心の詩ー個でなく全でなく

米沢英雄先生

●詩−一人と全体―宮崎丈二

     人はついに孤独ではいられない
     孤独ではいられないで
     反って群れから離れる
     ひとりになりきって
     万人につながる真実を
     更に自分のうちに求めるから
     ×
     一人一人が集まっても
     全体にはならない
     全体と一人が一つである一人一人が集まらないでは

● 米沢秀雄師の感想
日本はもう有機体、一個の生命体でなくなってしまった。極端に言えば一人ひとりがテンデ
ンバラバラになってしまって、一個の生命体としての緊密な連繋(れんけい)が失われてし
まった。悲しむべきことであるが、これらの回復はすでに政治や経済や道徳の問題ではなく
、ただ一つ宗教心の回復にかかっている。

そこで宗教心とは何かという問題になるのだが、現代のすさまじい様相を来たしたものは、
結局自我を自分だと思い込んで、自我の欲望満足一本槍で進んできた結果による他ならない
。一人ひとりを結び付ける強力な紐帯が失われてしまったのだ。その紐帯こそは自我の底に
圧殺されてきた真実の自己なのだ。これが宗教心の本体なのだ。

私たちが人間世界に生をうける以前は、草木虫魚ともわかれる以前の一つの大きな生命体だ
ったのだ。それが核分裂して万物となり、また一人の私たちになったのだ。私たち一人にな
った後の自分ばかりを後生大事に守っている。これが自我なんだろう。

今一度、生れる以前にお互いが、草木虫魚をも含めて一つの生命体だったことを、はっきり
と自覚せねばならない。この自覚のもととなる場所が、真実の自己であろう。自我の一人ひ
とりが集まっても全体を裏切るだけで、真の全体とはならないのではないか。自己というも
のこそ全体と一人が一つであることを知って生きるものであろう。

出家という言葉がある。これは自我のより集まりの世界、互いに利用しあうだけの世界、そ
の群れと離れて真実の自己に遇うための生き方であろう。現代の日本は、みんなが出家しな
ければならんのじゃないか。形の出家ではない、心の出発を、そして再び群れに戻ってくる
。その群れはもう自我の集まりではない。全体と一人が一つのものの集まりだ。それが真実
の僧伽(さんが)ではないか。

● 無相庵の感想
米沢先生がこの詩をこころの詩≠ノ取り上げられたのは、もうかれこれ40年前の昭和4
8年12月24日です。今この平成23年の日本の世の中の状況が既に40前には始まって
いたことが分かりますが、日本の高度経済成長期と言われているのが1955年(昭和30
年)から1973年(昭和48年)にかけて実質GNPの伸び率が年平均10%にも達した
時期だそうですから、高度経済成長と共に日本は一個の生命体でなくなり、バラバラの国に
成り下がって行ったと云うべきではないかと思われます。

自我に目覚め、自我を育てることばかりにエネルギーを費やし、自分の自我(自己愛、エゴ
)に気付くことなく、否、たとえ気付いた人々が居たとしても、まるで大津波の大きなうね
りと流れに押し流されたかのように日本の精神文化も道徳も壊滅状態になったのは、宮崎丈
二さんが詩の中で全体と一人が一つである≠ニ云う宗教心=Aすなわち米沢先生が仰る
「『本来の自己』を忘れ去ってしまったからだ」と云うことになろうかと私も思っておりま
す。

でも、嘆いているばかりでは何も変わらないと思いますし、世間に向かって『本来の自己』
を云々しましても、詮無い事だとも思います。今は、近隣の付き合いもかなり表面的でお互
い意識してなるべく干渉しないようにし合っているように思います。私は多少お節介だと思
われる位に人間関係を構築する努力が必要ではないかと思っております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




[戻る]