心の詩ー一大異変

米沢英雄先生

●詩−クラサ―竹部勝之進

     ハズカシイコトデアリマシタ
     クラサハワタシノクラサデアリマシタ

● 米沢秀雄師の感想
楽しみにして出かけようとする日にあいにくの雨。ひとの気も知らないでと空を見上げて恨
む。どうして世の中には、こうもいけすかない人間ばかりいるんだろう。それにすることな
すこと万事イスカの嘴の食い違い≠ニきては神も仏もあるものか、だ。

この世は自分が造ったものでは無いくせに、いつか私の思うようになるものと決め込んでい
たようだ。思うようにならんからとて腹を立て、いつまでも愚痴をこぼしていたものだ。
私は自然や人をそのままに見ていたんじゃなくて、自然や人にこと寄せて、私の心を見てい
たのだった。

世の中が暗い、面白くないと文句ばかりならべていたが、世の中が暗いのではなかった。私
一個の都合で世の中を見ているから、面白くないことばかりになるんだ、ということがわか
らなかったのだ。暗いのは世の中じゃなくて、私自身が暗かったのだ。私自身が盲点だった
のだ。

私自身、これでずい分、謙虚な方だと思っていたが。なぁに、心の底では、ひどく思い上が
っていたんだな。それが仏の教えに触れて、仏の智慧の光に照らされて初めて、私自身の正
体が明らかにされたのだ。如何に、思い上がりの愚か者であったかが。これは天地がひっく
り返るほどの驚きであった。明るい世界に出る道は唯一つ、自身を明らかにすることだった
。仏の智慧から観ると、私は邪見驕慢で生きて来たのだった。

私には過分にあたえられているにもかかわらず、毒づいてばかりきた。恥ずかしいことであ
った。私が裸で衆人環視の中にさらされたような気がした。仏の光りの下では逃げも隠れも
出来ないのだ。恥ずかしいと分かっても、これからましな人間になる見込みもないんだ。こ
の恥ずかしいまんまでお許し願って、生き続けさせていただくよりないんだ。

こんなこと申すと、何と消極的なとお叱りを蒙るかもしれんけれど、昨日までの私とうって
変わって、愚痴がこぼれるどころでない、有難くて勿体なくて、それこそ冥加に余って、こ
ぼれるものとてはただ涙である。うれし涙である。消極どころか、生きてゆく力がわいてき
た。

● 無相庵の感想
米沢先生はこの竹部さんの詩を『一大異変』と読み解かれました。『一大異変』とは、親鸞
聖人の教えの言葉に言い換えると『廻心(えしん)』と云う事ではないかと思います。もの
の見方・考え方がある瞬間に全く変わってしまうことです。
具体的にどう云うことかを多少分かり易く喩え話しをさせて頂きます。

今からたった500年前の16世紀の半ば頃までは太陽が地球の周りを廻っていると考えら
れていました(天動説)。しかし、実は地球が太陽の周りを廻っている(地動説)と云う事
をコペルニクスと云うポーランドの天文学者(1473年〜1543年)が主張しました(
後にガリレオ、ケプラー、そしてニュートンの物理学的に証明されました)。

ローマ教皇庁やカトリック教会が地動説を公式に認めたのは実に1995年らしいのですが
、天動説から地動説は全く正反対の天体の有り方ですので、考え方や事実が180度変わっ
てしまうことを発案者の名前を取って、コペルニクス的転回と言われるようになりました。
『一大異変』とは、そのコペルニクス的転回を意味した米沢先生流の表現ではないかと思い
ます。

私たちは自分の意志や能力で生きていると思っています。しかし、自分の力で生きている部
分は殆ど無く、多くの存在や働きのお蔭で生きられているのが事実であり真実です。でも、
なかなかそうは思えません。今の私も頭ではそう理解していますが、いつの間にか直ぐに忘
れた言動に走りますが、多くの挫折経験や、今回の東日本大震災のような目に遇うことに依
って、自分の力ではなかったなと、自己中心的考えから他力に依って生かされて生きている
ことに心の底から目覚めることを親鸞仏法では『廻心』と云い、コペルニクス的転回とも一
大異変と云うことにもなりましょう。

竹部さんはご自身の廻心(信心を賜わった)の喜びをこの『クラサ』と云う詩に籠められた
のではないでしょうか。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




[戻る]