心の詩ー親鸞聖人の700回遠忌によせて

米沢英雄先生

●詩−その人―米沢秀雄

     その人がなくなってから 七百年にもなるという
     だがその面影は昨日の様に鮮やかだ
     その人の苦悩 その克服
     又苦悩を克服し得た歓びは 短い言葉に結晶した
     その言葉はその人よりももっと昔
     悠久な時の中を生きつゞけて来たのだという

     その人は演説しなかった
     その人は怒号しなかった
     その人は激昂しなかった
     いつもしずかに自分自身に言いきかせていた

     その人は大げさなジェスチュアをしなかった
     人類のためにつかわされたとはいわなかった
     人類の身代わりになるともいわなかった
     自分一人の始末がつきかねると いつもひとり歎いていた

     その人は子供を喜ばすプレゼントをもって来なかった
     みんなに倖せを約束しなかった
     只古臭い言葉に新しい命を裏打ちして 遺して行っただけだった
     その人の悲しみを救うたものこそ
     その人の遺して行った言葉こそ
     人類のすべてがやがて仰がねばならぬものではなかったか

     その人の生涯ははじめから不幸だった
     幼くして両親に死に別れ 唯一人の師と頼んだ人にも生別し
     家をなしたのも束の間 一家は離散し 諸国を放浪し
     この世の片隅に一人しずかに生きて
     魚の餌食になりたいというて死んで行った

     その人の小さな内省的な眼
     あれが自己の中に巣喰うて遂に離れぬエゴイズムを
     しばらくも見逃さず見つめつゞけた眼だ
     之が生涯この人を泣かしめた 又その故に本願を仰がしめた

     世間的には不幸な生涯ではあったが
     その生涯の支えとなった本願と
     本願の生きた証明者であるその師に
     遇い得たことを最勝の歓びとして
     やすらかに往生したという

     その人の御名の語られるところ
     そこには今もしずかな喜びがあふれ
     涅槃に似た平安(やすらぎ)がある
     その人はその後幾多の魂の中に転生した
     之からもどれだけの魂に宿り その悩めるものを勇気づけ
     真実の喜びを与えて行くことであろう
     噫 あなたこそ無量寿であり無量光ではないか

     あなたによって真実に眼を開かれた私は
     本願の松明(たいまつ)をリレーする走者となって
     命の限り走りつゞけて 自らを照らすと共に
     次のジェネレーションに 確かに手渡さねばならぬと
     今改めて思う

            (『同朋』1956年2月号)

● 無相庵の感想

今年は親鸞聖人の750回遠忌でございますが、上記のお言葉は米沢先生が50年前の700回遠忌に寄せられたものでございますが、それが京都 の紫雲寺住職・釈昇空師の法話集 第50話『末法の世にー親鸞さまにあう』で 紹介されています。

私は、十代の頃から仏法に親しんで参りました。当初から「愚者になって、兎に角念仏を称えよ」と云う浄土真宗の教えに違和感を抱き続けて、 哲学的・知的な禅宗或いは唯識に魅かれて50年経ち、そして米沢先生に出遇うことに依って、親鸞聖人の教えの本質に出遇うことが出来たと 思っております。しかし、振り返りますと、それは幼い時から何回となく法話をお聞かせ頂いた井上善右衛門先生そして西川玄苔老師との縁が 有ってはじめて辿り着き得たことだと考えています。

米沢先生の末尾のお言葉『あなたによって真実に眼を開かれた私は、本願の松明(たいまつ)をリレーする走者となって 命の限り走りつゞけ て 自らを照らすと共に次のジェネレーションに 確かに手渡さねばならぬと今改めて思う 』から、私もリレー走者の一人として、米沢先生 からバトンを受け取り、次の走者が走り易いようにバトンを手渡したいと考えているところであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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