心の詩ー転悪成善

米沢英雄先生

● 詩−真珠貝―榎本栄一
         真珠貝 海の中で
         何かコロコロするような異物を
         抱いたまま
         今は それを
         除きたいともおもわず
         生きている

● 米沢秀雄師の感想
真珠は、真珠貝の中の異物の刺激で分泌される液が固まって、あんな美しい真珠になるんだそうだな。そう聞くと、真珠貝も苦労するんだな、真珠を生むために。自分らも若い頃、聖賢の道ということを教えられたものだから、ちょうど煩悩の強盛(ごうじょう)になる時期でもあるし、煩悩のままに行動すれば聖賢の道に外れる、というより人間から落伍すると思われて苦しんだものだな。

いっそ煩悩なんて面倒なものなければいいのにと思ったな。真珠貝の異物は貝より小さいんだけれど、人間の煩悩は人間よりもて強くて、自分らをくわえてふり回すものな。ふり回されては泣いたもんだ。その頃は煩悩を邪魔ものにして、はねのけようとしていたんだな。ずっとずっと後になってからだな、煩悩が仏のお命だということを教えられたのは。

親鸞聖人も若い頃から煩悩に苦しまれたんだろう。「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑し」と後年述懐していられるから。こういうおのれのあさましさをさらけ出し、これが人間として当たり前さと居直らないで、このあさましさを恥ずべしと歎かれて、その歎きにおいて仏と遇われたんだなぁ。

そうなると、煩悩は邪魔ものではなくて、煩悩に苦しみ悩むことによって仏に遇えるのだとすれば、むしろ煩悩はなくてはならぬものなんだろう。

人間に煩悩は当然という考えもあろうが、仏に遇うための煩悩ということになると、同じ煩悩でも意味が違ってくるだろう。煩悩に惑溺するのでもなく、煩悩をはねのけようとするのでもなく、煩悩を縁として仏に、真実の自己に遇う道とするとなると、煩悩が核になって成仏という美しい真珠が生まれるようなものだろう。

ちょうど異物の刺激で貝が泣いた涙が凝って真珠となるように、煩悩のあさましさに泣いた懺悔の涙が凡夫を仏に転ぜせしめるのであろう。もしも煩悩がなかったとしたら、仏に遇うというか、仏になるというか、そういう縁がなくなるわけだ。煩悩を大切に扱うようにしよう。

● 無相庵の感想
昔は、私も煩悩は無くさなければならないと思っていた。煩悩を無くして人格者になり、尊敬される人間になりたい、そして誰よりも出世したいと考えていた。そして、その考え方自体が煩悩だとも気付かずに居た。親鸞聖人はご自分の事を「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」と言われていたけれど、それは飽くまでも謙遜ではないか・・・謙虚さではないか・・・と考えていた。

でも今は親鸞聖人を照らしている仏の光の強さが強い分、私たちが見過ごしている僅小な煩悩にさえ気付かれていたのだろうと思うようになった。そうして、少し気軽になれたように思う。しかし、それは煩悩なんて無くせないと云う居直りではなく、開き直りでもない。煩悩があるからこそ、仏様に捕まえられて決して離されないと云う安心感のような気がする。

真珠貝が異物に刺激されて、美しい真珠になる。私たち人間が煩悩に刺激されて安心の華を咲かせる。自然の営みに学ばれた榎本さんと、米沢先生の読み取りの深さに感動を覚えた次第である。

合掌ーおかげさま




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