現代の病理とその処方
人間の極地を暴露米沢英雄先生
本願の念仏が現代の課題に応え得ると信ずる第三の理由は、先にも触れましたフロム教授は、人類が血と土との結び付きを超えて、つまり民族的自我を超えて結ばれねば人類は破滅すると申しましたが、この個人を超えると共に、 民族的自我をも超えようという願いが見出してきたものが、浄土でありましょう。浄土こそ、個人と共に全人類が目指すべき方向であります。
これは天国ではない。また理想でもない。浄土は人間の世界を成り立たせている根底である。これは人間の要請によって考え出されたものでない。また人間の切なる願いによって描き出された理想世界、ユートピアでもない。浄 土こそ現に存在するものであり、これがあるからこそ、私たちが現実と考えている世界がある。私たちの生活の根底、私たちの還るべき世界、私たちの生活に方向を示す世界であります。この浄土を見出したということが、本願の念仏にとって最も重要な意味をもっているのであります。ですから、浄土というのは、単に浄土宗の信者にのみ存在するものではない。浄土真宗の信者を教化するために、仮に設けられ たというものではない。勿論、死後にしか存在しないようなフワフワしたものではない。
次に挙げたい第四の理由は、これも、先に述べたフロム教授は、現代を危機から救うために色々傾聴すべき提案をされ、それはごもっともなのでありますが、悲しいかな、これを実現する方法がない。この実現とその方法の発見は、 将来の問題とされている。それでは急場の間に合わぬではないか。フロム教授が、このように提案だけで終わっているのは無理もありません。この実現の方法は、五劫という長い間かからねば見出させるものでないからです。人 間の知恵では出来ないのであります。
フロム教授の提案に終わった問題に、すでに十劫の昔に、実に単純な形で応えられておるという事実を、まずフロム教授に驚いていただかねばならない。フロム教授の提案は幾つもあって、一つ一つがまた面倒である。しかるに 南無阿弥陀仏は、フロム教授の全部を一つにまとめ、しかも、フロム教授以後、これから出て来るであろう色々の提案をふくめて、一言で応えているものであります。
あんまり話がうますぎて、嘘でなかろうかと疑われるほどであります。謡曲『羽衣』の天人の言い草ではないが、「疑いは人間にあり」――実に人間は疑うことしか知らぬ、こざかしい存在であります。疑うということから、科 学も哲学も生まれてきたので、疑いこそ人間文化の生命と尊重されてはおりますが、人間が生み出した科学哲学で人間は安住し得たか、どうか。安住し得ているなら、今更、フロム教授が提出した問題など出てくるはずがないで はないか。疑いから出発した人間の知恵の、その根底を疑うことを知らぬ故に、ついに安住の地に到り得ないのではないでしょうか。
安住は信から生まれる。しかもこの信は、やみくもに信ずることからではなくて、正信から生まれる。正信とは何をいうかが、また大きな問題でありますが。第五の理由は最も新しい現代の課題には、最も新しい現代の解決が必要であって、十劫の昔に見出されたものなど、古くてボロボロで、とても現代の大きな穴をふさぐには役立つまいという懸念に対してでありますが、今日新し いものは明日は古くなるものであることを知っていなければなりませぬ。
もし現代の課題が現代の解決で、ことが済んだとすれば、明日の課題に対してはまた明日の解決を探すということになります。それでいいではないか、と大方の人は申されるでありましょう。それが当然だ、それより他に仕方が あるまいと言われるでしょう。しかしこれは本当の解決ではないのであります。新しい問題が次々と起こってくるようでありますが、実は新しいのは問題の表面だけであって、掘り下げてみますと、本質は一つ、何処かでつながっているのです。
ですから、解決法も表面に対するいわゆる対症療法的なものでなくて、現代を構成している人間文化、何時の時代をも構成している人間のその極(ごく)内面、本人自身さえ気付いていない内面、科学や哲学の光りさえ届かぬ内面、ドス トエフスキーが地下室と呼んだところ、この頃の文学者が取り扱っている「実存」をえぐり出して、ここを根底として答えるものが、真の解決になるのであります。浄土真宗というのは、一方の極に、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫というものを置き、他の極に、そういう最低下をも包んで一切を救うという、摂取不捨の光を置いております。この両極性が、従来、二種深信と呼ばれてきたもので あります。信仰というものは、人間と神、或いは仏の両極があって、その間の交渉で成り立っております。その点では真宗の正信も同じ形式でありますが、もし違うところがあるとすれば、人間性の極地を暴露しているというこ と。他方、一切を包まねばやまぬという光をたてていることによって、これ以上はないという極地まで行きついているということであろうと思うのであります。これより手前では、人間の見方が甘く浅い一方、これに対応して包 む光が制限をうけている。阿弥陀仏の光のように無制限ではないのであります。
神の愛は無限である、といずれも申しますけれども、反逆しているものは救われない。反逆しているものが、此方を、神の方を向いた時、救いが降下してくることになっております。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ
無相庵の感想:
医師だった米沢先生は「浄土こそ現に存在するもの」と仰っているのですが、現に存在するとはどういう事でしょうか?医師は科学者でありますから、米沢先生は、私たちの眼で確認出来ると云う意味で浄土が存在すると仰っているの ではない事は明らかです。何故ならば、その言葉の後に言われている「私たちの生活に方向を示す世界」と云う事から、自己を問うて行くと私たちのいのち≠フ出処とも云うべき浄土と呼べるような世界を考えざるを得ないと云うことでは ないかと思うからです。仏教の浄土は、キリスト教の天国とは全く異なる、いのち≠フ世界なのです。