2001.02.16

えひめ丸の沈没事故は日本の沈没事故

宇和島水産高校の実習船が、アメリカの原子力潜水艦の緊急浮上に巻き込まれて、沈没した。 実習高校生4名を含む行方不明者9名と言う事で、マスコミ・国会を賑わせている。
行方不明者の9名に関してのみならず、生還された方々に関しましても、大変だったろうとお見舞いを申し上げたい気持ちで一杯である。

しかし、この事故を取り上げたマスコミと国会の対応、特に森首相に対する非難は、あまりにも行き過ぎていて、何と低い教育水準の国民かと、私は悲しくて言葉も失う位である。
こんなマスコミに教育されて来た国民の多くも、その報道に乗せられて、森首相に眉をひそめてこき下ろし、やめろやめろの大合唱と言ったところである。
私は、こんな首相の座ならば、さっさと降りたら良いとも思う。森さんも降りたいに決っている。こんな日本の首相と言う、批判非難ばかりの権力の座に、恋々としている訳があるはずが無いと思う。自分の後に手を上げる人がいないからだろう。
こんなに私生活の1分1秒の在り方まで非難される座を誰が望むだろうか?

地位が人を育てるものだ言います。初めからその座に相応しい人は稀である。皆が首相を育てなければなりません。今の状況では、なり手もいないし、なってもどんな有用な人でも、マスコミと野党に殺される。人には長所と欠点がある。首相になる人にも必ず欠点も欠陥もある。この欠点部分だけを強調して指摘しますと、誰が首相でも死にます。首相になる位の人ならば、これ位の批判・非難に耐えて欲しいという声も聞こえて来ますが、現状は、批判・非難を耐えて掴める権力すら無いのである。閣僚・役人の人事権も実質的には持っていない首相は、単に国会を代表するサンドバックだと言って良い。本当は、与党の政策や国の在り方をサンドバックとして叩き続けねばならない野党が、マスコミ以下のネタで首相・政府与党を公の国会で攻撃する姿勢を、私達は決して許してはいけないのである。私は野党の在り方が政治を駄目にしていると思っている。そしてそれは、国民の多くが体制批判を糧として生きるマスコミに乗せられて、野党を批判せずに与党だけ或いは首相だけを批判する姿勢にすっかり飲み込まれている所為だと確信している。

私は、題名にえひめ丸の沈没事故は日本の沈没事故としました。
これは、その後の報道で、あまりにも森首相への批判が多く、それこそ、こんな事では、日本が沈没すると思い、筆を取ったまでである。聞けば、与党からも、そして首相の女房役の官房長官からも、元々ゴルフをすべきでは無かったと言うコメントがあった。何れも、参議院選挙を睨んだ防御のコメントだとは思うが、敵からも味方からも、矢が飛んでくる首相の座の危うさは、日本の危うさであると思う。
私はむしろ、民間人を乗せて操縦までさせたアメリカの大統領をこそ、サンドバックにすべきで、あの事故が起きた数時間のブッシュ大統領が何処で何をしていたかを問題にすべきではないだろうか、良識ある国民に問い掛けたい想いで一杯である。


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2001.02.12

―チーズはどこへ消えた?―

今回はベストセラー本のご紹介を致します。タイトルはその題名です。原書の題名は、『Who Moved My Cheese?』です。この本は、昨年、一昨年と全米でベストセラートップの座を2年間続けたと言う有名な本で、日本でも極最近テレビでも話題にされている本です。
童話的に書かれた物語ですが、『この物語があなたの人生を変える!』とのキャッチコピーが表わしている通り、この物語に登場する2匹のネズミと2人の小人の思考・行動に、私達人間が、挫折する様な苦難に遭遇した時の思考・行動パターンが象徴的に語られています。
そして、私達が苦難に際した時に、どうあるべきかを示唆しており、ひょっとしたら、この本が私達の人生を変える事になるかも知れません。
私達は、この世に生きている中で、人間関係、恋愛、結婚、仕事、友人、家族との関わり合いの上で、ある日突然、思っても見ない事態に遭遇致します。私達は、今の状況がいつまでも続くような錯覚に、遂々陥り勝ちですが、人生は、古(いにしえ)から、無常と言われている如く、常に変化しております。変化していないように見えたり、感じたり致しますが、微々たるものであっても、時々刻々変化している事は間違いありません。
だからこそ、1年前には想像もしていなかった状況が、良いにつけ悪いにつけ、発生していませんでしょうか?1年間何も変化が無かったと言う方は、皆無と言っても良いかも知れません。しかし、それでも、私達は、今の状況がずっと続くように思って、有頂天になっていたり、失意のどん底に居たり致します。
この物語は、そんな私達に、『私達を取り巻く環境は、変化し続けているんだよ!』と言う警鐘と、『思いもしなかった事に遭遇したら、その事が何故起ったかと言う分析に時間を使うよりも、その状況から脱出する方法を見付ける為に、直ちに試行錯誤するべきだ!』と言うメッセージをくれているのだと思います。

2匹のネズミは、スカリーとスニフィー。2名の小人は、ホーとヘム。
何れも、米語では、下記の意味を含んだ、愛称だと言う事です。

スカリー:急いで行く、素早く動く
スニフィー:匂いを嗅ぐ、〜を嗅ぎ付ける
ホー:口ごもる、笑う
ヘム:閉じ込める、取り囲む

さて、あなたは、どの人格に近いでしょうか?
出来ましたら、この本を買い求めて読んで頂きたいです(この本は、扶桑社と言う出版社の本で、838円の本です。殆どの本屋さんの新刊書籍陳列棚に置かれているはずです)が、あらましを私なりにアレンジしてお伝え致します。

迷路の沢山ある洞窟を想像して下さい。そこで、二匹のネズミと二人の小人が、チーズを食べながら生活しています。二匹のネズミと二人の小人は、一生食べて暮せそうなチーズが沢山ある場所を探し当てて、のんびりとした生活をしていました。しかし、単純思考の二匹のネズミは、事実を素直に観察する単純さを持っていますから、チーズが徐々に少なくなって行っている事に気付いていました。しかし一方の二人の小人は、少々脳細胞が発達しており、 想像力、分析力を持っており、それだけに、事実を事実として見れず、自分の都合の良い様に物事を捉えてしまう危なさも持っています。チーズの存在が当たり前のものとなり、これが永遠に続くものと錯覚していました。ネズミ達が毎日、自分達の住み処からチーズのある場所に通っていましたが、少し頭の良い(小智慧が働く)小人達は、チーズの在処りの直ぐ側に住み処を移していました。
ある朝何時も通りチーズを食べに行ったところ、チーズが見当たりません。ネズミ達は、いずれはチーズが無くなる時が来る事を肌で感じていましたから、慌てず騒がず、頭を切り替えて、新しいチーズを求めに、迷路をあっちこっちと探し求めました。頭は良くありませんから、手当り次第、しらみつぶしに探しました。単純な頭ですから、試行錯誤そのものです。 そして、やっと新しいチーズを探し当てます。
二人の小人はどうでしょう。あれほどフンダンにあると思っていたチーズが無くなった事が信じられません。何故・何故・何故と頭で考えます。そして、この場所の何処かに未だチーズはあるはずだ、探し方が足りないかも、と丹念に探しまわります。壁の中も掘り返して見ます。しかし見付かりません。『こんな事って起るはずが無い、おかしい、なんで自分がこんな目に遭わないといけないのか?』と、決して新しいチーズ探しに出掛けません。勿論、ネズミ達の動向は気になります。『帰って来ないところを見ると、チーズを見付けたのかも知れないな』等と、多少の焦りは感じ始めてはいます。特に、ホーと言う小人は、こんな事していても、駄目だ、ネズミ達のように探しに出掛けるべきだと言う想いもしますが、なかなかその勇気が出て来ません。もう一人のヘムは、愚痴ばかりです。住み慣れた、しかもこれまで大きな恩恵を受けてきた、この場所を動くなんて事は全く考えられませんでした。 ホーは、こんな事をしていたら死んでしまうと、終に新しいチーズを探しに迷路に飛び出して行きました。何回かそう言う決断をしては、不安になって引っ返していましたが、今度は、引き返す事無く、迷路に挑戦し始めました。試行錯誤しかありませんでした。ヘムはどうしているかと考える事もありましたが、もう過去に戻る事はしませんでした。

人間は、進化して来た生物ですから、動物の単純な心と複雑な心を合わせ持っています。どちらも大切です。しかし、苦難に遭遇した時は、どうでしょうか?冷静沈着さは必要ですが、 先ずは、事実をそのまま受け容れて、その苦境に陥った原因を探る事よりも、苦境を脱出する方法を手当り次第、試行錯誤して、探し出す事が大切です。
病気になったら、素直に受け取り、病気を治す事に専念すれば良いのですが、少々知識があるばっかりに、本当に病気なのかと本を読んで自己診断したり、原因を分析したり、人の所為にしたりと、ヘムの様に、一歩を歩み出す事になりません。
私も、ヘムのような時もありました。試行錯誤、これも大切なんだと思います。


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2001.02.08

般若心経の解説ーEー

しばらく中断致しましたが、般若心経の解説を続けさせて頂きます。

『無苦集滅道』
(むくじゅうめつどう)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。

『苦・集・滅・道も無く』

この文節も、引き続き『一切は空』と言う事を説いています。苦・集・滅・道は、四諦(したい)と申しまして、お釈迦様が悟りになられた四つの真理です。四諦の諦は、私達が使う、『諦めた(あきらめた)』と言う時の諦ですが、基はと言えば、諦は『明らかに見る(あきらめる)』と言う事です。従って、四諦とは、四つの明らかに見える事、即ち四つの真理と言う事になります。従いまして、この文節は、お釈迦様がお悟りになられた四つの真理そのものも無い、即ち空だと言うわけです。四諦にも囚われるなと説いている文節です。

苦諦は、『人生は苦なり』と言う真理です。私達の人生におきましては、勿論楽しい事もありますが、全ての人は等しく苦悩を抱えながら生きています。苦悩の無い人は皆無と言って良いでしょう。お金持ちになっても、それを失いたく無いために苦悩が生じます。貧乏は、貧乏自体が苦悩です。有名人になれば、プライバシーを侵害される苦悩が生じます。スターは、名も無い時に戻り、自由に出歩き、買い物をしたいが出来ないと言う苦悩が生じます。『有田苦、無田苦(うでんく、むでんく)』と申します通り、田んぼがあっても苦労、田んぼが無くても苦労、即ち財産があっても苦悩があり、財産が無くても苦悩があると言う事で、苦悩の無い人はいないと、昔から申します。その通りですね。

集諦は、苦を招き集めるもの、即ち苦には原因があると言う真理です。それは『貪欲こそ苦の本なり』と申して良いでしょう。人間誰しも欲を持っていますし、欲がなければ、始まりません。適度な欲は、むしろ人間を成長させ、導きます。しかし、過ぎたるは及ばざるが如しで、貪欲(欲をむさぼる)は、苦悩になります。仏教では『知足(ちそく)』と言う言葉がございます。足は満足の足ですから、満ち足りると言う事で、『知足』は『足るを知る』即ち、『これで充分ですと言う節度を持ちましょう』と言う教えですね。確かに私達の欲に任せていたら、際限がありません。会社から貰う月給も、10万円貰えば20万円が欲しくなの、20万円貰えば、30万円、そして……100万円貰っても満足しません。プロ野球選手の年俸交渉を新聞読んで、どうでしょうか?1億円を提示されていても、交渉決裂!普通のサラリーマンから見れば、夢のような金額でも、その選手に取りましては、不満足なのです。お釈迦様は、『喩えヒマラヤの山を全て金に変えても、人間の欲を満足させられないだろう』とおっしゃったそうです。欲は限りなく膨らんで行き、どこまでも不満足です。 足るを知る事が私達を苦から救います。まさに真理ではないでしょうか? 但し、仏教は欲を否定しているのではありません。苦悩から解放される道として『小欲知足(しょうよくちそく)』を勧めているのです。

滅諦は、悟りの世界とはどんなものかと言う事を示しています。『滅』とは生滅の滅で、苦が滅した悟りの世界を言います。

道諦は、悟りの世界に行く方法を明らかにしたもので、有名な八正道を示している事になりますが、その中でも、正見(正しい見方)が大切です。正しい見方とは、因縁果の道理をはっきりと認識する事です。因縁果の道理をはっきりと認識出来れば、もう悟りの世界です。苦悩の無い世の中になると言う真理が、道諦です。
八正道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定ですが、詳しい事は、参考書をご覧下さい。ここでは、全ての根本である、正見を代表と考えて良いと思います。

この文節は、これら四諦も空だと言っています。四諦にも囚われるなと言っている訳であります。深遠なる仏教哲学の理論にも囚われるなと言う事を繰り返し説いているのです。他の宗教では、こんな思い切った事は申しません。教理の正しさを懇々と説いて止まないのが普通の宗教ですが、正しい仏教は、全て『空』だと説く訳です。全てに囚われてはいけない。教理にも囚われてはいけないと言う訳です。この徹底が素晴らしいと思いますし、だからこそ、正しいと思わざるを得ません。
そして、全てに囚われるなと言い、全てを否定し尽くしなさいと説いているのですが、本当に否定し尽くし得た、その人のその瞬間に、『空即是色』の世界が現れ、一転して、全肯定の世界に目覚めるのだと思います。
その全肯定の世界は、この世の全てが自分と一体、雲を見ても、自分が浮かんでいると思い、草木を見ても、自分が其処に咲いていると感じる、そんな『舎利子見よ、空即是色、花盛り』と言う境地になるのだと思います。

この説明でも理解する事は難しいと思います。

能く比喩的に持ち出されるのが、水泳の事です。私達は誰でも、初めて海に入った時は、浮き上がりませんので泳げません。泳ごうとしても、沈みますから、泳げません。体の力を抜けば、浮くと教えられて、力を抜こうとして却って力が入ってしまい、余計に沈みます。
自分の力で浮こうと努力しますから、どうしても駄目です。全てを水に任せ切った瞬間、何にも苦労無く浮き上がります。即ち、自分をすべて無くして水に任せ切ったら、苦も無く浮き上がります。一旦それを会得致しますと、力を抜こうとか、浮こうと言う気持ち自体もないのに、簡単に浮き、泳ぐ事が出来ます。
それとほぼ同様に、自己を全否定出来たら、瞬間的に悟りの世界に目覚めるのですが、私達はなかなか自分を捨て切れません。何処までも自分の力を頼りにしています。悟ろう、悟ろうとして力が入ります。
ふっと自分を任せ切れる瞬間に、一切が花盛りになるのだと思います。水泳と同様、これは、いくら説明しても、その本人が浮き上がる体験をしないと分かりません。
こう言っている私自身も、未だ自分の力を信じ切っておりまして、悟りの世界の入り口は果てしなく遠いのです。
でも、何となく空即是色の瞬間が、何れは訪れそうに思います。


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2001.02.05

ニアミス事故について

1月31日(水曜日)午後15時55分頃、日航の2機の間でニアミスがあり、41名が重軽傷を負う事故があった。2月3日の朝刊以降の新聞報道では、直接原因は、訓練中の管制官が、機種名を間違った単純な指示ミスと言うものになっている。この報道の通りかも知れないが、しかし疑って見る必要も大いにある事を一般の人々に伝えておく必要を感じた。あまりにも、本当の経緯が公にされるのが遅過ぎたからであるし、真実でない可能性もあり得る事を考えるべであると思うからである。

私は、今回の報道で飛行機が、羽田空港内の管制塔では無く、所沢市の東京航空交通管制部と言う建物の一室にいる管制官の指示で飛行している事を初めて知った位の無知さ加減であるし、奇数の便(今回は907便)が羽田を出発する便で、偶数番号の便(今回は958便)が羽田に着陸する便であると言う事すら知らなかったし、ましてや空域を細かく分けて、相当多くの管制官が手分けしている事すら知らなかったので、このニアミスを云々する資格はないのであるが、永年企業で品質クレームとか現場事故対策に関わって来たし、そして今もそう言う立場に身を置いている者として、一般人々では思い及ばないと思われる事故の背景、原因と対策に関して申し述べておく必要を感じたのは本当である。

先ず、今朝の新聞で発表された、管制官の単純な指示ミス(958便と言うべきところを、907便と言ってしまったと言う)が真実であるかどうかである。確かにこのミスであれば、全ての辻褄(つじつま)が合い、今回のニアミスが発生した経緯を疑う事無く、納得してしまう。新聞に発表されている交信記録が、所謂ボスイレコーダーの様なものであり、耳で聞けるものならば、信用するしかないが、国土交通省の発表資料と言うからには、既に加工されたものであり、そのまま信用して良いかどうかは甚だ疑問なのである。

と言うのは、企業が発表する事故原因とか、品質不良原因は、かなり加工される場合が多いと言う事である。時間が経過したものであれば、余計に疑わしいと考えるべきである。もっと信用を失墜する様な原因があるかも知れない。説明が付かない原因、表沙汰に出来ない原因があるかも知れないのである。訓練中の未熟な管制官の所為とした方が他の納得を得易い事は確かである。

もし、勘違いでは無くて、その管制官が自分の判断として、907便を降下させる事が最善の方策だとして指示したのであるが、一方の958便の降下具合を読み違えて、降下指示を出すタイミング、或いは指示高度を間違えた事が本当の原因であったとしたら、どう言う事態になるであろうか。側にいた指導管制官の指導能力を含めて、訓練システムそのものに問題があったとして、国土交通省のトップの更迭問題にまで発展せざるを得ないし、森首相の退陣にまで発展しかねない。

ケースケースに応じた処理方法、指示の在り方があるはずである。しかし今回の様な、切羽詰まった状況におけるニアミス回避の処方箋が文書(企業では標準書と言う)としてあるだろうか?無ければおかしいのである。その時その時の状況に応じて管制官の判断に任せていると言うのでは、絶対に困るのである。その様な状況を模擬的に作り出しての訓練メニューが航空大学在籍中に受けている必要があるはずである。もし、訓練中の管制官が自分の判断で907便に降下を指示したと発言したら、恐らくは、前述の訓練の在り方、標準書の存在が追求されるはずである。そして、多分、そんな訓練は為されていないだろうし、一般企業ならば、必ず持っているはずの標準手順書すら持っていないであろうから、管制部のトップは立ち往生するしかないと思う。

企業のクレームの原因も、根本的な管理体制に不信感を抱かせる事を避けるために、いわゆる新人の不馴れな所為にしてしまう事が多い。本当の原因を発表してしまうと、客が離れてしまう事になりかねないと言う意識が働くからであろう。確かに、新人はミスを犯し易い事も確かであるし、本当にそれが原因である場合が多いのも事実であるが、新人のうっかりミスでは無く、新人を正しく指導していなかった事から来るミスも多いのである。新人を正しく指導せずに発生したクレームである事をお客さんが聞いたら、『新人を指導もせずに、直ぐに作業させるってどういう事?』と不審を抱かれ、もう二度と注文は貰えないだろうと考えるのも頷けるでは無いか。

もし、あの緊急の場合についての対応の仕方を指導していなかった為に発生したニアミスだとしたら、『大事な多数の人命を預かる職業である管制官の指導システムであるのに、何と言うズサンさ!』と、役所、延いては国の管理体制の甘さ・ズサンさとして、国会の問題となる事は必至である。

私の会社も、品質クレームは発生するが、私は、たとえ外部に発表する事が憚(はばか)れる原因であっても、真実を報告・発表する事を徹底している。真実の原因と、その再発を防止する真実の対策を公にしないと、また再発させるし、企業の信用を永遠に勝ち取れないと思うからである。

今回のニアミスの直接原因が、報道の通りである事を望んでいる。しかしもし、真実でなければ、また、いつかニアミスでは無く、空中衝突により、多くの人命を失う惨事を発生する事になるので、本当は、2名の管制官と2名の機長が同席した中での本当の声を聞きたいものであるし、報道各社も、本当の声を伝える義務と権利がある事を認識して欲しい。

私は、今回のニアミス報道に対して、あまりにも疑い深過ぎるかも知れないが、今回は不幸中の幸いにも、死者が一人も出ずに済んだのである。ニアミスの再発を徹底的に防止する為にも、報道各社に頑張って欲しい気持ちで一杯である。通常、政府与党の発言に対しては極めて疑い深い報道各社が、今回はあまりにも素直に、国土交通省航空事故調査委員会の報告を受け容れている事が不思議で仕方が無いので、敢えて一石を投じた積もりである。


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2001.02.01

3人の死について

先日、東京都内のJRの駅ホームで3名の方が亡くなられました。痛ましい死でした。その中の一人が韓国からの留学生でしたので、より悲惨な痛ましい事故として報道されました。
追悼式に森首相が参列された事は、この事故の特殊性を物語っていると思います。私は、この事故について、色々と想う事がありましたが、それらはきっと他の方も感じられた事と思います。

一つは、『私があの現場に居合わせたとしたら、どういう行動を取っただろうか?』と言う事です。ホームから転落した人を見て、電車が迫っている中、果たして助けに降りただろうかと考えると、どうも自分の命惜しさに見殺しにするのでは無いかと思い、救助しようと飛び降りたお二人の勇気と優しさに頭が下がるとともに、自分の情けなさで少々自己嫌悪感を覚えました。一方、想わぬ出来事に遭遇したのだから、ひょっとしたら自分も反射的に助けに飛び降りて、死んでいたかも知れないと思い、死の恐怖感を覚えるとともに、飽くまでも自分の死を回避しようと考える自分にホトホト嫌気が差しました。

お酒をタラフク飲んで、ホームから転落した人の死については、同情よりも、きっと責める意見が多いでしょう。悲惨な死を遂げた上に、他人を巻き添えにした罪を責められると言う不運な死です。家族・親族も、素直に死を悼む気にならないかも知れません。私自身、お酒を飲んで、前後不覚になり、お酒を飲んだ店からどうやって帰ったかを思い出せない朝を何回か経験しており、自分がそういう事にならないとは、決して断言は出来ません。ですからこの方の死に対しても又、反省と恐怖心を感じました。

そして、救助に飛び降りた日本人のカメラマンの死は、韓国留学生の死の陰に隠れてしまいがちです。独り遺された母親の無念さ、淋しさ、悔しさは、如何ばかりでしょうか。同じ死でも、報道関係の取り扱いが異なるのは致し方無いですが、第3者の私達は、差を付ける事無く死を悼みたいと思います。

私達にはいつ死が訪れるか分かりません。そしてどんな死に方が待っているかも分かりません。昨年末、世田谷区で一家4人が残忍に殺された事件もありました。また、つい先日のインドでの地震では、神戸震災を上回る犠牲者を出しているようです。突然の悲惨な死は、現実に起っています。

仏教的には、どういう受け止め方をするのでしようか。因果応報と言う捉え方をして、過去に何かその人に原因があると捉えるのでしょうか。因縁果と言う真理を当て嵌めるのでしょうか。そうでは無いと思います。仏教にせよ、キリスト教にしても、宗教は、自分の心との向き合い、自分の生き方が問題であり、他の人に起る現象を考察したり、批判したり、原因を追求する立場にはありません。勿論無関心を勧めている訳でも無く、死を悼むと言う自然の感情を否定するものではありません。

他の方々の死に接した時、今生きている自分の命の大切さ、他の命の大切さを認識して、毎日毎日を大切に生きる事を問いかけているものだと思います。


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2001.01.29

『祝婚歌』

『祝婚歌』は、詩人、吉野弘さんの代表的な詩らしい。らしいと言うのは、極最近読んだ本で、初めて知ったからです。吉野弘さんと言う名前も、詩人であると言う事も知らなかった、ましてや、『祝婚歌』と言う詩は知りませんでした。
私は、詩を好んで読む者ではありません。しかし、この詩は、心に柔らかく響き、いいなぁーと素直に思いました。ひょっとしたら、ご存知の方が多いのかも知れませんが、もし知らない人が一人でもいたら、知っていて欲しいと思い、紹介したい気持ちになりました。

『祝婚歌』

二人が睦(むつ)まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人には分かるのであってほしい

この詩は、吉野さんが、三人いる姪御さんの中のお一人が結婚される時に、たまたま結婚式に出席出来なくなり、ふっと思いついて『すらすらと書いて』贈った詩と言う事です。多分御自身の夫婦の在り方を詠われたものでしょうし、そして、姪御さんに、こう言う夫婦になったくれたらなぁーと言う想いをそのまま詩に書かれたものであると思います。
47歳の時に書かれた詩と言う事もありますが、私達30年位の夫婦にも、すぅーと穏やかに、胸に沁み込む詩の内容です。私も、自分の子どもにしても、姪や甥にしても、孫にしても、その結婚に際しては、贈りたい詩だと思いました。

夫婦は、実に不思議な関係だ思います。友達では無いし、勿論もう恋人でもありません。兄弟のような血の繋がりもありません。親子の絆(きずな)は殊の外深く強いものですが、夫婦は、ある意味では親子よりも深い関係です。それは、親子よりも一緒に暮す年月が長いからと言う事から来るのでは無いと思います。そして多分、親の死よりも配偶者の死の方が、ぽっかりと開く胸の穴はきっと大きい事でしょう。私達夫婦はそういう夫婦だと思いますし、子供達、孫達、甥姪達の夫婦関係は、そうあって欲しいと思います。多分そういう願いを込めて、吉野さんはこの詩を一気に書き上げたと思います。
勿論、結婚した当初からこんな夫婦はないと思います。
お互いに不満も抱き合い、喧嘩もしながら、時には助け合って苦難を乗り越え、子供たちの為に力を尽くし、親になって初めて知った親の有り難さも充分知り尽くした果てに辿り着く夫婦の絆(きずな)と言うものがあるように思います。それは、ちょうど深い山奥を源とした川が、何箇所も曲がりくねって、岩にぶつかったり、そしてある時は激流ともなり、滝にもなり、その果てに辿り着いた、ゆったりとした海のようなものかも知れません。

私達夫婦は、吉野さんがこの詩を詠んだ時よりは既に年を経ていますが、未だ若い老夫婦です(3人の孫があります)。ですから、これから更に、夫婦の味わいも微妙に変化して行く事でしょう。
しかし、きっと淡くなる事はなく、多分かけがいのない命同士として、より濃いものになるに違いないと確信しています。

私の母は、48歳で54歳の父を交通事故で亡くしました。それからは、大学4年生の長女から、小学4年生の私までの5人を育てるのに必死で、夫婦の絆を味わう事無く、80歳で無くなりました。晩年は、子供たちと暮す事を遠慮して独り暮しでした。今思うのに、母が生きている間に、配偶者を亡くした母の淋しさを心深く思いやり、もう少し、もう少し大切にすべきであったと後悔致しますが、お墓に毛布を掛ける訳にも参りません。親の年になるまで、その年の親の気持ちは分からないものです。幸い私達は未だ健在ですから、夫婦して心豊かな暮らしを満喫出来る事を喜び合いたいと思いました。

『祝婚歌』には、そんな事まで思わされました。この詩は、結婚を祝う歌と言うよりも、人生の有り様を歌い上げた詩だと思います。


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2001.01.25

般若心経の解説ーDー

般若心経の解説を続けさせて頂きます。

『無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽』

(むむみょう。やくむむみょうじん。ないしむろうし。やくむろうしじん)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。

『無明も無く、また無明の尽きる事も無く、乃至、老死も無く、また老死の尽きる事も無し』

これ文節を忠実に現代語訳する事は、出来ませんが、ここでも、引き続き『一切は空』と言う事を説いています。だだ、これまでは、宇宙の森羅万象、全ての存在について『一切は空』と言う事を説いて来たのですが、ここでは、宇宙の真理を語るところの智慧についてもまた『空』だと説いているのです。

仏教哲学で、『十二因縁』と言う考えがあり、お釈迦様が悟りを開かれた、因縁の道筋を、12ステップに分けて示したものです。その最初と最後のステップが、無明と老死なのです。 途中の10ステップを省いたので、『乃至』と言う言葉を入れているのです。私も十二因縁の各ステップの意味も完全には理解出来ていません。また説明しても却って何が何か分からなくなりますので、詳細な説明は省きます。

ただ、無明と老死について、少し説明しておきます。
無明とは、文字通り、明かりが無い、即ち暗闇です。人間は基本的には、何も分かっていないから、無明の存在です。惑う存在と言い換えても良いでしょう。人間の全ての苦悩は、この無明が出発点だと言う訳です。
老死は、苦の象徴として考えます。老いる事や、死ぬ事は、私達にとって苦そのものです。

無明が無ければ、苦が無い。無明が無いから、元々無明が尽きると言う事も無いし、老死が無いから、老死が尽きる事も無いと言う事ですが、要するに、因縁と言う事も、また固定的に捉えるものでは無く、これまた『空』と考え、囚われてはいけないと言う事です。

お釈迦様のお悟りになった事は、因縁の道理です。因に縁が重なって結果が生じる、そしてそれが無限に繰り返されて行くと言う事をお悟りになった訳です。固定したものは無いと言う事です。徹底した因縁と空を知りなさいと言う風に受け取れば良いと思います。


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2001.01.22

般若心経と浄土真宗

般若心経の解説を一休みして、般若心経の解説をするうちに感じている事を申し述べたいと思います。それは、般若心経の教えと親鸞の教えに関する事です。般若心経の『空』の教えも、浄土真宗の他力の教えも、お釈迦様が出発点である事は間違いありません。しかし、浄土真宗では、般若心経をご仏前で読み上げる事は極めて少ない様に思います。そして仏教の宗派は沢山ありますが、浄土真宗だけが、むしろ般若心経を避けているようなところがあると聞いております。

しかし私の生まれ育った家は浄土真宗で、朝晩家族全員で、お経を詠んでいましたが、浄土経典に混じって般若心経も詠んでいましたので、私自身は全く抵抗も有りませんでしたし、むしろ幼い頃は同じ教えなんだと言う風に思っていました。

従って、これまで私は、親鸞の『他力の教え』と般若心経の『空の教え』を比較してみた事はありませんが、今回般若心経の解説をしている中に、両方の教えは、何も矛盾するものでは無いし、何れも、お釈迦様がお悟りになった『因縁果』の真理が基本にあると確信するようになりました。

この世の色々な出来事(結果)は、必ず原因があって生じており、更にその原因に様々な無数の条件(縁)が働いて生じたものであると言う、因縁果の真理を体得すると、自分の力が如何に微々たるものかを知らされます。因縁果は宇宙を動かす力、即ち他力によって営まれている法則なのです。因縁果は、無限に連鎖します。一つの果は、また色々な縁によって次の果に移り変わって行きます。常に変化し、固定するものは無いのです。固定するものが無い『空』の教えそのものなのです。

私は、空と因縁果を詠い上げた他力信仰者の有名な詠を思い出しました。 浄土真宗の信仰者であり、学者であった白井成允先生(故広島大学名誉教授)がお読みになった詠(無相庵カレンダーにも採用させて頂いております)は、他力本願を詠い上げたものです。

『いつの日に、死なんもよしや弥陀佛の、み光の中の御命なり』詠の解説

自分の命を御命(おんいのち)と確信されています。もう自分の命では無く、佛様の命なのです。自分と言うものが完全に無くなっていると思います。他力に委ね切った心境です。死と言うものは、自分が決めるものでは無く、縁が整えば、どうする事も無く死んで行かねばなりません。この詠は、他力を詠ったものですが、因縁果の真理に委ねきった詠とも言えると思います。
このお詠で、般若心経の空と親鸞の他力の教えが同じ事だと心深く認識出来た次第です。


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2001.01.15

般若心経の解説ーCー

般若心経の解説を続けさせて頂きます。

『是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界』

(ぜこくうちゅうむしき。むじゅそうぎょうしき。むげんにびぜつしんい。むしきしょうこうみしょくほう。むげんかい。ないしむいしきかい)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。

『是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、 色・声・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至意識界も無し』

これは、現代語訳する必要はないと思います。
一切は空だと言う事を、前文節に引き続き、更に詳しく、繰り返しているものです。

肝腎な事は、『無』と言う文字は、『実体が無い、たまたま因縁があって存在しているだけで、固定しているものでは無い』と言う意味です。
『無』=『空』と考えて読めば良いと思います。
私が消えれば、世界も宇宙も消えると言います。私の死と共に宇宙は消える訳です。
もっと徹底して言いますと、地球から人類が絶滅すれば、地球も宇宙も無くなります。
地球も、宇宙もそれを認識出来る人類がいないからです。
こう言っても、先入観念があると、なかなか理解出来ないと思います。
これまで、無数の人が死んで行っているのに、やはりこうして、地球も宇宙も存在しているでは無いかと。
しかし、例えば、生まれ付き耳の聞こえない人に取りましては、音は無いのです。
音は存在しないのです。
音が聞こえる人から、聞こえない人に音を説明する手だてはありません。
生まれ付き眼の見えない人には、同様に山は無いのです。海も無いのです
そう考えれば、物の存在と言うものも空と言う感覚も、何と無く分かる様になりますね。
このところをこの文節で、以下の様に、事細かく説明しているのです。

私達は、物を眼球で捉え、視神経があるから、初めて物の存在を認識出来ます。
これを仏教哲学では眼界と言っています。
同様に、音は耳の鼓膜で捉え、耳の神経で脳に伝達され、音の存在を認識致します。
これを耳界と言います。香りも、味も、感触も同様です。
そして、これらの感覚でそれらの存在を意識出来る神経系統の存在によって、感情・知覚・意思が生まれます、これを意識界と言います。

例えば、眼球が無くては、物の存在を認識出来ません。
眼球があっても、視神経が無ければ、これまた、物の存在を認識出来ません。
視神経があっても、これを認識する頭脳が無ければ、物の存在は認識出来ません。
眼球も、視神経も、頭脳も、固定した物では無く、たまたま因縁によって存在しているだけですから、その中どれか消滅すれば、物も無いのと同じ事になります。
音も、味もその他全てが、こうして、たまたま認識されているから、存在するように、思っていますが、本来、固定的に存在するものでは無いと言う訳です。
たまたま人類が存在しているから、この宇宙も存在する。人類が無くなれば、宇宙も消える。
少し難しいですが、全ては、因縁によって瞬間的に成立しているものであると言う『空』を説明しているのです。

このお経は、紀元前後にインドで成立したものと思いますが、凄い哲学です。
未だ、宇宙の事もそんなに分かっていない時代ですし、遺伝子についても、知識が無い時代です。
それなのに、深い洞察をしていたものだと感心させられます。


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2001.01.10

般若心経の解説ーBー


正月早々、我が社の主要取引先である会社社長の訃報に接しました。62歳と言う若さです。
死因(胆嚢癌)から察しますと、ご自身、そしてご自身に極近い人々は予期されていたかも知れませんが、存じ上げている方の突然の訃報に接しますと、私達はどうしても、その方のお元気な時のお姿を思い浮かべ、人生の儚さ(はかなさ)を感じてしまうものです。
その社長さんは大会社の社長であり、私などは、そう度々お会いする立場にはありませんでしたが、それでも1年前のある会合と、偶然お会いしたゴルフ場のクラブハウスで、にこやかな笑顔でご挨拶して頂いたご表情がまざまざと浮かんで参りまして、やはり儚さと淋しさを感じざるを得ませんでした。
ただ、ただ、ご冥福をお祈りするのみです。

般若心経の世界から、人の死を捉えますと、一切空として、致し方無いものとして諦めよ、と言う風に誤解する方もあるかも知れませんが、そうではありません。
仏教は決して人間の感情を否定するものではありません。
それが、前回コラムの色即是空、空即是色の大切なところであります。
一切空であるから、諦めなさいと言うのは、色即是空で終わる世界だと思います。
それで終わらずに、空即是色と言う世界に戻って来なければ、仏教は死んだ宗教になってしまいます。
『舎利子見よ、空即是色、花盛り』なのです。
一切空とは悟りながらも、悲しい時は、思い切り泣けば良いし、嬉しい時は、大喜びすれば良いと言うのが、般若心経の心であり、仏教の心だと思います。
ただ、いつまでも囚われるなよ、と言う事だと思います。


さて、般若心経の解説を続けさせて頂きます。

『舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。』
(しゃりし。ぜしょほうくうそう。ふしょうふめつ。ふくふじょう。ふぞうふげん。)

本に記載されている和訳は、下記の通りです。

『舎利子よ、是の諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり』

これを現代語訳致しますと、

『舎利子よ、この世界中に存在する形ある物も、形無いものも皆、空と言う状態であるから、生じると言っても、何も新しく生じるものでは無いし、滅すると言っても、すべてが一切無くなってしまうのではない。汚いとか、綺麗だとか、増えたとか減ったと言う事も無いのだよ。』

ここでは、前文節の空と色が異なるものではないと言う事を受けて、空に関する念押しの説明をしているだと思われます。

『諸法』と言うのは、勿論『諸々の法律』と言う事ではありません。
仏教専門用語としての『法』と言うのは、存在と言う事です。
ですから、諸法と言いますと、諸々の存在と言う事になります。

そして次の『空相』の『相』は、物理化学で言う、気相、液相、固相と言う時の『相』と同じで、姿とか状態と考えて良いでしょう。
参考までに、このホームページの呼称である、『無相庵』の相も同じ意味で使用しています。

この文節では『不』と言う文字の解釈が大切になります。
不は通常は否定を表わしますが、不生不滅と言う場合、生滅(しょうめつ)を超えると言いますか、生滅に拘らないとか、囚われないと言う風に解釈すれば良いと思います。
そして、続く不垢不浄の垢は『あか』ですから、汚いものと解釈して『汚いもの』、浄はそのまま清浄なもの、綺麗ものと解釈できます。
従って不垢不浄は、汚いと言う事も無ければ、綺麗と言う事も無いと、囚われてはいけないと言う事を言っています。
確かに、綺麗とか汚いも、人間が勝手に取り決めたものです。
人間に備わった感覚があるから、綺麗、汚いと言う区別(分別とも)するのであって、これは私達人間だけのと言うよりも、物心付いた人間の囚われから発生した感覚だと言う訳です。

『幼子(おさなご)が、次第次第に智慧づきて、佛に遠くなるぞ悲しき』と言う詠があります。
赤ちゃんは、綺麗・汚いの分別が付かなくて、例えば自分の糞尿でも触ろうと致します。
しかし、成長するに従い、物の綺麗・汚いの区別が付くようになります。
10代になりますと、異常な潔癖症に陥ることすらあります。
因みに、この詠で使っている智慧と言う語句は、般若の智慧では無く、仏教では識と言い、誤解と解釈して良い智慧の事です。
ですから、人間は大きくなるに従って、色々と間違った知識を身に付けて行き、仏様から遠く遠くなっていくと言う詠ですが、一面の真理ではないでしょうか。

我が家にシェパードの老犬がいますが、散歩中、不注意しますと、他の犬の糞を食べてしまう事もございます。
人間の大人にはとても出来ない事です。
犬に綺麗・汚いは無いかも知れませんが、とにかく綺麗・汚いは地球の人間が勝手に決めた区別であり、地球上の別の生物に取りましては、全く当て嵌まらないと考えるべきだと思います。

私達は、物心ついてから、色々と習得します。分別を知ります。誤解も得意となります。
そして『自分の想いは正しい、自分の感覚は正しい』と思っています。
これを『迷い』と言います。
この『迷い』を捨て去りなさいと言いたいがために、不生不滅と言い、不垢不浄と言っている訳です。
そして次の不増不減も同様です。
しかし、一旦身につけた誤解=迷いは、そう簡単には自らの力で完全に払う事は出来ません。
頭で多少は理解出来たとしても、なかなか納得と言うところには参りません。
やはり、頭だけの理解ではなく、修行が必要だと思います。
修行とは、別に僧になって、苦行をするのでは無く、今の日常生活の中で、深く因縁果を体験して、色即是空、空即是色を実感する事だと思います。

例えば、私の会社は今大変な苦境にあります。
今年の年末には、売上高が半減する事が納入先からの情報で決っています。
昨年の7月にそういう情報を頂きました。
労働コストの低い中国生産品にシェアを奪われると言う、お決まりの空洞化現象です。
既に売上高の減少傾向が現れており、現在の経営状況は極めて苦しいものです。
2、3ヶ月先の見通しすら立っていません。
ですから、今年の6月まで会社が存続すると言う保証も無いと言う状況です。

しかし、社長の私は、不思議に落ち込んではいません。
勿論慌ててはいますから、存続するための方策は、ありとあらゆる事をしています。
弊社の事業に関係がありそうな過去の人脈(友人、知人)を全て頼りとし、そして取引会社にも協力も求めています。
金融関係にも精一杯のアプローチをしています。
シェアーを奪われる製品の新市場(世界を含む)開拓だけではなく、一昨年に弊社が開発した多孔性材料の商品開発にも、精一杯の努力をしています。
また、積極的な人員削減は致しませんでしたが、それなりにスリム化の努力も致しました。
やるべき事は精一杯やりまして、後は天命を待つと言う事でしょうか。
いや、むしろ天命を信じて、精一杯の事をしていると言って良いと思います。
これは、私にお釈迦様の教えが届いていなければ、こうはならなかったと思います。
絶望の淵で、寝込んでいるか、或いは取引先を怨み、世間を怨んで、自暴自棄になっているものと思います。
まだ、私は仏教の悟りに至っている訳ではありませんが、因縁果と言う事を、50数年の人生を通して教えられた様に感じます。
即ち、物事は人間が感得出来る縁(条件)だけで、成立するものでは無いと言う事を教えて頂きました。
人間が思い及ばない事が沢山集まって、初めて、ある現象が生じるのだと言う事です。
9年前に脱サラをして、バブルが弾けて後の今日までの9年間、経営を存続出来た事自体、私だけの力では無い事は明白です。
無数の人々、無数の会社のお陰ですし、世界の経済情勢の流れもあります。
私には説明の出来ない無数の縁(条件)によってしか、有り得なかった事だと実感しています。
そして、今、会社存続の一方の可能性となっている新技術も、2年前までは存じ上げなかった遠く東北の会社(前に勤務していた会社の取引先が弊社を紹介した経緯)からの突然の要望によって開発着手し、そして他企業に勤務する大学時代の同級生の存在が技術開発成功の大きなキーポイントであった事を考えますと、私が生きて来た無数の縁の集合によって初めて取得出来た特許技術と言う事が実感なのです。
従いまして、今の会社の苦境も、私一人の力だけでは、とても乗り越えられるものではないと言う事もはっきりしておりますから、不思議と無用の焦りを感じておりません。

更に、この苦境にあっても『ただ、今の自分に出来る事を精一杯やるだけ』と言う穏やかな心境にさせて頂いているのも、私の努力で得た心境では無く、それこそ、事業家でありながら、仏教信仰の厚かった祖父、そして未亡人になりながらも仏教会を主宰した母親、そして多くの老師、先生、サラリーマン時代の先輩諸氏、遡れば限りの無い、無数の人々のお陰である事も実感しております。
この苦境を乗り越えるか、はたまた違う形になるかは分かりませんが、この体験こそが、仏道修行であろうと思います。
そして将来、この経験を通してより深い因縁果、空を実感する事と思います。

私事になりましたが、因縁果、空を理解する上での、多少のご参考になればと思い、私の現在の苦境と心境を披露させて頂きました。


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