心の詩ー自在神力

米沢英雄先生

●詩−必然に従う―宮崎竜安

     生命の必然に随って動く
     その良さを知った
     花がひらくように
     雲が動くように
     水が流れるように
     私は私の生命の
     必然に従おう

● 米沢秀雄師の感想
ある僧が師家(しけ;禅門の師匠)に仏道をたずねた。師家は言った。お前、ご飯はすんだか。すみましたと答えると、
では茶碗を洗っておけよ、と。これが禅問答かと不審に思うだろう。いやその先に、仏道というものは、何か特別なもの
だとの先入観があるのではないか。特殊なものといえば、特殊なものかも知れない。日常茶飯事ではないから。だからと
いって、宙に浮いた話ではない。

師家に質問した僧は、仏道とは特別なものと思い込んで、逆上(のぼ)せて足もとが、お留守になっていたのだろう。そ
れを見抜いた師家が、ご飯がすんだら茶碗を洗っておけと、さとしたのではないか。特別なことじゃない、当たり前のこ
となんだと。その当たり前のことが、私たちに、かえって見えないんだと。足もとを確かめることだと。この師家は、や
はり親切な人だ。

詩人が挙げた花とか雲とか水とかのあり方は、当たり前なのだ。当たり前が、必然なんだ。私たちは、なかなか自分の当
たり前には、生きられないのだ。世間体とか、何とか自分以外のものに引きずり廻されて、心も空に動いているんじゃな
いか。

清沢満之は、絶対無限の妙用に乗托すと言われた。花も雲も水も、絶対無限のはたらきのままに、生きているのではない
か。人間だけが、こざかしい人間の知恵をふりかざして得意になってのさばり廻り、あげくの果てに、行き詰って悲鳴を
あげるのでないか。

清沢満之はさらに、絶対無限に任せ切れば、生死も苦にならないし、追放も牢獄も結構だと言われる。苦になるのは絶対
無限に任せきっていないからだ。頼りにならぬ自分を頼んでいるからだ。

満之は続けて、絶対無限が我らにあたえてくれたものを楽しもうと言われた。この楽しむのは、レクレーションの話じゃ
ない。

逆境もまた、いさぎよく引き受けて、生き抜けることなのだ。あなたの必然と私の必然と、必然は一人ひとり違うのだ。
これを宿業という。自分の宿業のままに生き抜くところに、真の自由はある。仏法とは、私たちに真の自由を教え給うも
のだとも言えよう。

● 無相庵の感想
宮崎童安師は、『私は私の生命の必然に従おう』と、そして米沢秀雄先生は『自分の宿業のままに生き抜くところに、真
の自由はある。仏法とは、私たちに真の自由を教え給うものだとも言えよう。』と仰っておられますが、これ、私たちと
しては頭では「それはそうに違いない」と理解し納得出来るのではないかと思います(仏法を聞いていようと聞いていな
くても・・・)。

でも、「そう出来たか、宿命とか天命に任せ切っているか、そうして真に自由な身になれたか?」と問われますと、私は
現時点で「いえいえ、絶対無限に任せ切ることは出来ておりません。」としか答えられません。そして、「もう少し仏法
のお話を聞き続ければ何時か任せ切る時が来るとも思えないのです」と云うのが正直なところでございます。

しかし、このお二人の心の中はご本人しか分からないのではありますが、私は親鸞聖人と同じ信心の世界に至られたのだ
と思います。

では、このお二人共に、また親鸞聖人ご自身も、そしてまた清沢満之師も日常生活におかれて常に『絶対無限の妙用に乗
托す』と云うことでは無かったと私は推察しています。私たちが娑婆世界に身を置いている間は、色々な状況に置かれる
肉体を持っておりますし、様々な人々との関係で生きて行かねばなりませんから、貪瞋痴の煩悩の三毒が芽生える瞬間が
ある事を否定出来る人は居ないと思います。

大無量寿経に示される四十八願の第十八願には浄土に生れたいあらゆる衆生を救うけれどもその但し書きで、殺生したり
、仏法を誹謗する者は除くとされていますが、この但し書きは、自分の現実の内面をつぶさに見たかと云う念押しなんだ
と思います。この但し書きを読んで、私はこの但し書きには当てはまらない人間だから救われるのだと思った者は逆に救
われないのであります。

この第十八願の原理と同じく、阿弥陀仏に任せ切れると思った人ではなく、任せ切れない自分、罪悪深重・煩悩熾盛の自
分に悲嘆する者こそが親鸞聖人と同じ信心の世界に生れたと言えるのではないかと推察しているところであります。
それが浄土真宗の救いではないかと・・・私の場合は飽くまでも頭の中だけですが、現時点ではそう理解しています。

ただ、私は未だ任せ切れる瞬間が来るかも知れないと、自力を頼りにしているのではないかと思っています。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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