心の詩ー出世本懐
米沢英雄先生
●詩−花―宮崎丈二
目をあくともう春でした
目をこすって眩しい太陽を見上げました
ああ やっと春になった
ああ やっと私は咲いた
そう思うともう私は自然に
散っても惜しくない気がしているのでした
● 米沢秀雄師の感想
花に意思があったり感情があったりしてたまるかと、若い方々は一蹴されるかも知れない。だから詩人なんて人種は
、甘くて現実を知らんのだと、居丈高におっしゃるかもしれない。果たして、この詩人は甘いのであろうか。現実、
現実とおっしゃるのは、存外奥行きのない、うすっぺらなものの表面にすぎないのではないか。詩人の眼は、みんなが現実と思っている、もっと奥の方まで眼がとどくからこそ、一つの花にも全宇宙にみなぎる感
情を読みとっているので、むしろこれが出来て初めて詩人といえるのではないか。花が咲いているんじゃない。詩人自身が花となって咲いているのだ。だからこそ、花の心が、宇宙の心がこの人にわ
かるのだ。これが真実の人間らしい感情なのではないのか。花は確かに美しい。だが、ただ美しいな、で通りすぎるのでは、花が可哀そうではないか。いや、簡単に見すごして
通り過ぎる人間そのものが哀れではないか。そりゃ花の美しさに見とれて、一日坐っていても腹はふくれぬし、一文にもならんだろう。全く算盤には合わんだろ
うが、そこにこそ真に人間らしい豊かさがあるのではないか。花より団子じゃ、犬猫と変わりないではないか。花は花開く春を待ちに待っていた。待ち時間が長かっただけに、咲きたいという願いが熾烈(しれつ)であっただけ
に、咲いた瞬間の喜びが大きく深くて、それこそ花が震えるようで、もう、いつ散っても心残りがないとまで、思わ
しめたのであろう。釈尊は80歳で入滅される時、なすべきことはすべてなし終えたと言われたという。80まで長生きすれば、文句は
あるまい、じゃない。そのために生まれて来た使命を果たすということは、大へんなことだ。花の三日のいのちも、釈尊の80の生涯も自分が満足し、ひとに生きる喜びをあたえることにおいては同じかも知れ
ない。ただ、苦悩の衆生にとっては、釈尊の教えを聞くことが先、その後、天地一杯花がひらくのだ。● 無相庵の感想
出世本懐(しゅっせほんかい)とは、この世に生まれた本来の目的≠ニ云う意味でありましょう。宮崎氏はご自分
を花に喩えられて、ご自身がこの世に生まれた意味を知ったから、もう、いつ死んでもいいと云う満足感を詩に読み
込まれたのでありましょう。出だしの目をあくと≠ニ云う表現は本来の自己、真実の自己に目覚めると≠ニ云う気持ちを表されたのでしょう。
少し前に人気グループスマップ≠フ世界で一つの花≠ニ云う唄がヒットしました。今でも好んで歌われています
が、私たちの出世の本懐は、花に喩えれば、自分が人間と云う花≠フ中でも、何処にも何時の時代にも無かった
オンリーワンの花を咲かせ得る存在であることに目覚めて、その花を目一杯咲かせ、自分も楽しみ周りの人たちにも
楽しんで貰ってからパッと散って往(ゆ)きたいものであります。帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ