人間に救いはあるか
二人の障害児をかかえて

米沢英雄先生

【米沢】
最近、この(昭和50年)6月に来た葉書。

【吉村】
     子の胸に耳近づけて 驚きぬ トントントンと音が聞こえる

(お子さんの胸に耳を近づけてみると、心臓の音が聞こえるというのですよ)生かされているのですねぇ。つくづく思いました。先生は毎日毎日、仏の足音を聞かれ、生かされている喜びをかみしめておられるのでしょうね。 昨今、人々との付き合いの中に思いますことは、自分のよごれた心がまざまざと見えてきて、あきれはてるばかりです。さだおばあさんではないですが、相手がアミダの声だと思うまでに、随分手間がかかります。今朝久し 振りに雨が降り、いもづるが根着くのを楽しみにしています。

【米沢】
この方は、二人の手間のかかる子供さんを育てながら、近所の仕立物をし、しかも家庭菜園を造っておられる。この中に仏の足音という言葉が出て来ますし、さだおばあさんというのが出て来ますが、これも後で紹介せにゃならん。
 今年(昭和50年)5月

【吉村】
拝啓、先生お元気ですか。私達もみな風邪をひきましたが、床につくこともなく、なおることが出来ました。昨今のわが家はお客が多く、福祉司の方や民生委員の方やで、青年から中年の婦人の方々に来ていただき、いろいろと教わ っております。また仕立て代が安いと、縫物をもって来られる人々も多く、よくぞこの身体が働いてくれるものだと、有難く思わずにおられません(みなさんと大ぶん違うわ)。昨日は親戚の方が天理教の方を連れて来られ、話をし ていただき、私は素直に聞くことが出来ました(これがいいねぇ。「よその教えや」とはねのけんで、天理教の教えを聞き、すなおに聞くことが出来ました。その次がまたいい)。やはり聞いた中で、真宗こそが真実であることがは っきり出来、有難く思っております(こういうことが書いてある)。

【米沢】
ここでちょっと汗をふくような顔をして、涙をふくんや。この奥さんが以前に書かれた文章、これも私のことが書いてあるので自家宣伝のようになって具合が悪いが、これも臨床講義だから止むを得ん。お許し下さい。
 これは名古屋から出ている中日新聞の宗教欄に「ひとつの道」というのがあった。そこに投書された文章で、「ひらけた心」と書いてある。

【吉村】
以前ロマン・ローランの言葉の「生きるとは苦しみを耐えしのぶこと」だと思っておりました。しかし今の私には「生きるとは、如何なる業障の中にでもしあわせをつかむことの出来る知恵なのだ」とわかりました。「こころの詩」 の米沢先生は、二年間、私のつたない問いに対して、一言一言、一筆一筆あたたまるお便りを何十通といただいたのです。障害児をもち、どん底の心におちいり、わらをもすがりたい思いで、多くの人々、多くの宗教を求め続けて きたのです。先生が最初に書いて下さった言葉は「自分であってよかったという人間になりなさい」ということでした。また「苦労を逃さないように」という言葉でした。
私には、今この言葉がようやく解ってきたのです。 「自分というかけがえのない絶対的ないのち、顔かたちが違うように、人それぞれ生きる道が違うのです。あたえられた道をすなおに引き受けて生きることが人間として価値があり、立派に生きるあかしになるのです」。

【吉村】
こうした先生の言葉を一つ一つ理解出来るようになり、日々心の葛藤の中で、生活と直結して先生の言葉をあてはめて、先生の言葉を信じていいのかと、疑い疑い生活してきた4年間(この疑うということが非常に大事な ことで、日本人は、私もそうだけれども代表的な日本人で、おっちょこちょいで、何でも人の言うことを信じてしまう。疑うことが大事で、親鸞聖人も疑って疑いぬいて、これだけは疑えないと、そういうところになった 時に、初めて聞こえたと言うのである、こうおっしゃっておられます)。

【吉村】
疑い疑い生活してきた4年間、信じてよかったと思えたとき、涙がとめどもなく溢れ出てくるのです。感謝の涙、歓びの涙、この涙こそ真実の心に通ずる涙ではなかろうかと思うのです。私のようなはげしい性格の人間は、 一歩間違ったら手に負えない人間になっていたかもしれない。

【米沢】
自分でこう書いておりますけれども、非常に激しい性格の人であったらしい。そんなふうで、御主人が一時ノイローゼになったこともあったらしい。この方は高等学校時代に、家が農家で裕福であったんでしょうけれども、 自分が美人でないというコンプレックスから、これは手紙にそう書いてあったんですけれども、決して不美人ではありません。まあ特別美人ではないけれども、決して不美人ではありません。まあ普通の顔や。自分が不美 人であるというコンプレックスから、したいほうだいのことをしとった。

【米沢】
非常な読書家であるということは、ロマン・ローランの本を読んでいたということからもわかりますね。スキーに行ったり、旅行に行ったり、自分のしたいほうだいのことをしておった。つまり自我一杯に生きておった。 ところが結婚して子供が生まれた。そして自我の壁につきあたった。これだけは自分でどうにもならん。
 それで私は「子供さんが仏さんだから、仏さんだと思って大事にしてあげて下さい」とこう言った。みなさんのおうちにもお内仏があるだろうと思う。お内仏に対して、お仏飯をあげたり、お水をあげたり、お花を替え たり、お掃除したりするのをお給仕と称しております。そのお内仏のお給仕は、こっちの都合で時々休むことが出来る。旅行でもしたりすると、3日前のお仏飯で仏さん我慢していらっしゃる。それでも3日前のですみま せんとあやまったりせずに、「今日は新しいのでいいでしょう」なんて言ってあげてんでないの。

【米沢】
ところが生きている仏さんのお給仕は待ったなしなんや。夜中に子供さんが泣く。お腹がすいて泣くと、こちらが眠くても起きておっぱいやらんならん。お尻が汚れて泣くというと、こちらが眠くても起きておむつを替え てやらんならん。生きている仏さんのお給仕は待ったなしということやねぇ。

その待ったなしのお給仕をやってきて、この方が何故その子供さんが仏さんであったかというと、自分の自我の強さ、そういうことをしみじみと、生きている仏さんによって知らされたということなんですね。それで私は 、やっぱりこの子供は仏さんでしたと言っておる。その子供さんがなかったら・・・。

【吉村】
自分のようなはげしい性格の人間は、一歩間違ったら手にも負えない人間になっていたかもしれない(なっていたかもしれないのが、 子供さんによって救われたんや)。でも障害児をもったことで、本当のしあわせとは、人間の本当の価値とは、を知ることが出来たことは、何にもます宝を得た重いです。過去・現在・未来の業障をはらい去り、明るい道 が開けていく不思議な力に、日々感謝の思いで一杯です。人間は自我がのさばって、容易に絶対的な力を信ずることが出来ないものです。先生も頭が禿げるようになって、ようやく信ずることが出来るようになったと言わ れました。私も、自分に与えられた道をすなおに引き受けて、明るく生きて行きます。

【米沢】
これが昭和48年の2月に書いた文章で、この時31歳です。今年は34〜5になっておるのかな。そういう若いお母さんがね、そういう障害児を二人もあたえられ、そういう苦闘の中で、自分自身に遇うのであろうと、 こう思うんです。

次回の法話『逃げ隠れず業を引き受ける』に続きます。




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