心の詩ーあるく念仏

米沢英雄先生

●詩−炎天と汗―竹部勝之進

     ある男が炎天をあるいている
     その男には妄想妄念がない
     イヤ
     妄念妄想を妄念妄想と知っているのだ
     その男が炎天をあるいている
     ただ汗をながして――

● 米沢秀雄師の感想
妄念妄想にはカッカと火の燃え上がるのと、水のようにジワッとしみとおってやくのとがあるようだ。いずれにしても、枝から枝を出して果てしなくエスカレートしてゆくようだ。
念や想は生きているかぎり、目がさめているかぎり、誰にでも起こるものだ。ただ上に妄がつくと、その念や想は目下の現実から足が浮いていることになるのだろう。

妄念妄想を追っかけても何にもならぬ。八幡の藪知らずに入ったようなものだ。だが一度これにとりつかれると、こちらの目が上がってしまって、あらぬ方をにらみながら、思いに
ひきずられて手も足もお留守になってしまうのだ。

妄念妄想のガンジガラメから抜け出す道はただ一つ、妄念妄想と知って、知ったらそれ以上彼らを育てずに、今自分のおかれている現実に立ち帰ることじゃないか。
念や想はいやでも起こるし、中には大事なものもあるが妄念妄想は不毛で、それどころかノイローゼや強迫観念にまでもちこみかねない。

この男は妄念妄想にとりつかれずに(さては以前妄念妄想でサンザン苦労したな)炎天下、汗を流しつつ今の現実を引き受けて歩いている。
さぞかし暑かろうと思うが腰もしっかり、足取りも確かで、その姿から何か爽やかなものが感じられる。
糸の切れた軽気球のように何処まで行くかわからぬ妄念妄想の穢土を捨てて、今の現実とぴったり一つに生きる姿が念仏だが、それこそ「ただ念仏」だが、この男が「ただ汗を流し
て」のその姿が、ただ念仏がかたちをとって、具体化しているのじゃないか。

無念無想とか無我といっても、それだけじゃ妄想だ。ただ汗を流して歩くところに無我が成就している。この男というのは、竹部さん、あなたのある日の自画像だね。

 (注)―
     八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)とは、八幡は千葉県市川市八幡にある森の通称で、古くから禁足地(入ってはならない場所)とされており、
     「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。

● 無相庵の感想
妄念妄想とは不確かな事を重ね重ねて勝手な結論に至りゆく思考そのものを指しているものです。例えば、近所の人とすれ違った時にこちらは挨拶したのに返事が返って来なかったら、
どうでしょうか。「感じ悪いなぁー、何か迷惑を掛けたことがあるのかな?」と思ってしまうことがあると思います。それは友人関係でも、職場でも、家族関係でもあることでしょう。
相手がただ単に考え事をしていて挨拶に気付かなかっただけかも知れないにも関わらず・・・です。
実際のところ、起きている間中、私の頭の中も妄念妄想しか無いと言ってもよいと思いますので、竹部さんも米沢先生も妄念妄想でサンザン苦労されたのであろうなと嬉しくなったと云
うのが本音のところです。

妄念妄想があるからこそ「これではイカン」と仏法を求めるのであろうとも思うのでありますが、「仏法を聞きながら妄念妄想を野放しにしていては何の為の仏法か」と情けなくなりながら
今日に至っていると云うのも正直なところであります。

ただ、作者の竹部さんが「妄念妄想を妄念妄想と知っているのだ」と云うところに多少の救いを見付けたいと思います。親鸞聖人が七高僧として尊敬されている源信僧都は『横川法語』の中で、
「妄念はもとより凡夫の地体なり、妄念のほかに別に心はなきなり」(妄念は私たち凡夫そのものであり、私たちの心の中には妄念以外の心は無いと言ってよいと思う)とまで仰っておられますが
その源信僧都を尊敬されている親鸞聖人も多分一生ご自分の頭の中を駆け巡ろうとする妄念妄想を眺められつつ、その度毎、念仏一つで懺悔されつつも目の前の仕事に打ち込まれ、それこそ仏法興隆
の為、汗を流されたのではないかと思います。

また、米沢先生が竹部さんの『炎天と汗』の詩をあるく念仏≠ニして『心の詩』として紹介されたのは、「念仏をただ称えているのが他力本願の念仏ではない。念仏は生活の中に生きていな
ければならない」と云うお気持ちからではなかったかと推察しております。

竹部さんは念仏者です。竹部さんの詩を初めてご紹介させて頂いたのですが、米沢先生の『こころの詩』には、数編採用され紹介されています。これから少しの間、竹部さんの詩を紹介させて頂こう
と考えております。

合掌ーなむあみだぶつ




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