして、人間として生まれた意味は、仏法を聞いて初めて分る事であると、私は思っています。
  しかし、一方、世間に負けて事業を失敗し、妻、子供・孫達に世間的に惨めな境遇にさせて、私が誰一人知人もいない場所で、お念佛を称えつつ野垂れ死にしても、人生に成功したとは、今の私には思えません。
  やはり、在家ですから、キチンと畳の上で、妻子眷族・知人の皆様に囲まれながら、『私の人生、皆様有り難う、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』とお別れの言葉を言いながら死んで逝かねば成功した人生とは言えないと思いますが、間違っているのでしょうか。


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No.192  2002.07.01

歎異鈔の心―總結の2―

  写真は、プリザーブドフラワーと言いまして、1991年フランスで生まれた、長寿命の切り花製造技術によるフラワーアートです。押し花をもっと化学的に、バイオテクノロジーも入れて進化させた技術ではないかと思います。この技術は、植物の樹液を有機保存液と置換し、花の組織を完全に保ちながら、脱水・浸透・排水・乾燥の4工程を経て、完成するものだそうです。
  これも、私の娘が、最近始めた習い事です。どうやらこの前ご紹介したカリグラフィとドッキングさせて、新しい仕事を創作しようとしているのかも知れません。

●まえがき
  歎異鈔全体を通じても、この總結を読んでも、私が感じているのは、法然聖人を慕うお弟子さん達と親鸞聖人を慕うお弟子さん達の間で、信心と称名念佛、どちらが大切かについて、かなりの論争があったのではないかと言う事です。また、それを反映して、親鸞聖人のお弟子・信者仲間の間でも、同じ論争が始まっていたのだと思います。

  現代の浄土真宗の状況を見ますと、浄土真宗の生い立ちからだと思いますが、浄土宗的に称名念佛を大切にされる方々から、信心さえあれば念佛を称えなくても良いとする方々まで、非常にバラツキの大きい宗派となっていると思います。

  これは、歎異鈔の作者の懸念された状態に計らずもなってしまっているのだと思います。歎異鈔に示されている嘆きは、他の人に向けてではありません。私自身が陥り易い、親鸞聖人とは異なった考え方をまとめてくれているのです。

  そこで、歎異鈔作者は、こう言う私達の事を見越して、『不審を覚えたら、他人の言葉を頼らずに、御聖教を読んで確認しなさい』と言われる訳です。しかも、読み方まで言及される周到さです。この熱意、親鸞聖人に傾倒し尽くした作者の想いを痛く感じます。

  また、本当は、他の御聖教を読まなくても、親鸞聖人の教えが分るように、歎異鈔前10条に親鸞聖人の信心の内容をまとめられ、そして後半8条に、間違った解釈の例を上げられて、誤り無きように念を押されているのですから、他の御聖教を読んで下さいと言うのは、甚だ謙虚な方だと思います。

  しかし、私は、浄土真宗は仏教ですから、もともとのお釈迦様の教えにも接した上で、親鸞聖人が浄土の真宗と言われたお心を知る事も非常に大切であると思いますし、それが歎異鈔作者のお心にも適う事だと思います。歎異鈔と合わせて、是非とも般若心経を読まれる事をお勧め致します。

●本文
いづれもいづれも、くりごとにさふらへども、かきつけさふらうなり。露命わづかに枯草の身にかかりてさふらうにこそ、あひともなはしめたまふひとびとの御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをもまふしきかせまひらせさふらへども、閉眼ののちはさこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと嘆き存じさふらひて、かくのごとくの義どもおほせられあひさふらうひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることのさふらはんときは、故聖人の御こころにあひかなひて御もちゐさふらう御聖教どもをよくよく御らんさふらうべし。おほよそ、聖教には眞實權假ともにあひまじはりさふらうなり。權をすてて實をとり、假をさしおきて、眞をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじくさふらう。大切の證文ども少々ぬきいでまひらせさふらうて、目やすにして、この書にそえまひらせてさふらうなり。

●現代解釈
  これまで述べて来た事は、いずれも繰り言に過ぎませんが、私の想いを書き付けて来ました。私も老い先の短い、枯れ草にかかるほんの露のような、はかない命であり、明日とも知れない命ですが、生きておればこそ、これまで一緒に親鸞聖人の下で仏道を共にした同侶の方々から、懐いておられる不審に思われる事をお聞きし、親鸞聖人からお聞きした事をお知らせすることが出来ます。しかし一旦、目を閉じねばならなくなった後は、きっと色々と聖人の仰せと異なる説がはびこって、聖人のご信心から離れてしまうだろうと、嘆かわしく思われてなりません。この様な説に迷わされそうになった時には、是非とも故聖人のお心に合い適ってお用いになられた御聖教をよくよく読んで確認して欲しいと思います。しかし、大体聖教というものには、真実と方便的なものがあります、方便は方便として、真実を理解して欲しいのです。真実の部分が聖人のお心なのです。だから、念には念を入れて、御聖教の真意を見誤ることがないように心掛けて貰いたく、それで、今ここに、証拠となる大切な御文を少し抜き出して、真実と権仮を判断する目安として貰いたく書き添えます。

●あとかぎ
  親鸞聖人の教えが間違って伝わらないように、唯園房が願いをこめて私達に遺してくれた歎異抄は、750年経過しつつある現代に生きる私への指南書であり、警告書でもあります。

  今の宗派、浄土真宗の有り様を唯園房が知れば、東西に分かれた本願寺にも驚かれるだろうし、葬式と結び付いて、お念佛が末香臭くなっている事にもがっかりされると思いますが、一方、全国には親鸞の教えを間違いなく後世に伝えるべく努力している集いがあり、親鸞聖人の浄土の真宗が絶える事は決して無いと言う事にも気付かれるでしょう。ご自分の遺志が生きている事を喜ばれるだろうと思います。

  W杯サッカーも、昨夜のブラジルの優勝で幕を閉じました。ブラジルが見せたあのスピードとボール扱いのテクニックは、日本との差を十二分に感じさせられましたが、日本も8年前のドーハの悲劇から比べますと、格段の進歩を遂げており、中田(英)選手のようなプレーヤーが、4、5人は出て来るであろう4年後は、ベスト4も、決して夢ではないと思います。
  頑張れニッポン!


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No.191  2002.06.27

続・続―世間について

  写真は、母の17回忌に床の間に掛けた、山本空外師直筆のお名號の書です。山本空外師の書には、弘法大師空海よりも高い評価を与えた人もあり、かつてレーガン大統領も求めたと言う事です。

  このコラムで何回か報告致しましたが、私の経営する会社は、引き続き経営の危機にあり、同時に我が身、我が妻子親族の危機でもあります。更に深刻になっていると言うべきだと思います。明日の生活を心配しないで暮らしていたサラリーマン時代を懐かしく思う時も正直ございますが、この苦しさは事実であり、この苦しさは真実です。この苦しみを、私に語りかけている仏様の声と聞き、世間と仏法の両方を冷静に、しかも明るく味わって行かねばならないと言い聞かせています。それしか私が世間を生きる意味はないと思うからです。

  蓮如上人の【御一代記聞書】に『仏法を主人とし、世間を客人とせよ』と言うお言葉があります。これは誤解され易いのですが、決して『仏法第一、世間は二の次』と言う事ではありません。『世間をうまく渡るための仏法であってはならない』『仏法を聞くために、世間に生まれ、世間の難儀もあるのだ』と言う事を蓮如上人が言いたかったのだと思います。

  味わい深いと思いますし、深く洞察したいお言葉だと思います。しかし『仏法を分るために世間があり、世間をうまく渡るために仏法があるのではない』と言う事は頭では分りますが、やはり、私達は、辛い世間をうまく渡るために仏法を求めるのではないでしょうか?世間が悩ましいから宗教を求めるのだと思います。そして世間的苦労がない人は、この幸せを永遠に続けたいと、死を恐れて宗教を求めるかも知れません。

  世間の事はどうでも良い、仏法さえ聞ければ良いとは、私にはどうしても思えません。苦しく悩ましい世間を仏法と共に乗り切り、渡っていきたいと、私はそう思います。

  勿論、世間をうまく渡ると言うのは、出世や社会的地位が高いだけではないと思いますし、お金持ちになる事でもないと思いますが、妻子・親族に明日食べるものも用意出来ないと言う状況は、やはり避けたいと思い、色々と工夫もし、打開策があれやこれやと頭を駆け巡っています。

  私達世俗の人間は、良寛様のように、独身を通し、自分さえ何とか生きれば良いと言う状況にはなく、妻子・親族の生活に責任を持っています。私一人ではない訳です。しかし、私独りでないからこそ、逃げ道を塞がれ、真正面から取り組ませて頂けるものだと考えたいと思います。『妻と子供と孫には世間並みの生活を続けさせたい』こう言う想いがあるからこそ、自力の限りを尽くさざるを得ません。これは佛様の慈悲だと思います。こう言う状況でないと、私はとんでもない方向に迷い流離うと思います。

  出家は易行、在家は難行とお聞きした事もございますが、在家は楽しい時もありますが、それは人生のほんの瞬間、瞬間であって、間違いなく修羅場が本来の世間の表の顔です。この修羅場の世間を人間として受止めて、仏様が案内して下さる道に従い行くのが、仏法を聞く者のあるべき姿ではないかと思います。

  昨日、オウム真理教の元幹部に死刑の判決が出ました。一方、京都では、和歌山の40歳の僧侶が市営地下鉄で女子高生に対する痴漢行為で逮捕されました。宗教は、また仏教は人を救うものでなければなりませんが、一方はコンプレックスと言う我執に、一方は、貪欲と言う我執に負けて、世間の敗北者になったのではないかと思います。
  自分の我執と対峙して、世間の敗残者になってはならないと、改めて思った次第です。

  私だけではなく、世間に生きる方、皆夫々に、事柄も深さも異なりはしますが、思い悩む事、不安がある事は間違いありません。しかし、そこで我執と言う自己を覆う魔物の存在を忘れる事無く、世間で磨いた智慧を振り絞って解決策を求めて七転八倒しながらも、最後は、仏様のお仕立て通りに、歩むしかないと言うところに、心の落ち着き場所を求めて行かねば、世間で生きる仏教徒の救いはないと思います。

  我執に気付かされるのは世間あればこそだと思います。それを、蓮如上人は『仏法を主人とし、世間を客人とせよ』と言われたのだと、私は思います。

合掌


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