2001.11.26

歎異鈔の心―第11條の1項―

まえがき:
  さて、いよいよ歎異鈔後半の、歎異(異なるを嘆く)の條に入る訳です。
宗教と言うものは、信じるかどうかと言う世界であると言う反面、哲学的な面も持っています。人間の頭で、知識に基づいて理解する世界です。信仰心は、頭で理解するものではないと言われますが、私は、そうではなくて、やはり、ある程度までは頭で理解する努力をして、その上で、人間の頭だけでは理解し切れない世界があるのだと頭と体験で知る事が即ち信じると言う事ではないかと思います。かなり理屈っぽくはなってしまいましたが……。
ただ、それこそ頭だけの浅い理解に止まる人は、この11條のように、不要・不毛な論議をしてしまいます。

本文:
  一文不通のともがらの念佛まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念佛まふすか、また、名號不思議を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議を、子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この條かへすがへすも、こころをとどめておもひわくべきことなり。

現代解釈:
  文字ひとつわからない人々が、すなおに念佛を唱えているのに対して、『あなたは誓願の不思議を頼んで念佛を唱えているのか、それとも、名號の不思議な力を信じて念佛を唱えるのかどちらなのか?』と言い惑わし、いわゆる誓願の不思議とはどういうことかであるか、また名號の不思議とはどうしたことであるかという二種の不思議の訳をはっきりと説明もせずに、相手のこころを乱す者がいると聞いていますが、これはよくよく念入りに分別しておかなくてはなりません。

あとがき
  歎異抄1條1項に、弥陀の誓願不思議にたすけまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。とありますが、念佛そのものにご利益があると考える人々も出てきていたのでしょう。名號とは念佛の事で、『南無阿弥陀仏』を『六字の名号』と申します。ただ念佛さえすれば良いと言う言葉を真に受けて、『南無阿弥陀仏』が何か呪い(まじない)のように考える人が出て来ていたのでしょう。また逆に、弥陀の誓願を信じるだけで良い、信じたその瞬間救われるのだと言う事を親鸞聖人も申されていますから、念佛には殊更の意味は無いのだと言う極端な考え方をする人々も出ていたのでしょう。キリスト教で、神は信じるが、アーメンは言わない、十字架も拝まないと言うのが不自然であるように、弥陀の誓願を信じたら自然にお念佛が口をついて出ると言うのが、自然ではないかと思います。


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2001.11.22

布施―無財の七施―

  私の知人がタイの子供たちに奨学金を寄付していると言う事を聞きました。その経緯は、仕事にと言うより、人間関係に疲れ果て、気分転換にと旅したタイで期するところがあったのだと思います。尊い決心だなぁと感動すると共に、布施と言う仏教の言葉を思い出しましたので、コラムのテーマに取り上げさせて頂きました。

  お布施と言う言葉は皆さんには勿論馴染みのあるものであり、お葬式や法事のお経を頼んだお坊さんに差し上げるお代金と言う感覚だと思います。しかし実は使い方を間違っています。お坊さんに差し上げる『お布施』は、お経を読んでくれた見返りとして代金を差し上げているのであり、厳密には布施とは言えません。布施の本来の意味を以下に説明したいと思います。
  布施と言うのは、六波羅蜜(ろくはらみつ)と言いまして、彼岸(悟りの世界)に行き着く為に必要な六つの条件が規定されていますが、布施は、その中の一つの条件であります。波羅蜜は、パーラミタ(至る彼岸と言う意味)と言う梵語の当て字で、その六つの条件とは布施、持戒、忍辱、精進、、禅定、智慧です。
  布施は、他の人にお金や物を差し上げる行為で、しかも決して見返りを求めない行為でなければなりません。前述のタイの子供達への奨学金は、何も見返りの無い布施そのものだと思います。その人に生き甲斐や、爽やかな心をもたらす事でしょうが、それは結果的に与えられるもので、見返りではありません。勿論、名声を求めたり、賞賛を求めたり、極端には、代議士の寄付行為等は、布施とは申せません。神社やお寺でお賽銭を差し上げても、頼み事を伴なったお賽銭は、これまた布施とは申せません。なかなか布施も難しいものです。
  しかも布施をするにも、それなりに多少裕福でなければ出来ない事になりますが、お釈迦様は、『無財の七施』(むざいのしちせ)といって、必ずしも、お金や物が無くても立派な布施が出来るとお示しになっておられます。

  以上は、何れも、財物のいらない良い施しで、これを無財の七施と申します。
  金品を他の人に施す事は勿論立派なことですが、金品が無くても、心がけ一つで悟りの世界に近付ける『無財の七施』をお互いに実行し、明るい生活を送りたいものです。結果として、爽やかな人生がもたらされるものと思います。


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2001.11.19

歎異鈔の心―別敍―

まえがき:
第11條の前に、この別敍があります。原文では、第10條に合体して記述されているそうですが、梅原眞隆師は別敍とされたました。歎異鈔全体を眺めますと、正しい処置だと思います。
この別敍は著者唯圓房が、当時の信者達の間にある異議を嘆いて批判しようとする述懐です。
この別敍以降が、まさに異なるを嘆く、歎異鈔そのもので、前の10條は、異ならない教え、即ち親鸞聖人のお教えそのものを先ず紹介したものだと解釈すれば良い訳です。

本文:
  そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を當来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて、念佛もふさるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、聖人のおほせにあらざる異議どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらうよし、つたへうけたまはる。いはれなき條々の子細のこと。

現代解釈:
  さて、親鸞聖人がこの世におられた頃は、同じ志しを持って、はるばる一緒に京の都に上り、同じ信心を頂いて来世の浄土を一緒にしようと心掛けた仲間は、親鸞聖人のお心を等しく承わりましたので、別段異なる解釈はしなかったけれども、その仲間達に付き従って念佛を申す人々が数多くなるにつれ、親鸞聖人の仰せと異なる事が最近多いと事を風の噂で聞き、こころを痛めて嘆かわしいと思っています。以下にその子細を列挙したいと思います。

あとがき
  仏教は、お釈迦様が開祖でありますが、2500年経過した今では、日本だけでも、禅宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗………と多くの宗派に分かれています。また禅宗も曹洞宗、臨済宗と分かれ、浄土真宗も本願寺派、大谷派他、多くの派に分かれています。今問題になっているイスラム教も、キリスト教も同じ様に、多くの教団に分かれています。従いまして、中には、本来の教えから外れて、宗教とは言えないテロに走ったり、殺人集団になったりする異端者も出て来るのだと思います。宗教とはそう言う面もあるのだ認識しなければ、知らずに邪教に入信してしまう事もありますので、注意が必要です。
  まっとうな宗教でも、教祖が亡くなれば、直接教えを受けた弟子達の間で、受取り方が異なる訳であり、袂を分かつのだと思います。
  袂を分かつのは致し方無いにしても、親鸞の教えと異なる教えが信者の間に広がっている事に居ても立ってもおられず、歎異抄の著者唯園は筆を取ったのであろう。悪人こそ救われると言う誤解され易い教えだけに、この歎異鈔の存在は、浄土真宗にとって極めて有用な文書です。
  現代の今も、この歎異鈔に帰る必要があるだろうと思います。そういう意味でも、後半の8條をしっかりと勉強しておきたいものです。


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2001.11.15

浮木の亀(ふぼくのかめ)

  コラムの読者から、『自殺は駄目なのですね』と言うコメントを頂いた。『当たり前だよ!』と言う方も多いかも知れないし、『いや、自分も一度は自殺したいと思った事があるよ』と言う人の方が多いかも知れない。切実にではなく『いっそ死ねたらどんなに楽かなぁ』と言う軽い自殺願望者を後者に含めるならば、意外と前者は少数意見になるのかも知れない。世論調査データーも無いし、こんな話題で話し合う機会もなかったので、一般的傾向は私にも分からない。かく言う私は、どちらかと言うと、いや間違いなく後者だ。
  以前のコラム( No.026 2000.11.13 私のサラリーマン挫折物語)で告白しているが、最後のサラリーマンを過ごした会社(19年間勤務)で待望の管理職になった時に、実力(技術者ではあったが、技術力がと言うよりも、人間関係能力だったと思う)が伴なっていない私は、『サンドバック』になった様な気分だった記憶がある。登社拒否の病に冒されたが、嫌々出社は続けた。しかし、会社まで、地下鉄・JRと乗り換える通勤であったが、何回かベンチに座って、登社拒否したい想いを振り切りながら出社した記憶がある。周りの人々にも、その気配は明らかだったのだろう。その時期に同じ工場に勤務する若手技術者が工場の屋上から飛び降り自殺した事件があったが、私が自殺したと思った人もあったと後日聞いた事があるからかなり深刻であった事は確かである。そして決定的には、我が家族(妻と当時は小学生の二人の子供)も、毎朝出勤する私を見送りながら、その後ろ姿を見て、自殺を心配したと言う事であり、間違いなく、自殺の一歩手前の状態だったのだと思う。
  私自身振り返ると、その時は人生で一番精神的に辛い時期であり、確かな記憶はないが、自殺と言う事も頭によぎったと思う。しかし結局は自殺を選ばずに、今こうして生きている。
  これは私が精神的に強かったからではない。たまたま運良く、私を助けてくれる周りの人々がいたからである。大袈裟に言えば、私を生かす力が働いたからだと思う。
  サラリーマン時代の後半、私は自分の力不足を自覚して、2度ほど上司の工場長にギブアップ宣言をした。1度目は、製造課長の時だった。私は技術者であり、とても製造課の管理職は無理ですとギブアップした。そして工場長の配慮で技術に戻して貰うも四面楚歌。自分の上司とも部下達とも信頼関係を築けず、またまた自分の管理能力の欠如を思い知らされ、今度も思い余って工場長(一度目の工場長ではなかった)に退職願を出した。しかしこの時は本社の専務から、『会社を辞めた後の進路が決ってないのなら、外注に出向して頭を冷やしたらどうか』と世話して頂き、所謂路頭には迷わなかった。何故当時の専務(私とは余り接触は無かった)が私にそのような配慮をしてくれたのか今も分からない。命の恩人に一度聞きたい気もしている。
  しかし、それ以上に私の自殺防止に貢献してくれたのは妻だろう。私の辛さを理解してくれたのだろう、ギブアップ宣言の時、2度とも反対しなかった。自殺するよりも生き続けてくれる方が良いと思ったのかも知れないが、今の自分が生きているのは、家族も含めて周りの人々のお陰であると断言出来る。
  だから私は、偉そうに自殺は駄目だとは言えない人間である事を承知した上で、やはり『苦しくても、自殺は思い止まりましょう』と言いたい。理由は、今回のテーマ『浮木の亀』である。
  仏教の古典に『浮木の亀』と言う喩があると言う事を幼い頃に聞き、今も印象に残っている(盲亀の浮木とも言うらしい)。大海の亀が100年に1回海面に顔を出した時に、たまたま海面に浮いている流木のしかも、流木にある孔に亀の首が出る確率は、ゼロに近い。
  と言う事で、滅多に無い事の喩として『浮木の亀』と言うのであるが、仏教では、生物の中で人に生まれる確率は、浮木の亀であり、また人間に生まれても、仏教に遭う確率もまた浮木の亀のように、滅多に無い事だと言う。確かに、地球上の生物は、確か40憶種類とか言われているそうだ。そう聞くと、私が今人間として生命を頂いた事は、誠に『浮木の亀』の確率だと感じざるを得ない。
  この尊い生命を自ら絶つと言う自殺と言う行為も、またテロにせよ戦争にせよ、他人の生命を奪うと言う殺人行為は、断じてしてはならない。
  自殺を思った時には、『浮木の亀』を是非思い出して、人間として生まれた尊さを思い直して欲しい。私も、これからどんな不幸な目に遭うか知れないが、『浮木の亀』をコラムにした事を思い出して、立ち上がって生きたい。


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2001.11.12

歎異鈔の心―第10條―

まえがき:
  人生と言うか、この世と言うか、人間が関与する物事は、悉く(あまねく)思うようにはならないものである。小さくは、私個人の問題にしても、こうだから、こうしたい、こうあるべきだと思っても、物事は、そうは簡単に進まない。日本の政治も、小泉首相は構造改革すべし、郵政3事業は民営化すべきと訴えて、国民の多くの支持を得て、トップに立っても、当事者の役人達は大反対だし、同じ自民党内にも抵抗勢力もあったりして、遅々として進まない。今世界が抱えるテロに関しても、アメリカの正義感だけでは、撲滅出来ないだろう。タリバンもビンラディンも、簡単には降伏しないし、下手したらイスラム対先進国の自我の戦いになるかも知れない。何故だろうか。私は、人間のはからいが、所詮、宇宙を動かしている力(何か分からないが、自然の法側と言うようなもの、仏教では真理とか如来、佛様と言い、ユダヤ教、キリスト教・イスラム教ではヤハウェと言う創造主)には到底かなわないのだと思う。人間の智慧は所詮、浅い浅いものだと思う。人間のはからう事は、大したものではない事は実感出来るのではないだろうか。
  今回の歎異鈔の10條では、そういう人間のはからいから離れなさいと言うものである。『はからわない事が良いはからいである』と。念佛と言うものを人間の浅智慧で、色々と詮索したり、意味付けたりすべきものではなく、何のはからいもせずに素直に喜こぶ、それだけで良いのですよと言う親鸞聖人のお言葉を伝えているものです。とかく私達は、念佛も所詮は人間が考え出したものではないか、唱えるだけで救われる何て事は、空想の世界ではないだろうかと疑ったりする。親鸞も初めはそう言う疑問も抱いただろう、しかし師匠法然上人の念佛に接して、これはもう人間がとやかくと議論する次元のものではなく、念佛は、お釈迦様がこの世に現れる以前から、迷える人間に用意されていた尊いものだと想うしかないようになられたのだと思う。いや、こう言う詮索すらも必要が無いと言う事を親鸞聖人はおっしゃっているのである。
ただ、念佛すれば良いのですと。

本文:
  念佛には無義をもて義とす。不可称、不可説、不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。

現代解釈:
  親鸞聖人は『念佛と言うものは、何もはからわず、何にもとらわれないで唱える事がもっとも大切なのです。私達が言葉で称えることも説明する事も出来ものではなく、また私達の考えが及ばない世界のものであるからです』と、おっしゃいました。

あとがき
  歎異鈔は、この第10條で一区切りとなる。これまでの10條は、『親鸞聖人は………』とおっしゃったと言う形で、浄土真宗の教えの基準を示してきたものである。
  これ以降の8條は、所謂、歎異鈔たるもので、当時の信徒の中にある、親鸞の教えと異なった考え方を著書の唯円が嘆き、吐露するものであると考えて良い。この歎異鈔の読み方は、浄土真宗の学者、故梅原真隆師のものである。


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2001.11.08

何故、この苦しい世の中を生きなければならないのですか?

先日、コラムの読者から、次のご質問を頂きました。
『なぜ、この苦しい世の中を生きなければならないのか教えていただきたいと思います』
『あなたの人生の目的は何ですか?』と同様に、初歩的な問い掛けではありますが、基本的且つ重要な、そして真剣な人生に関する問い掛けだと思います。コラム読者の皆様はどう答えられますか?しばらく自問自答してみて頂きたいと思います。

宗教の門を叩いたご経験の無い方ならば『生まれて来たからには苦しい事があっても、死ぬまでは生き続けなければ仕方が無いのではないか』が平均的な答えでしょうか?
こう言う基本的な質問に、しかも咄嗟に答えるのは難しいものです。
しかし、よくよく考えて見ますと、この質問は、仏教を開かれたお釈迦様の出家の動機なのですね。

古から、人生は苦の土(くのど)と申します。生きている限り、苦に遭遇しない人はいません。苦から逃れるために快楽に身を委ねる人も、やがて快楽に身を焦がして、更に大きな苦を感じる事になります。

『なぜ、この苦しい世の中を生きなければならないのか教えていただきたいと思います』と言う問に対しまして、私は『この得難い人間と言う生命を頂いたからには、是非とも死ぬまでに、苦から脱出する道を見付けましょう』と申し上げたいと思います。これは、お釈迦様が訪ね歩いた道でもあり、尊い道であります。

お釈迦様が得た結論を平易に申しますと、『苦は煩悩から起るもので、正しい道を歩めば、煩悩が消え去り、苦を苦と思わない心境になるでしよう』と言うものです。

そして、正しい道とは、下記の八つの道として示されています。

正見(しょうけん) いつも正しい目でものごとを見る。
つまり、おごることなく自己を見つめ、偏見や固定観念を持たずに世界を観察し、その世界のなかに自己を位置づけなさいと言うこと。
正思(しょうし) ものごとの道理を正しく考える。
道理とは、前述の通りで、この世の一切は苦であり、苦の原因は執着心や欲望などの心の汚れである。執着心を無くせば、悟りの世界が訪れるのだから、そのための正しい修行をつむことが大切だと言うことです。この道理を正しく認識出来れば、苦から解放されます。
正語(しょうご) 嘘、中傷、非難、悪口、雑言などを言わず、いつも正しい発言を心掛ける。
正業(しょうぎょう) 殺生、盗み、姦淫などの悪事をせず、常に正しい行いをする。
正命(しょうみょう) よこしまな生活態度を戒め、正しい生活を送る。
正精進(しょうしょうじん) 悟りの世界に到達するために、常に努力しつづける。
正念(しょうねん) 邪念を持たず、たえず正しい道を進むように努力する。
正定(しょうじょう) 精神を集中し、瞑想することによって心を安定させる。

これが、苦から解放される道筋です。簡単ですか?私には簡単ではありません。
この道をまっしぐら歩む人もいます。歩もうとして挫折し、立ち往生しもがき苦しむ人もいます。その先達こそ、親鸞聖人です。この歩み難い八正道(はっしょうどう)と言う道を歩めない私達のために道標を立てた方が、親鸞聖人ではないでしょうか。

親鸞は、貧乏公家の家に生まれ、口減らしのために、幼くして比叡山延暦寺に預けられました。ですから、お釈迦様みたいに苦を動機としての出家ではありませんでした。しかし、公家世界の秩序に従って出世が決る坊さんの世界にあって、後輩が次々と自分を追い越して行く中で、親鸞は下級公家の悲哀、ねたみの心に、みずから苦しまざるを得なかったのです。
そして、八正道の実践にも努力したはずです。お経に心の平穏を求め続けたに違いありません。しかし、どうしても心に平安が訪れず、まだまだ修行が足りないと、更に励んだものと思います。しかし、それでも苦しさから解放されない自分に焦ったものと思われます。どうしても煩悩(瞋恚・貪欲・愚痴)を払拭出来ない自分にほとほと愛想が尽きたものと思います。そう言うぎりぎり切羽詰まった状態の時に、『煩悩から離れられない凡夫こそ、念佛すれば救われる』と言う法然上人に出会い、浴びる程の説教を聞いて漸く、自分のような悪人こそ(凡夫こそ)、他力の本願を信じて念佛すれば救われると言う境地に至ったのです。その歓びを親鸞聖人は、『親鸞一人が為なり』(親鸞いちにんがためなり)と申されました。この意味は『お釈迦様が悟りを開かれ、多くの祖師達がこの世にお生まれになってインドから中国そして日本へと仏教を伝えて頂いたのは、この親鸞一人を救うためのものだったのだなぁ』と言う歓びを噛み締めたものだと思います。

それで親鸞は、苦しい目に遭わないようになったでしょうか?いや、親鸞は晩年悲しい出来事に遭遇致しました。最愛の妻、恵信尼と別居し(親鸞は京都、恵信尼は故郷の新潟)、長男、善鸞を義絶(勘当)しなければならない状況になりました。辛い事だと思います。しかし、苦を嬉しいとは思えなかったでしょうが、苦を悩みの種とせず、その苦に宿る阿弥陀仏の本願(どうか目覚めて下さいよと言う願い)がいよいよ深く感じられ、またこれも因縁のなせる出来事として受止め、ますます念佛の教えを説き続けたものと思います。

信心を得たから、悟りを開いたから、もう災難に遭わない、幸せな事ばかりが続くと言う程、人生は簡単なものではないと思います。それは手品や魔法の世界であって、私達の人生の現実はそうではないと思います。誰の身にも平等に災難も、幸せも、あざなえる縄の如く訪れるものだと思います。苦難を苦しみとして捉えず、逃避せずに真正面から受止めれば、苦難は苦しみではなくなるのだと思います。

良寛さまは『災難に遭う時は、災難に遭うが良く候、死ぬ時は死ぬるが良く候。これが災難を逃れる唯一の方法だ』とおっしゃったと言います。なかなかそうは思えないと言う声も聞こえて来ますが、私は、苦難にせよ、幸運にせよ、すべて因縁によって生じている現象であり、自分だけの所為で発生したものではないのですから、因縁に任せて、逃げること無く素直にしかし積極的に対処するしかないと思うようになりました。
また、見方を変えますと、幸せとか不幸は、人間が勝手に区別したものであり、幸せと思っているけれど、本当は幸せでも不幸でも無いのかも知れません。人間の浅智慧で、幸福と不幸、善と悪、綺麗と汚い、好き嫌いを区別しているだけだと思います。ですから、苦も楽も、苦と思っているけれど、人間がそう思っているだけで本当は苦ではないと考えるべきなのでしょう。これが色即是空の世界です。あるように思っているけれど、本当は何も実体が無いのです。実体があるように錯覚していると言う事です。これが般若心経に説かれているところです。そして仏教の深さは、色即是空で終わらずに、空即是色と帰って来るところにあります。何も実体が無いと言いながら、それぞれの存在が瞬間瞬間に輝いていると言う感動の世界にいる事に気が付く訳です。そうすれば、この世は、苦しい世界ではなく、感動の人生になるのだと思います。
苦しみも瞬間、楽しみも瞬間。苦しみを真正面から受け取らずに済ませる人は、多分楽しい時も、本当の楽しさを感動的に満喫出来ていないはずです。人生での最も感動的な楽しさは、人と人との出逢いだと思います。特に良き人間関係は、幸せの極みだと思います。旅行の楽しさもスポーツの楽しさも、趣味の楽しさも、突詰めれば出逢いの楽しさなのだと思います。
苦しみを逃避し、幸せだけを追い求めるところには、本当の幸せも来ないのではないかと思います。

私は今、会社経営の危機にあり、56歳の挑戦中です。最悪はホームレスになるかも知れません。10年前のサラリーマンの時は、ホームレスになるなんて事は有り得ませんでしたし、考えた事も有りませんでした。しかし、会社を経営すると言う事は、何でもありな訳です。大金持にもなる一方、自己破産者にもなり得る事を真に迫って知ったのは、経営者になってからです。家の廊下階段を歩きながら、この家で年末を迎えるのは、今年が最後かな?って本当に考える時があります。しかし、不思議にうろたえてはいません。人生は無数の縁によって現在があり、決して自分一人の力や努力で現在があるのではない。未来もまたその通りであり、自分一人の力だけで決るものでは無い、無数の縁に任せて、自分はやれるだけの事をやるだけだと思っています(さぁ、本当にホームレスになっても、こんな事を言えるのだろうか………?)。


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2001.11.05

歎異鈔の心―第9條の4項―

まえがき:
9條の3項では、煩悩があればこそ、浄土へ行けるのだと言った。この9條の結びの4項では、浄土へ行きたくないのなら、煩悩が無いのではないかと思わねばならないと言い換えて煩悩こそ往生の種なんだとダメを押している。理屈好き、説得好きの親鸞聖人の性格が良く現れているのではないだろうか。勿論、これは親鸞聖人自身が、自分にも言い聞かせているのだと思う。
煩悩が往生の種、現代風に言えば、煩悩が宗教への道先案内なのだと言う考えは、浄土系仏教の一大特徴である。勿論繰り返して言うが、煩悩を肯定している訳ではない。煩悩を縁として、宇宙の大真理に目覚めようではないかと言う事だと解釈すべきである。ここまではっきりと人間の陰の部分に光りを当てて、主役にまで押し上げている宗教はないのではないか。 宗教界の革命者と言っても過言ではないと思う。

本文:
  勇躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなまし、と。云々。

現代解釈:
念佛を唱える事で、湧き出でる嬉しい気持ちが起ったり、早くお浄土へ行きたいと言う様な気持ちがもしもあったとしたら、それは、煩悩が無いのではないかと、疑ってかかるべきではないでしょうか?と親鸞聖人はおっしゃいました。

あとがき
私の母は、仏壇の前だけではなく、日常生活の中で折りに触れて念佛が口を衝いて出ていた。母のお父さん(私のおじいさん)がそうだったと言う事を母から聞いた事がある。私は未だそこまで至っていない、念佛を唱える事に気恥ずかしさがあるのである。心の底から出て来るべきものと思っているので、敢えて念佛(心の伴なわない念佛を空念佛、からねんぶつと言う)を唱えないと言うべきかも知れない。
母に限らず、私の存じ上げる高徳の先生方は、念佛が自然と口からこぼれている感じであった。唱えるのではなく、呼吸のような感じである。
多分、生かされて生きている感謝の念佛なんだろうと思う。協和発酵の元社長である、故加藤辨三郎師に、自分が少しでも賢いと思っている限りはお念佛は出ないものなんだと言われた事がある。私が未だ30歳位の時であるから、あれ以来26年経っても、私は未だ、自力を捨て切れないでいるのだと思う。


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2001.10.31

56歳の挑戦―最終段階―

  今年ももう早11月を迎えた。昨年夏から始まった私の会社の経営危機は、最終段階を迎えている。来年の1月末で主力製品の生産は完全にストップし、新製品の立ち上げが無ければ、売上高が五分の一になる。従って、工場は半分に縮小し、人員も五分の一にしなければならない。非常に厳しい状況であるが、新製品開発並びにM&Aの可能性を最後の最後まで追求する積もりである。まさに、これから56歳の挑戦の厳しい日々が続く。
  しかし、何も私だけが、私の会社だけが厳しい状況に陥っている訳ではない。全国の失業率は5.3%(近畿は何と6.6%)である。何と350万人を超す完全失業者数である。これから更に電機大手のリストラが本格化するので、年明けには相当厳しい数字になるのではないか。安泰と思われて来た一流企業のサラリーマンも、50歳以上の団塊世代では、私と同様、先の見えない暗闇の晩年を迎えようとしているのである。
  電機大手企業の富士通の社長は、『経営の目的は雇用にあるのではない』『経営責任と雇用責任は両立しない』と明言している。あの従業員を大事にして来た松下電器の中村社長ですら『私を含めて50歳以上は会社に不要だ』と言い出している。今や、企業が生き延びるためには、従業員を解雇し、製造拠点(工場)を中国に移して行くのが正しい経営の在り方となっている。人を育てるなんて、一昔前の陳腐化した経営理念に過ぎないとまで言う。経営者と従業員は運命共同体と考えて来た私は勿論釈然としない。しかし、今この流れに逆らう事は、文字通り自殺行為でしかないのも事実である。
  沈没しかけた船の船長(社長)としては、船の重量(会社の経費)を少しでも軽くするために、乗組員には救命胴衣を着けさせて(失業保険の手当で6ヶ月は何とかなる?)船から離れさせねばならない、何とか自身の努力と運で生き延びてくれと一人一人の従業員の背中に願うしかない。船長(社長)は、残るしかなかった機関士(息子)と共に、船に浸入した水を必死で汲み出しながら、小島に漂着するか、助け船に出遭う事を待つしかないのである。
  日本の製造業の殆どは、大小関わりなく、遅かれ早かれ、私の会社と同じ運命になるだろう。賃金が二十分の一の中国などに工場を移さないと企業は競争に負けるのである。移しても相手企業も移しているから勝つとは限らないが、移さないと即負けなのである。この分では、5年後の日本には、企業は残っているが、工場もなくサラリーマンは殆どいないと言う社会になっているだろう。それでも日本国民は、中国からの安い輸入品に衣食住すべてにわたって依存し、ますます失業率を増やして行くに違いない。
  誰がこの流れを止めるのだろうか?日本は止められないと思う。アメリカも通って来た道と言うが、それは違うと思う。アメリカは自分を守る術を知っていた。日本からの輸入を減らす為に、プラザ合意と言う円高政策に成功した。その上、スーパー301条とかで、輸入制限をし、また、日本に対しては半導体輸出金額に数値目標を立てさせて制限し、鉄鋼製品では、度々ダンピング提訴したりもした。あらゆる手段を尽くして自国の製造業を守ったではないか。
  日本は、タオル、野菜でセイフガードをしたが、ご覧の通り弱腰だ。日本政府は、国内の製造業に業種転換を図れる猶予期間を与えるべく、金融機関に対して、土地担保ではなく、開発技術に対して融資する方策と指導を徹底すべきであった。今からでもやって欲しいが、政府はテロ報復のアメリカ支援で忙しく、とても私達零細企業の支援どころではないようである。失業者、失業予備軍、零細企業の悲鳴は政府、小泉首相には届かないのか?

今回のコラムは、もの悲しい愚痴になってしまったかな……?お許し下さい。
でも、56歳の挑戦は頑張ります。


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2001.10.29

歎異鈔の心―第9條の3項―

まえがき:
5欲(食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲、財欲)があるから煩悩が起る。煩悩があるから私達に苦しみを与える。だから普通、宗教は煩悩を否定するものだと思うが、親鸞得意の逆説で、煩悩があるからこそ、救われるのだと言う。
親鸞は、『善人が救われるのであるから、ましてや悪人は救われる』と言う逆説で有名であるが、人の意表を突くところに親鸞の面目躍如たるものがある。と言うよりも、視点を変えた見方が出来ると言うところに注目すべきかも知れない。
煩悩があるからこそ、浄土への道が開かれている。煩悩があるからこそ、他力の働きがある、仏様の存在が信じられると言う。
浄土真宗における他力本願(阿弥陀仏を信じる心)の謂れ(いわれ)を説明する事は難しいのであるが、精一杯理屈付けようとすると、この條の様な説明になるのだと思う。

本文:
   また、浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の舊里(きゅり)はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまひるべきなり。いそぎ、まひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じさふらへ。

現代解釈:
また、浄土へ急いで参りたいと憧れる心が無くて、ちょっとした病気でもすると、もう死ぬのではないかと心細く思うのも、これまた煩悩があるからです。久遠の昔から今日まで、生まれ変わり死に変わりして迷うて来たこの娑婆世界は、苦しく悩ましいのですが、言わば私達のふる里ですから容易に捨てられない執着があるのです。まだ生まれたことの無い浄土は安楽なところとお聞きしても少しも恋しく思えないので、ますます煩悩の根強いことがわかります。こんなに執着して名残惜しく思っていても、寿命が尽きたら(この娑婆にとどまる縁が尽きましたら)、致し方なく浄土へ参らねばなりません。急いで浄土へ参りたいと思われない者に、ことに憐れみをお掛け下さいます。これにつけても、いよいよ大悲大願を頼みにして往生は間違いないと思い知らされるのです。

あとがき:
しかし親鸞は、煩悩を肯定している訳では決してない。悪を勧めている訳では決してない。それを機縁として、他力の働きに目覚めなさいと言うのである。
お釈迦様も5欲を否定していないと思う。ただ貪り(むさぼり、欲に溺れる)は自分を苦しめるだけだと説かれたのだろう。
三大煩悩の中に、瞋恚(しんに)と言うものがある。感情的に怒り狂うと言うものであるが、 これは、私にも経験がある。感情的に言い争った後、決してすっきりとした心持ちになった事は無いどころか、気が重たくなるものである。
国にも煩悩があると思う。アメリカの今回のアフガン空爆も、瞋恚と言っては遺族の方々に申し訳ないのかも知れないが、あまりにも反応が早過ぎたのではないだろうか。日本の追随は勿論拙速だったと思う。テロを撲滅するのに、軍事力と言うテロを行使しているに過ぎない。これではテロの犠牲になった方々の死は報われないと言うのは、理想論だろか……?


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2001.10.25

あるデーター

   ある中学校の担任の先生が、毎日自分が今まで教えた生徒に学級通信メールとして流したデーターがある。
   現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょうかと言うものである。

その村には・・・
   57人のアジア人
   21人のヨーロッパ人
   14人の南北アメリカ人
   8人のアフリカ人がいます

   52人が女性です
   48人が男性です

   70人が有色人種で
   30人が白人

   70人がキリスト教以外の人で
   30人がキリスト教

   89人が異性愛者で
   11人が同性愛者

   6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍

   80人は標準以下の居住環境に住み
   70人は文字が読めません(70人は誤りで50人程度では…?)
   50人は栄養失調に苦しみ
   1人が瀕死の状態にあり
   1人はいま、生まれようとしています
   1人は(たった1人)は大学の教育を受け
   そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。

 また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら、あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら、あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。

もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら、あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。

もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのならあなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。

もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるならあなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。

もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことです。

もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて,その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。

昔の人がこう言いました。わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。

   お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
       かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
           誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
               誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
                   あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。

   私は、このメール内容を他の人のホームページで知ったので、このデーターの信頼性について確認のしようが無いが、世界の状況をおおよそ把握する上での参考にはなると思う。
   世界の人口は、今年半ばで61憶人と推定されている。2050年には、93億人と予測されている。このうち90%は開発途上国と言う。2050年にはインドが中国を抜いて16憶人でトップ人口を抱えると言う。これらのデーターを見る時、皆さんにも以外な数字があると思う。同性愛者が意外に多い事、10人に1人なんて。パソコンも100人の中で1人しか持っていないとは。そして、文字が読めない、食料が無い等、日本が普通の国と考えるとトンデモナイし、不景気、デフレスパイラル、不幸の真っ最中と思う事すらトンデモナイ。私達は、世界のためにしなければならない事は沢山ありそうだ。

このメールをホームページに掲載していた方も述べておられたのであるが、後半の考え方には少々抵抗を感じる。
   他人との比較で、自己の幸せを感じなさいと言う風に読めるが、幸せ感と言うものは、他人との比較で感じるものではないと思う。キリスト教では、そうなのかも知れないが、『あの人よりも恵まれているから幸せ』と言うのは、何か違うと思う。
以前のコラム(N0.005N0.007)で紹介した、日本のヘレンケラーと称される両手足の無い中村久子さんの詠、『手足なき、身にしあれども生かさるる、いま我いのちは尊とかりけり』のように、自分の心の奥底から湧き出でる幸せ感でなければならないと思う。


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