現代の病理とその処方
無条件降伏

米沢英雄先生

阿弥陀仏においても、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と申して、念仏したものを救うというておりますが、この念仏は、心掛けを入れ替えたものを救う、阿弥陀仏の方を向いたものを救う、 阿弥陀仏に協力したものを救うというのではなくて、念仏によって、すでに救われていた身であって、今更如何なる形の救いをも必要とせぬことが身に染みてわかるのを、念仏の救いと申すのであります。

人間はしょせん、仏の方を向いても向かなくても、仏に反逆している存在であることだけは間違いありません(これがわかるのには、法に一層親しむことによって、次第に己の内面の姿が明らかになってく ることによって、わかってくることであります)。もし反逆しているものを仏が捨てるのであれば、実は開闢(かいびゃく)以来、1人として救われた人間のあるはずがありません。反逆しているものが、 反逆のままで救われるのであればこそ、一切人が救われる可能性があるわけであります。

それでは、せっかく仏の方を向いて、仏に協力しているものが損ではないかというご意見が出るでありましょうが、仏の方を向いているとか協力しているというのも、人間―私の考えであって、実はその底 には、自分も気付かぬところに、ひそかに野心が秘められているので、その野心から人間は到底逃れることが出来ません。

人間はしょせん純粋に仏に向くということは出来ません。またその故にこそ一切人は仏によって救われるのであります。ただ人間に可能なことは、また、しなければならないことは、仏の方を向いているつ もりが、単なるつもりにすぎなくて、如何に仏に背いているかを、自分の心の内面において深く確かめることであります。ここに私の全存在を挙げて、仏の前に投げ出す、懺悔の心が湧いてくるのでありま す。仏に救われるのではなくて、実は私において湧き起る懺悔に救われるのであります。

懺悔というのは、私が懺悔するようでありますが、実はそうではない。懺悔というのは、私の一つ或いは二つの行為について、申し訳ないというような単純なものでない。私の全存在を挙げて申し訳ないと いうのであります。これから心掛けを入れ替えようと決心しても、悔い改めてもついに改めきれぬものにぶつかった驚き、哀しみが懺悔であります。
人間が決心して改められることくらいは大したことではない。酒をやめるとか煙草をやめるとかは、愛好者にとっては実につらいことであるらしい。しかし決心によってやめることが出来る。『アナタは煙 草がやめられる』という本を読んだだけでやめられる。ところが、極簡単な腹が立つとか、物が欲しいというようなことはどれだけ決心しても、いわゆる賽の磧(さいのかわら)であります。

また自我、自分に対する執着は、これがなくなったら元も子もないので、断ち切ることが出来ません。断ち切ることが出来ないものを断ち切らねば、彼の国、浄土へ生れることが出来ぬ、救われることが出 来ぬ、ついに安らぎがないということであれば、この超えることの出来ない一線に立って、私が悶絶せねばなりませぬ。これが懺悔であります。ですから懺悔は、考えられるほど容易なものではないのです。
しかしまた、別な懺悔もある。私は到底懺悔出来ない奴だ、という逆の懺悔も成り立つわけであります。よく宗教には、飛躍があるとか、断絶があるとか申されますが、確かに断絶がある。人間の側から浄 土へ往く道は断たれています。つまり人間の心を以てしては、浄土へ往くことが出来ない。人間は利己心、エゴイズムを拭い去ることが出来ませんので、エゴイズムは彼の国への唯一の障壁になりますので 、人間から足を運んで浄土へ往くわけにはいきません。向こうの方から迎えをうけなければなりません。向こうからの迎えは常に届いているのでありますが、それが私たちにはわかりません。向こうの迎え と気付くには、私にこれを迎える用意が出来ていなければなりません。この用意にあたるものが懺悔であります。

宗教の門に入るのに最も困難なのは、この懺悔であります。私たちの自我が容易に挫折しないのであります。挫折せしめようとすれば、裏手から廻って、しがみつくほどに、この自我の挫折は容易ではあり ません。私たちの首の骨が固くて、容易に頭が下がらんのであります。頭を下げることは出来ます。何か相手に要求することがあれば、七重の膝を八重に折ることさえ出来ます。しかし、頭が下がるという ことは、人間においては絶えてないことであります。

頭が下がるとは、人間の尊厳、誇りを放棄したことに外なりませぬ。無条件降伏であります。戦争の場合の無条件降伏というのも、命が助かりたいという欲からかも知れません。懺悔という無条件降伏は、 「ともかくもあなたまかせ」という絶対他力に任せた姿でありますから、人間の誇りの放棄であります。

無相庵の感想:
今回の文章中に『仏に救われるのではなくて、実は私において湧き起る懺悔に救われるのであります。』と云う内容があります。これは本当に無条件降伏と云う懺悔をした方で無ければ実感出来ないと思 いますが、何となく分かるような気がします。ただ、この懺悔は、自分で自分の人間性の否定とも云うべきことだと思いますので、本当のところ、自死を選んでもおかしくないのではないかと思います。 でも、自死を選ぶようでは親鸞仏法の他力本願の教えとは真逆だろうと思います。私はその懺悔の経験がありませんので今は想像でしかありませんが、懺悔の瞬間に、心の裡で他力の本願に出遇い、 懺悔と悦びが同時併行的に実感されるのではないかと思われます。 こんな懺悔を説く宗教は他に無いでしょう。親鸞聖人の凄さでありますし、この凄さを教えられる米沢先生の凄さでもあり、この深い教えを有難いと思うばかりです。




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