心の詩ー自他一如

米沢英雄先生

●詩−歩いているー寺島キヨコ

     洗濯をし そうじをし
     御飯を炊き しおこぶを作り
     梅酒を作り くこ酒を作り
     わたしは
     夫について あるいている

     子供が よろこぶよう
     夫に いいようにと
     わたしは
     子供の窓から
     夫の窓から
     自分をのぞいて
     歩いている

● 米沢秀雄師の感想
この人、明治時代の人?冗談じゃない、昭和の今生きている人だよ。それこそ冗談じゃない、こんな自主性のない人。ウーマン・リブの今日だよ。夫について歩いているなんて。子供の喜ぶよう、夫の都合のいいようなんて、テンデ自主性がないじゃないか。まるで人の言いなりになってるじゃないか。自分をしっかり掴まなくちゃ。自分自身を生かさなくちゃ。

ホホゥ、それではこの人は自分を生かしていないというの。あんたのいう自主性とは、存外ちっぽけな自我のことじゃないか。この人の自分というのはもっと大きいね。少なくとも、ご主人も子供もこの人の自分なんだ。相手に自分を没しきれる、相手になりきる、これが君に出来るかね。

昔の日本の女性はそうだった。主人が、子供が、能力一杯に働くことが出来れば、そこに自分も一緒に生きていたのだ。君のいう自分というのはコッソリつまみ食いしているような自分、いわばエゴの塊りのようなものを指しているんじゃないか。

自主性というのは海の孤島と違うよ。全体の中の自分と云う事を知って、自分を全体にまで拡大出来る人が、真の主体性をもって生きている人なんだ。君のいう自主性は個々人をバラバラにすることだ。人間は一人ひとり別ではあるが、深いところで切っても切れぬものとしてつながっているのだ。

献身というのは犠牲じゃない。犠牲は歯を食いしばって真っ青になって、何かそこに悲壮感が漂う。

夫の窓から、子供の窓から自分をのぞくとこの人が言うのは、夫の身になって、子供の身になって、自分の分を尽くしているので、そこには生きる喜びがあふれ、身の動きさえきびきびとして、洗濯なんか歌いながらやっているようではないか。この人には信心が生きている。

● 無相庵の感想
米沢先生が『自他一如』と云う表題を選ばれて、寺島さんの『歩いている』と云う詩を解説されたのは、「人間は一人ひとり別ではあるが、深いところで切っても切れぬものとしてつながっているのだ。」を私たちに説かれたかったからだと思います。
自他一如と云う熟語を聞きますと、私たちは「自分も他人も一緒で一体だ。そんなことは有り得ない」と考えてしまいますが、自他一如とは決して自分と他人をごゴチャ混ぜにすることでは無いと云うことであります。「自分と他人は別々に存在しているけ れども、他人無くして自分は存在し得ないし、自分無くして他人も存在し得ない」と云うことであります。今自分の隣に居る人が居なくても自分は生きて行けると考えられるかも知れませんが、そんなことは有りません。今私が衣食住の生活が出来ているの は、辿り辿れば、隣の人が居るからと云う事に思い至るはずなのです。それを米沢先生が、「深いところでつながっている」とおっしゃったので無いかと私は思っています。

ですから今回の2011年3月11日午後2時46分に起きた東日本大震災は遠く離れた自分に関係無いと云う他人事ではなく、日本の国民だけではなく世界中の人々が自分の事として被災された方々を励まし支援しているのだと思います。

合掌ーなむあみだぶつ




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