在家仏教
御伝鈔にない話

米沢英雄先生

『愚禿の心』から続くー

ところで私は何が言いたいかと申しますと、たとえば自力聖道門、禅でありますが、自分の子供を持ちません。家庭を持ちませんから、法を伝えるために弟子を育てるということが、自力聖道門の使命である。そこへもってきて、親鸞様はなまじっか家庭を持ったために、子供の生活のために一生苦労しなければならなかった。死に際になっても、子供の心配をしなければならなかった。また自分の長男さえ育てることが出来なかった。

こういうことになると、今のようにテレビなどがあって、その事実が伝わると、恐らく世間の物笑いになったかと思う。「家庭を持つとあんなものじゃ。弟子を育てる自力聖道門の方が、はるかによいではないか。家族ひとつも教育出来ぬ」といって笑いものになったのでないかと思う。
笑いものにならぬために、『御伝鈔』には省いてあるのかもしらぬが、かえって親鸞様は非常に我々に身近な方に考えられてくる。家庭をもたれ子供のために苦労されたということで、我々に非常に近い存在に感じられてくるのでないかと思う。

善鸞は関東へ行って、何故父親からみなに言われぬことを直接聞いたなどと言われたかということを考えてみる。これは私の邪推です。これは歴史学者の言っていることでない。なぜそういうことを善鸞が言い出したかということですが、親鸞様は財産は何もない。本願寺が出来たのはずっと後ですから、その当時、財産はない。あるのは関東の弟子だけである。この弟子が欲しかったのでないか。

親鸞様は関東の弟子から送ってくる、何がしかの仕送りをいただいて生活をしておられた。こういうことになると何も財産をもたれぬ親鸞様にとって、ただひとつの財産としての、この弟子を善鸞は欲しかったのでないかと思う。それで言われもせぬことを言い出した。 その証拠が『歎異抄』第二節で、関東の弟子たちがわざわざ往生極楽の道を聞きに、京都までやってきた。それは善鸞のそういう問題が引っかかったので、親鸞様は自分たちに何か隠していることがあるのでないかと、聞きただしに来た。それが『歎異抄』の第二節であると思われる。

それで家庭をもたれたために苦労されたが、その苦労のことは一言も申し述べられておられない。善鸞は「自分は継(まま)子である」と言っている。恵信尼を継母であると言っている。それが事実であるとすると、家庭内でトラブルが起こらぬはずがないと思う。こういうトラブルについては、親鸞様も言っておられぬし、また恵信尼もそれに触れておられぬけれども、そういう問題のあったことは充分想像される。しかしそのトラブルの中に堪えておられるところに、親鸞聖人の人生があると思う。そういう継子の問題に悩まされるということがあったということで、かえって親鸞様が、我々に身近に感じてこられるのでないか。

こういうことから今日は「在家仏教」という題を出していただきました。何故このように在家仏教という題をだしたかというと、先般私は岐阜県の関というところに行きました。そこは関の孫六という刀匠の出ているところで、そこの仏教会でお話しさらせられたわけであります。
そこに仏教会の会長さんは本派のお寺さんで、副会長は臨済宗のお寺さんで、会場は曹洞宗のお寺であるということで、妙なとりあわせでありまして、その方々が非常に仲良く協力して仏教会を育てておられる。これは仲良くなれるはずである。何故かというと、みなそれぞれ家庭をもっておるわけである。

自力聖道門といつたら、みな家庭をもたぬというのが建前であるが、家庭をもっておられるということは浄土真宗と同じであります。家庭をもっていると、家庭の悩みというものがある。そういう点で仲良くやっておられるのだと思う。これは大事なことだと思います。家庭をもって苦労するということが、みんなの話が通ずるもとになるのではないかと思う。そういう点で今日は、自力聖道門も他力浄土門もない、みな同じである。

私は自力聖道門を尊敬せぬわけではない。禅宗では坐禅をやっている時は、息慮凝心(そくりょぎょうしん、思いをとどめて心を一つに集中すると云う意味)であるが、家庭に帰ってくるとそういうわけにはいかぬところに、ちょっと都合が悪くなると家庭の問題は、待ったなしで引きずり廻さなければならぬ。こういうことを思うとみな在家仏教だなと思う。

臨済宗であろうが、曹洞宗であろうが、みな浄土真宗の話が出来るというのは、みな家庭をもっていることがあるからである。そういう点でみな在家仏教である。その在家仏教の先輩として、家庭をもって苦労して下されたのが、親鸞であるということです。それで親鸞様の本願の念仏を信ずる。

それは大切なことで、それは家庭生活の中から生み出されたものであるということで、親鸞様の生活が、我々にとって非常に身近に感ぜられると同時に、家庭の苦悩の中で本願の念仏をいただいていくということが、いよいよ明らかになっていくのでないかと思われます。臨済の方も禅宗の方も、結局親鸞様の教えを聞かねばならぬのでないかと思われたわけでございます。

―『家庭のわずらい』に続く

合掌ーなむあみだぶつ

注)『御伝鈔』は、親鸞聖人の曾孫の覚如上人が親鸞の遺徳を称えて製作(1295年頃)された伝記です。




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