心の詩ー忙即閑

米沢英雄先生

●詩−雨ふって―竹部勝之進

     雨がふって静かなり
     雪がふって静かなり
     霰(あられ)がふって静かなり
     いまここにいて静かなり
     いまここにいて静かなり

● 米沢秀雄師の感想
雨が降っても霰が降っても静かなのは、屋根がトタン葺きでないからだろう。雪が降って静
かなのは誰も訪ねて来ないからだろう。そんなふうに考えるのを常識人と言うのだよ。
今ここにいて静かなりが二度繰り返されていることに目をとめてもらいたい。

雨や雪は勿論天然現象だけれども、そればかりじゃないんだ。日常生活の上に出くわす出来
事にも通ずるんだ。雨のようにウェットにくるのもあるだろう。雪のように柔らかに見
えて芯まで冷えてくるものもあれば、霰のようにたて続けに頭をなぐりつけるのもある
じゃないか。

そんな中にいてあなたは、「静かなり」とおさまっていられるか。暴風駛雨(ぼうふうしう;
駛は速いと云う意味を表す感漢字)の中にあって、この人は静かなんだよ。現に胃癌と
宣告され、手術をうけてその中で静かなりなんだ。そりゃ病人だから絶対安静は当たり
前だって。あなたはものの表面しか見えん人だなぁ。絶対安静の床の中でも、心が騒ぐ
じゃないか。この人は心の騒がんことを言っているのだ。

表面の事象と内面の心とがチグハグなのかって。そうじゃない。むしろ一つになって動いて
いるんだ。それ、うろたえてはいかんと心に言い聞かせれば一層浮足立つものじゃない
か。この人は自力の限界と、真にまかせるべき世界を知っているから、いや教えられた
から、今ここにいて静かなりと喜びの言葉なんだよ。

この世界に遇(あ)わなかったら、どんなにかうろたえ騒ぐ自分であったかと思えば、おの
ずと喜びがこぼれてくるじゃないか。涅槃寂静というのはこういう境地なんだろうなぁ。
動かずにいることじゃないんだ。我執からくる頑張りを捨てているから、縁に応じて動
いていかれて、我執がないから静かでいつも有難いんだろうなぁ。

● 無相庵の感想
この詩の解説に米沢先生が『忙即閑(ぼうそくかん)』と付けられているのであるが、私は
初めて出会った三文字熟語であり分からなかった。『忙中閑(ぼうちゅうかん)』は、「忙
しい、忙しいと言っても、そのなかには少し閑な瞬間があるものだ」と云う意味である
が、『忙即閑(ぼうそくかん)』は、広辞苑にも無い。インターネットで検索すると唯一、
大岡信と云う東京芸術大学名誉教授で且つ詩人にこの題名の著書がある事までは分か
ったが意味までは掴めなかった。本を購入すれば分かるかも知れないが、多分、米沢先生
の『忙即閑』とはニュアンスが異なると思っている。

仏法の『即』は「¬=(イコール)」ではなく、「転ずる」と云う意味で使っているから、多分、
米沢先生の『忙即閑』は「忙しいからこそ、余計に閑(しずか)なり」か「身は忙しい
が心は閑である」と云う意味で題されたのであろう。

私たちの心は常に妄念妄想で忙しい。心は(頭の中は)日本中を飛び回っている。特に問題
を抱えて居なくとも、である。これでは疲れるはずだ。ましてや、病気になったりした
ら、更に心は飛び跳ねて騒がしいものであるが、竹部さんは何が起こっても、何に出遇
っても心は静かだと云う詩を書かれているのである。

しかし、何が来ようとも、即、静かに事態を受け止め受け容れると云うことでは無いと私は
思う。米沢先生は解説の末尾に、「我執がないから静かでいつも有難いんだろうなぁ」
と書かれているけれど、少し説明を端折(はしょ)られたのだと思う。『我執』が無く
なることは絶対に無いと云うのが、親鸞仏法の要点だと私は思う。こう書きますとまた
誤解をされてしまうので表現は難しい。『我執』が絶対無くならないことを宣言してい
る訳ではない。『我執』は出来れば排除したい。その排除する努力も又限界までする事
が必要であろう。

しかし、『我執』に寄り添って感じる『他力』或いは『阿弥陀仏の本願』と云うべきか、「我
執を持って踏み迷うしかない私を何とか救い取りたいと云う働き」を実感する時、その
他力に包まれていると云う喜びが「静かなり」と言わしめているのだと思う。その心の
転換の様子を、米沢先生は『忙即閑』と表されたのだと私は想像している次第である。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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