現代の病理とその処方
現代の病状

米沢英雄先生

現代のもつ病気を指摘して、その依ってきたところを明らかにして、つまり現代の病理を解明して、併せてその治療について論じようというわけであります。誠に身のほどを知らぬ僭越な企画でございますが、 勿論私一個の頭脳を絞りましても、この企画は成功いたしませんので、勢い現代の碩学の労作を盗用しようというわけであります。

第一に現代の病いということでありますが、病いというのは個人の身体或いは精神の失調、つまり正常状態を逸脱しているのをいうので、肉体を持たぬ時代というものに病いがあるかという疑いも起こりまし ょうが、たとえばよくみなさまが現代の混乱とか、時代苦というような言葉を用いられることでもわかりますように、時代もまた病むのであります。

混乱とか苦悩とかは正常な時代状態からそれているのでありましょう。いずれの時代にも苦悩はあったでありましょうが、現代はことに交通機関の発達により、世界各国の往来が激しくなったために、世界の 病いが直ちに日本の病いでもあるわけであります。殊に最近のように、米ソ両国間の主義の相違による摩擦が激化し、核兵器戦争の恐怖によって、両国のみならず世界全体が神経衰弱の状態にある時、そこに 生活している人間がいずれも、この影響から無関係でいることは到底不可能であります。病いは次第に深くなってくるとしたら、それは放置しておいてはなりますまい。

個人の病気におきましても、高熱が出る、お腹が烈しく痛むということであれば、つまり急性の病気で症状が強く出れば、誰でも病気を自覚することが出来ます。自分で病気だと思う。さすれば、自分で適当 な医師を探して手当をうけて早く癒(いえ)るでありましょう。ところが、こうした烈しい症状を伴う病気はかえって軽いので、命とりになるような病気はかえって、病気らしい気がしない。何だか変だ、普 通ではないなと思うけれども、病覚というものはない。その内にじりじりと病いはすすんできて、どうもおれは病気らしいと本人が気付いた時には、もう手遅れのところまできている。本当に恐るべき病気と はこんなものであります。丁度癌の如きものであります。

世界、或いは時代の病いは、戦争のような急性症状を呈すれば誰でもわかるけれども、それの前駆症状の時代には、診断がなかなか困難であります。またこれは、アメリカの精神分析学者のエーリッヒ・フロ ムが警告しているのでありますが、もし核兵器による戦争が勃発すれば、勿論人類は瞬間的に絶滅するが、たとえ戦争が避け得たとしても、現在のような経済機構(資本主義にしても社会主義にしても)が人 間を支配し続けるかぎり、人類は滅びざるを得ないという、誠に悲観的な観測をいたしております。

それはフロムという一個人の妄想杞憂に過ぎぬのではないかおっしゃる向きもあるかも知れませんが、これは現代文明というものの性格を厳密に批判してたてられた推論でありまして、一笑に付するわけには まいりません。笑って見過ごしたら、ひどい目にあうのは私たち自身であるということであります。

ご存知のように現代の世界を動かしているのは資本主義経済機構というものであります。経済というのは、人間の社会的活動の一つでありまして、人間が共同生活をして社会を形成する以上、避けることの出 来ない活動であります。ところが、この経済活動が近代に入って、科学の進歩発達に伴い、これと手を結ぶに及んで、科学技術が独走した結果、機械のために、経済活動の為に人間が動かされる結果に立ち至 った。

人間が人間らしい生活を享受するための経済活動であれば、人間が主で、経済活動は従であるのが、科学技術が道徳を無視して進展した結果、経済機構が主となって人間がそれに酷使されるようになった。機 械のために使われているのは労働者だけではないのです。使用者側もまた、はじめは利潤の追求のために使われたのが、近頃は利潤よりも、とにかく新しい企画、それの追及のために、酷使されているのであ ります。

それでは消費者はどうか。消費者もまた、マスコミの宣伝によって、消費を知らず知らずの間に強いられているのです。こうしてみんなが、姿の見えないものにあやつられている。つまり人間が人間以外のも のに仕えて、人間が非人間化しつつある。これこそ現代の病いの正体であります。

マックス・ピカートというドイツの哲学者も、現代は人間がアトム化しつつあると申しております。個人の価値とか尊厳というものが、名のみで実際は抹殺されつつある。民主主義というものも人間が量で測 られるのである。共産主義もまた、人間が機械の一部品、つまりはアトムとして行動することを要請する。しかも、現代はこれを色どる色彩、それは洪水のような消費文化、或いは心を刺激するスローガンの 形をとって現れて、人間の目を奪ってしまうために、人間が非人間化しつつあるという、人間の最大の悲劇に気付かずに、しだいに病いを深みに追い込みつつあるのです。

この病いが恐ろしいのは、この病いにかかりながら私たちは少しも痛みを感じないというところにあるのです。消費文化やスローガンの麻酔にかかっている間に、生活が次第に蝕まれつつあるわけであります。 むしろ人間が好んで蝕まれつつあるのだとも言えるでしょう。だからこそ、この病いから快復させるのが困難なのであります。誰も自分が病んでいると気付かぬのですから、医者がいくら警告しても騒ぎまして も、うるさいなぁ、誰のことをそんなに心配してさわいでいるのだ、俺なら大丈夫だよというようなわけであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

無相庵の感想:

私たち人間は、薄型テレビやパソコン、携帯電話、スマートフォンで情報を得たり情報を交換したりの便利な生活を送ったり、自動車や飛行機に乗って旅行をしたりすることで、人間として他の動物とは次元 の高い生活を送っているように思っていますが、本能のまま、煩悩のまま、衣食住に関する財産欲を無制限に膨らませているだけで、犬猫と本質には変わらないのではないか・・・。むしろ、財産欲を満たす ために名誉欲も膨らませているのではないか。
米沢先生は、あらゆる生命の尊さを肯定されつつも、人間としての命の希少価値を忘れて、非人間化して来た人類に、メッセージを送ろうとされているのだと思います。




[戻る]