在家仏教
はたらきそのもの

米沢英雄先生

『「悔い改め」られぬ私』からの続きー

この間の「一日出家の集い」で、若い女の人でキリスト教を信じておられる人が、キリスト教の神ははたらきそのもの、私の言うはたらきそのものと言ってもよいかと、こういうことを聞きただされました。

ご承知のようにキリスト教の神というのは、天地創造の神といって、天地一切のものを造り出したものであるというので「創造主」というのであります。そういうことで、もし神が全部造ったのなら、何故、悪というものを神が造ったのかと、こういうことが問題になってきます。

キリスト教の神学というものは、こういうところで悪というものを、どういうように扱うかというところで、悪戦苦闘するわけですけれども、この方はその神をはたらきそのものと受け取ってよいかと言われました。これはキリスト教の教師に聞けばそれではいかぬと言われるかもしれぬ。

私は日本人ならば、神というのははたらきそのものと受け取るべきだと思う。外国人のキリスト教ならいざ知らず、日本人のキリスト教信者なら、神というものをはたらきそのものと受け取るべきでしょう、と答えました。我々は日本人ですから、つまり日本人はずっと昔から、仏法に依って育てていただいてきておる。そういうものが我々の体質の中にとけこんでいる。だから日本人なら日本人なりに、キリスト教の受け取り方をすればよいのでないか。このように思います。あまりキリスト教の言葉にとらわれずに、日本人らしい受け取り方をすればよいのでないか。

その日本人らしい受け取り方をしている、埼玉県におられる関口大雅と云う人が、『旧訳聖書』の解釈をしておりますが、それを見ると仏法的な受け取り方をしておられます。そういうように日本人ならば、キリスト教を日本人らしい受け取り方をすればよい、私はこのように思います。
だからクリスチャンであるからどうとか、そういうことにこだわる必要がないのでないか。ただそういうふうに受け取って、どういうふうに自分の日常生活の中に生かしておるかということが、大切であると思う。

仏法信者といっても、その仏法が日常生活の中で生きておらなければ、何にもならなぬのでないか。ただ仏法の言葉だけを知っているのではつまらぬ。日常生活の中に働かなければ、何にもならぬと思います。

はたらきそのものは日常生活の中に働いておられる。働いておられるけれども、それと感じる心、感じ取って、はたらきそのものによって、生かされて生きているのだという実感が、南無阿弥陀仏という言葉になるのであろう。南無阿弥陀仏というのは、はたらきそのものから生まれてきた言葉である。たとえばミミズは物好きで土の中にもぐっているのでない。ミミズは縁によってそのように業によっておる。そしてミミズの業を果たしておる。一切のものが自分自身の業を果たしておるので、彼らは仏法を聞く必要がない。人間だけが仏法をきかねばならない。

すべてのものは南無阿弥陀仏している。我々は体はみな南無阿弥陀仏しているけれども、体に宿っている心だけは、南無阿弥陀仏しておらぬ。その心の首根っコを押さえつけて、南無阿弥陀仏せしめる。そういうものが阿弥陀仏のはたらきである。阿弥陀仏のはたらきそのものから生まれてきて、はたらきそのものへ、私たちの心に足があるとすれば、はたらきそのものに着かしめる、それが南無阿弥陀仏のはたらきである。

だからはたらきそのものに足が到着すれば、悟りも信心も一つである。悟るというのは、はたらきそのものを悟るというのでありますから、はたらきそのものに、南無阿弥陀仏によって足がとどけば、悟りも信心も一つであることが言えるのでないかと思う。

ただし悟るということが非常に難しい。はたらきそのものに、悟りそのものに直接迫ろうとすると、これは非常に困難なことで、特殊な頭をもった人、或いは修行を重ねた人においては可能である。それを、一般の者に、正しくはたらきそのものに到着せしめようとするところに、苦労されたところに、法蔵菩薩があると思う。

法蔵菩薩が南無阿弥陀仏して、はたらきそのものに心の足が到着したので、これをみなに伝えて南無阿弥陀仏することによって、特殊な人だけがはたらきそのものの世界に到着するのでなくて、どんな者にもみな南無阿弥陀仏することによって到着する。こういう道を開かれたところに、『大無量寿経』の面目がある。

親鸞様が「真実の教を顕さば大無量寿経」と言われたのは、南無阿弥陀仏すれば、全部がはたらきそのものに心の足が届くから、ということを見極められたればこそ、真実教を顕さばという宣言が出来たのであろうと思う。

我々は天地一切は南無阿弥陀仏一つ、私たちの体は南無阿弥陀仏している。体に宿る心だけが南無阿弥陀仏しておらぬ。南無阿弥陀仏しておらぬ心というのは、我執といわれるもので、自分ほど偉い、まともな者はない、自分が一人で立っているように思う、そういう驕慢心、「邪見驕慢の悪衆生」と呼びかけて、その驕慢心を打ち砕くことにおいて、自然にはたらきそのものと一つにならしめる、そういうところに阿弥陀仏のはたらきがあるのであろうと思われます。

阿弥陀仏というのは、親鸞様が「邪見驕慢の悪衆生」と言われたのは、自分の外なる悪衆生ではなくて、自分自身そのものが悪衆生であると頭が下がった、そういう姿を述べてあるのだけれども、「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」という言葉が、我々に呼びかける、この呼びかける他に阿弥陀仏はない。阿弥陀仏というのは仏像ではなくて、「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」と言われて、呼びかけて下さる言葉の他に阿弥陀仏はなかろう。何のために呼びかけがなされるかと申しますと、そういう呼びかけにおいて、自分が邪見驕慢の悪衆生であることを自覚せしめて、下がらぬ頭を下げしめるところにあるのだと思う。

阿弥陀仏の救いというのは、無条件の救済ということになっている。無条件の救いというのは、散乱放逸も助かるということでなくて、散乱放逸も散乱放逸のまま助かっている、助かることもいらなかったというほど助かったということ。あとは我々の欲心で、助かろうという思いからもがく。そのもがくということが間違いだったということを気付かせるために、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫という呼びかけがある。

我々は血液が循環していることを、当たり前にしている。その当たり前にしているのを、罪悪深重というのである。曽我先生は罪悪深重ということを、縁が来れば何をしでかすかもわからぬ存在ですから、罪悪深重であると言われる。そのように何をしでかすかわからないけれども、更に私は、息が出ている、血液が循環している、それを当り前にしている。生きた仏を尻の下に敷いている。それを罪悪深重であるというと、それはみなに分かり易いし、これが非常に一般的であると、このように思います。

息が出て血液が循環している。それがなければ我々は一刻も生きていることができない。生きていることの原点であるものを、当たり前にしている。ありがたいと思わぬ。それを罪悪深重という。朝から晩まで我欲のために駆けずり回っているのを、煩悩熾盛の凡夫というのである。このように言われる。

それでこれから免れる者、洩れる者は一人もない。息が出ている、血液が出ていることは、非常にありがたいことである。こういうことを聞いた時は、なるほどと感ずる。しかし聞いた時だけで、時間が経つと忘れてしまい、人の悪口を言うのが我々の存在ですから、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫ということを免れる者は、一人もないわけであります。

それで浄土に生まれることを得る者も一人もない。その罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫を本願の上に尋ねると、「唯除の文」に「五逆謗法」、五逆を犯し、仏法を謗った者は、浄土に入ることが出来ぬということが、唯除の文に該当するわけで、本願というものは、あちらからもこちらからも、どちらから眺めてもうまく出来ているもので、私のようなものが、賞めたって本願の値打ちが上がるわけではないが、なるほど仏の智慧というものは、うまく仕組まれてあるものだと思います。そして殊に私の感ずるのは、本願成就の文にまで「唯除」が置かれていることである。

つまり助かった者にまで、本願の唯除の文がついている。我々は助かっても、肉体をもっているかぎりでは、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫を免れることは出来ない。一生頭が下がる、いつか上げたいと思うけれども、頭を上げる思いが、既に本願に背いていること。頭の下がり通しというところに、我々が助けられ通しということが成り立つという。本願というものは実にうまく出来ていると思います。

―『人間になって死ぬ』に続く

合掌ーなむあみだぶつ




[戻る]