心の詩ーいのちのパイプ
米沢英雄先生
●詩−へそ―永谷恵美子(先天性心臓病と喘息に悩みつつ、20歳で亡くなられた佳人)
へそのあなって大きいな
ちょっぴりゴミをとってみたら
もっとゴミがあるようだ
へそって大切じゃないかな
だって親とつながってたもん
へそって親と切っても切れん
しるしらしい
● 米沢秀雄師の感想
臍(へそ)のゴミをとることは、子供の頃誰でもがやる経験だ。だが、この人のように、臍と親とがつながっていたのだ、これがいのちのパイプだったのだ、というところまで思い及ぶものは少ないだろう。この頃は、古代の遺跡を掘り返すのが、一つの流行みたいだが、私たち一人ひとりが、また一人も残さずおなかの真ん中に遺跡を持っているわけだ。この遺跡が生きていた時は、ここから母親の生血を奪い取って、母親を痩せさせ、歯をがたつかせてしまったのだ。臍を思えば、母親に頭が上がらない。ところで、今一つ広大な親があるのだ。私たちの親に生む力を与えたもの。太陽や月や風や水や、その他宇宙に存在する一切のものをあらしめる働き。その働きがあればこそ、私たちが生まれ育ち生きてゆくことが出来るのだが、その働きこそ、私たちすべてのものの共通の親ではないか。この親とは、永劫の昔から尽未来際に亘って、縁が切れることは、ただ一瞬たりともないのだ。
だが、私たちは、それを忘れてしまっている。自分一人の知恵才覚で、生きていると思い込んでいる。これは私たちをあらしめている、大きな働きそのものに対しての冒涜(ぼうとく)と言えるのでないか。真実の宗教というのは、私たちをあらしめている根元への復帰と言えよう。あたかも母親の腹を借り、育てられたことを忘れたら親不幸であるように、今も私たちのいのちを支えている大きな働き、絶対他力とも言われるが、その恩を忘れたら、人間とは言えないのだ。
私たちは、それを無視して、自分の小さな知恵才覚(これを自力という)を頼む。これが行き詰って、初めて絶対他力の掌中に本来あることに気付く。それを気付かしめるもの、他力と私たちをつなぐ臍の緒が、ナムアミダブツではないか。この詩の作者は、彼女の詩集を編んだ衣斐民夫氏の後記によれば、生来の心房中隔欠損症と、生後の喘息に悩みつつ生きて、昭和42年6月28日、20年の生涯を終えられたという薄幸の佳人である。黙祷。
● 無相庵の感想
私は臍の存在をすっかり忘れてました。自分で自分の臍を見たのは少なくとも40年位は遡らなくてはならないと思います。そして、臍が命のパイプと言う考え方にも新鮮な驚きと感銘を受けました。常に命を見詰めて生きられた方故の細やかな観察眼と自己の受け取り方に、私は自分自身の粗雑な生き方を振り返らずには居られません。誕生日が昭和20年3月8日の私ですから、終戦直前の昭和19年の春から昭和20年3月までの、食料も乏しく落ち着かない世情の中、4人の子供を抱えながらお腹に宿った私を護り育ててくれた母の苦労と命のパイプの役割を果たしてくれた臍の緒の遺跡にあらためて感謝した次第であります。
そして、米沢先生の仰せの通り、その母親と臍の緒を在らしめ、今も働き続ける宇宙に遍満する、絶対他力と称せられる働きに依って生かされて生きている自分であることに常に目覚め直しつつあるのが信仰生活なのだと、あらためて教えて頂いた次第であります。
合掌ーおかげさま