在家仏教
「悔い改め」られぬ私

米沢英雄先生

『諸仏を見る』からの続きー

「諸仏を見るを以ての故に念仏三昧」ということなら、日常生活の上に我々が実行していくことが出来る。確かめていくことが出来ます。

ここにもって参りました手紙は、広島県の因島におられる70歳すぎのお婆さんからので、3年ほど前にこちらに来られて、お会いしたことがあります。この方はクリスチャンですが、キリスト教でいう、真宗の安心決定(あんじんけつじょう)、キリスト教では何かシックリいかぬものを感じておられた方です。

これはちょっと自家宣伝になるようなところがあるのでまずいのですが、この方は名古屋に息子さんがおって、中日新聞の『こころの詩』を読んで、何かこの方が感じられたのでしょう。ということで、中日紙の『こころの詩』を読んでおられる。ところがキリスト教というものが体の中からなかなか洗い流すことが出来ぬ。それで時々手紙をよこされる。それでこの間来た手紙に、私の本を読んで「悔い改める」と言っておられる。

これはキリスト教でやかましく言われることである。つまずいたら自分が間違っていると悔い改める、こういうことがキリスト教の信を深める行き方です。その言葉が前の手紙に書いてあったので、この言葉に引っかかったのです。親鸞は悔い改めるなど出来る自分でないということに腰をすえられた。晩年「愚禿悲歎述懐」という和讃をよんでおられる。 「浄土真宗ニ帰スレドモ 真実ノ信ハアリガタシ 虚仮不実ノワガ身ニテ 清浄ノ心モサラニナシ」

徹底的に虚仮だ、と。虚仮不実。この不実は絶対に止まぬというところに、自分の本質を認めておられる。これは虚仮不実を自慢しておられるのでない。そこで頭が下がっておられる。虚仮不実を知ったということは、明るい仏の智慧の光に会うておられるから、自分の虚仮不実が見えてくる。悔い改めるなど、器用なことの出来る人間でない。悔い改めることが自分で出来ない、ということに徹底されることが、大事なのでないかということを申し上げた。

こういうところにも、この方が今までかかってこられた根本的な問題があると思う。これが天理教とか各種の宗教を通って、キリスト教にたどりついての上の安心のつもりだったのですが、キリスト教においても、とうとう安心出来なかった。それで私の言葉が書いてあるので非常に恐縮ですけれども、

「あなたのものを読むと、どこも胸に刺さることばかりで、宗教の巡礼をいたしました愚かさと、性格のみでないことがはっきり分かってきました。で、このような性格故に、右往左往したばかりに、先生のお教えにめぐりあえたのだと思いました。それで、過去の巡礼も無駄ではなく、地下工事だったのだと思わせてもらいました。私の過去に無駄なものは一つもない」

この人が晩年になって真宗の話に会われたところが、今までに遍歴されたことがみな無駄でなかった。みな生きてくる、つまりこれは迷いというものがなければ、悟りというものもないことですから、大いに迷うてくるということが、あとの悟りというか、信心を確かにするために、必要なことであると思う。

すうっと信心に入る、そんなことはない。そのようなすっと信心に入れるというのはかえってあやしげなものである。それは自力の信心というものである。信心は地下工事をやっておかぬと、その上に立った信心というものは不確実になってしまう。過去のこの人の巡礼は決して無駄でないといわれたところで、今まで遍歴した経験が全部拝まれてくるということであろうと思われる。

「先日もまたキリスト教の方が見えられました。このような場合にはどのように思わせていただいたらいいでしょうか、とおっしゃるものですから、いつものように教えられた御恩の中の言葉を申し上げましたら、まぁそんな言葉は夢にも気付きませんでした。」

これはどういうことかというと機の深信ということであって、これが真宗の面目であって、みな自分の驕慢、自分の愚かさに気付いておらぬ。自分のことが最大の盲点で、その最大の盲点に光をあてるのが、真宗の教えの機の深信というものであると思う。この機の深信というものが、キリスト教には乏しいのでないかと思う。悔い改めたらよい人間になれるように思う。そういうところに根本的な間違いがあるのでないかと思う。間違いというと失礼だけれども。

「夢にも気づきませんでした。本当にそうですネとおっしゃって、明るい顔をしてお帰りになったので、結局巡礼を致しました結果、教えにあずかってよかったと思っております。非常に順調に病気がよくなって(この方は中気で半身不随で身体の右の方がやられているらしい。その病気がよくなって、一進一退でした私が難波別院に行くと申したが、それはこられなかったと書いてあって、残念に思いましたが)、心の詩をもう一度も二度も読ましていただいていたら、竹部様の詩で、
        タスカッテミレバ
        タスカルコトモイラナカッタ

の詩が、心の底まで音を立てて響くようでございます。ありがたいと、思わず口に出てまいりました」

「タスカッテミレバ タスカルコトモイラナカッタ」ということが心の底に響いて、ありがたいという言葉が出た。これは大したことだと思う。みな助かりたいと思う。助かると、何か別の世界に行くように思うのである。助かるということは、自分の本来に帰るだけの話である。

助かれば助かることもいらなかった、こういうことがわかったら、これは真宗の一番深いところ、それははたらきそのものに生かされている自分の本当のすがたに会うわけで、これは助かってからも変わりのないことである。宇宙のはたらきによって生かされている点が、そういう点では、自分に帰るだけの話で、別に顔の色も変わらなければ、本来の自分に帰って、もはや助けてもらう必要がなくなる。

この助かれば助かることもなかったということが、クリスチャンのこの人にわかったという。この人の信念は確かなものである。こういうことがわかると思います。これでキリスト教の方でも、先生の教えによって初めて明らかになると思う、と言っておられるわけである。

―『はたらきそのもの』に続く

合掌ーなむあみだぶつ




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