親鸞仏法の核心―仏と離れて密着する

米沢英雄先生

親鸞の信仰の核心というのは、こうなのではないか、と私は考えております。
こちらに仏があって、もう一方の側に凡夫がおる。凡夫は仏法を聞いている。仏というのは、仏がおるわけでなく、仏の教えがあるわけです。ですから、仏の教えを聞いていくと、だんだん仏の心がわかってきて、ここで仏と凡夫が遇うんです。 そして自己に目覚めたところで、これを信心を得たといい、禅なら、悟りを開いたということです。仏と凡夫が一体となる、つまり、仏凡一体というわけです。

ところが、親鸞の信仰というのは、ここから離れていくんです。一度、一体になって、ここで踊躍歓喜があるわけですけれども、ここから、また離れていく。凡夫はいよいよ煩悩が起こって来て、それにつれて、いよいよ離れていく。そして、仏 と離れていくけれども、離れれば離れるほど、仏と非常に密着してくる。

これを、西田幾太郎先生が、絶対矛盾の自己同一、と言われたんです。

親鸞というのは、悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり、と言うているほど、仏に非常に近い。仏の教えを聞く前は、自分が、悪性さらにやめがたい、なんてことはわからないばかりか、自分ほど善いものはないと思うているのが凡夫な んです。
ところが、仏法を聞いていくと、自分は、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫だということが分かってくる。分かって来て、頭を下げた。頭を下げたところで、仏と凡夫がひとつになった。そして、それからまた、だんだん離れていく。離れていく、とい うところが、親鸞の信仰の特徴でないかと思うんです。

仏と非常な距離がある、絶対、仏になれん、という人が仏になっている。こういう絶対矛盾の自己同一、それを身をもって証明しているのが、親鸞の信心というものでないかと思うているんです。
このへんのところがわからんから、新興宗教なんかは悪口を言うんです。親鸞という人は86になってもまだ、浄土真宗に帰すれども、真実の信はない、と自分で言うている。そんな者の後についていったって、信心は得られん、とこういう風に 言う。
浄土真宗に帰しておるからこそ、真実の信がない、ということが分かるのである。仏に会うているからこそ、自分は悪人だということがわかるんです。
そして、仏といつも一緒におったということが、悪性さらにやめがたし、ということを自分に言わしめた、と思うんです。悪性さらにやめがたいやつや、ということが、仏に照らされている、ということを証明しているのでないか。
そういうところが機微というか、非常に微妙なところで、そこが分かりにくいところ、誤解されるところだと思います。

教えを聞くことによって、いかに自分が自分を甘やかしているか、自分を撫でまわしているかが見えてくる。自我が生きているということが見えてくる。
そういう自分が見えてくると、自分はあさましいなあ、自分さえよければいい、という自我にふりまわされて生きているのやなあ、ということがはっきりしてくる。そういうことが、仏の光に照らされて、というか、人間を超えた知恵によって、自 分が見つめられている、ということなんで、それが実は救いなんです。
自分がはっきり見えてくると、人間は非常に謙虚になることができる。謙虚になる者には一切が与えられる、ということです。

息しているだけでありがたい、飯一粒にあたるだけでありがたい、ということになりますと、家族の者から、全ての人たちから、支えられて生きている。こんなろくでなしを、よくみなさんが大事にして下さる、というような非常に謙虚な心があらわれる。
そんな風に言うたら、これは非常に消極的なことのように思われるかもしれないけれども、実はこれが一番の積極道であります。宇宙中を自分のものにすることができるんです。自分のものにすると言うても、宇宙はわが物や、と言うんでなくて、宇宙中 を拝むことができるということです。天地一切を拝むことができれば、その人には、天地一切が与えられる、ということが言えるんでないでしょうか。

無相庵の註釈
六行目に『凡夫はいよいよ煩悩が起こって来て・・・』とありますが、勿論、信心を得ると煩悩が余計に起こると云うことではなく、「今まで気付かなかった我が心の中でうごめいていた些細な煩悩に至るまで見逃せなくなる・・・」と云うことだ と思います。




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