現代の病理とその処方
念仏は人間放棄宣言

米沢英雄先生

ここで始めて、絶対他力、阿弥陀仏に触れるわけであります。阿弥陀仏に触れるとは、言い換えると、本当の私に遇うのだということであります。私たちは自分の事は自分が一番知っていると思っておりますが 、本当の私に一度もお目にかからずに一生を過ごしてしまう危険さえあるのです。また私自身に遇うということが、そんなに重大なことと思えぬほど、私は私自身を粗末にしているのであります。本当の私より は、私の外を飾る着物や洋服の方がまだ大事である。。本当の私にお目にかかるよりも、今年の流行に遅れぬことの方が大事に考えられる。

こういう私を「愚か」というのであります。愚か者は、精神病院や、収容所にいるのではありません。レッテルの貼られていない愚か者、もっと始末に困ることには、「自分も相当なものだ」とうぬぼれている 愚か者が充満していることであります。国際の檜舞台とやらで活躍している各国首脳部には、このような愚か者が多いので困るのであります。また一般民衆も、こうしたものを愚か者と気付かずに、奉っている から困ったものであります。これを愚か者と見分けるには、人間を超えた智慧、仏の智慧が、懺悔することによって、人間を放棄することによって、人間を超えた彼方、阿弥陀仏から、私たちの方へ、念仏を通 じて移動してくるのであります。

人間を放棄すれば、人間の廃(すた)りものになるようでありますが、人間の廃りものが意外にも、仏の境界に近付いているのであります。仏の智慧は、この人間の廃りものの上に、念仏を通じて輝くのであり ます。救いというのも実に人間を超えた仏の智慧が、私に移って、私において働くということであります。
この智慧によって、私自身の内面を照らすと同時に、私の生きている世界を照らすのであります。そして、私の生きていく真実の道を見付けていくのであります。百人が各々百通りの道を自由に歩んで行って、 しかも、相互に冒さない、邪魔しない、そういう道がひられてくるのであります。

南無阿弥陀仏は、私においては、「人間放棄」の宣言であります。私並びに、私を超えた存在に対しての宣言であります。同時に、南無阿弥陀仏は、真実世界、浄土に私の立つ場所をあたえられた喜びの声でも あるのです。南無阿弥陀仏において、私の人間が死に、私の本当の自己が生きるのであります。南無阿弥陀仏においては、私のいる娑婆と、私のあるべき浄土とが、互いに交通するのであります。南無阿弥陀仏 において、私は娑婆に生きると共に、浄土に生きているのであります。
ここに私の人生は深さをもってくるのであります。私の人生は深さを単にあたえられただけのものでなく、創造的な喜びにみちてくるのであります。

娑婆においては、私は確かに大きな機械の一部品にすぎないかもしれない。しかし浄土の荘厳となってくるのであります。しかも、浄土の荘厳となる私は、私の中の善行善意のみでなくて、悪行悪意、いわゆる 煩悩の一々が浄土の荘厳と転ずるに到って、今や私の全存在が救われることになるのであります。

話は大変飛躍するようでありますが、確かに懺悔という場所に立つことによって、話は俄然飛躍でなくて転回してくるのであります。懺悔を通さなくては、浄土の消息を知ることは出来ませぬ。浄土は、仏の世 界でありますから、人間の分際でうかがうことは出来ません。
人間の身で浄土をうかがうのには、どうしても、人間で可能な、仏の行、懺悔、即ち念仏を以てしなければなりませぬ。念仏は、人間に与えられた仏の行であります。人間から出た行であれば、浄土の前へ行く とみんなしおれて役に立ちませぬ。仏からきた行、仏の行であってこそ、人間を浄土へ引き入れることが出来るのであります。念仏は実に、人間に与えられた、人間を浄土に導くための仏の行であるがために、 大行と呼ばれ、これが個人を救うと共に、今日の課題に応えるものであると存ずるのであります。

「頭を垂れて仏を礼する時は此国にあり、頭を挙げれば弥陀界にあり」という言葉があります。頭を垂れて念仏することが、人間のなすべきつとめであります。念仏すれば、頭を挙げる時、浄土にある自分を自 覚出来るのであります。念仏しても、頭を挙げてみてなお人間世界におるのであれば、それは真に頭が下がっていない、真に人間放棄がなされていない、自力我慢の心が絶えていないということであります。
弥陀界にありというても別の世界に行くわけではない。今までの世界が、実に生き生きとした世界、尊い世界、一木一草もすてがたい世界、このままの一切が、そのまま肯定できる世界、このまま一切が頂け るところに、私は天地の中心にいるのであり、すべてが私一人のために存在して下さるのであり、私が天地一杯となるのであります。一切を頂く時だけ、私は生きているのであります。

平素の私は一切の中から、自分の都合のいいものを選び取り、都合のわるいものは選びすてております。ここには孤独な私が存在しているにすぎない。それは私が世界に君臨して、私が神仏にとなって(実は神仏 でなくて悪鬼羅刹でありましょうが)、世界に対して取捨選択を加えているのであります。こんな立場がいつまでも続くはずがありません。こういう人の娑婆には、いつも行き詰まりがあるのであります。私が頭 を垂れて、全世界を頂く時に、私はいつでも全世界と共にあり、私は一人でも、いつも賑やかであり、私の行く手には常に行き詰まりがなく、任意に自在に無碍の一道を歩むことが出来るのです。

念仏の道は個人の道、一人一人の道であります。同時に万人の道であります。みんな各自の道を歩んでいるようでありますが、結局私たちの歩むべき道は、この道しかないのです。というのは、およそ生きとし生 ける人間の、その本質は、おしなべてまことに失礼ながら、煩悩具足以外の何物でもない。その外面を美しく飾り立てているにすぎない。
それではお前は人間の築き上げた文化を軽蔑するのか、とおしかりを受けるかもしれませぬ。私は文化を築いた人間の努力を軽蔑するものでは決してありませぬ。しかしこの努力が、人類を絶滅する兵器をも産み 出しつつある現実に対しては、何と申したらいいのでありましょう。

私は変化の恩恵にも欲しておりますが、実はそれにもまして如来の恩徳、本願の念仏にまず第一に感謝申し上げたいと思うのであります。人間の文化は或いは欠けても、人間は生き得るかもしれませぬ。地震の後 、台風の後が、それを物語っています。しかし、如来の恩徳なしには一時も生き延びることは出来ませぬ。地震の後、台風の後、戦争の後、如来の恩徳で生きてきたのであります。これが私たちを動かして文化も 生み出させる根元なのであります。根元を知らねばなりませぬ。

無相庵の感想:
念仏は人間放棄の宣言であり、無条件降伏の懺悔の溜め息であり、そして浄土(真実世界)に私が立つ場所を与えられた喜びの声であると米沢先生は仰っていますが、世の中で普通称えられている念仏は、死者を 弔う時の呪文でしかなく、それが頭に埋め込まれているからでしょう、念仏とか南無阿弥陀仏が大切なものであると言われましても、抵抗感があるのではないでしょうか?だから、若い人が念仏よりも坐禅を選び 、哲学的な唯識に関心を持つのは当たり前ではないかと考えています。容易に念仏に染み着いた垢は拭い去ることは出来ないと思いますので、別の短い言葉、例えば、「おかげさま」のような意味の分かる日本語 を用意出来ないかと考えるのですが、なかなか見当たらないままです。




[戻る]