在家仏教
愚禿の心

米沢英雄先生

ご当寺の報恩講ということでよせていただいたわけですが、これはこの間も難波別院の暁天講座に呼ばれまして、その時もうっかり言ってしまいましたのですが、報恩講には『御伝鈔』が読まれる。私はあの『御伝鈔』をあまり好かぬのですと言ってしまいました。なぜ好かぬかというと、『御伝鈔』というと、親鸞聖人の格好のよいところばかり言われている。たとえば信行両座 というのがあります。あれは親鸞聖人はご承知のように29歳の時ですか、比叡山を降りて法然上人に会い、その時初めて本願の念仏というものに会われた。

念仏は比叡山におられた時から会うておられるのです。常行三昧堂というのですか、そこの同僧をしておられました。常行三昧というのは、朝から晩までずっと念仏を称えているところですから、念仏はいやになるほど知っておられたのであろうと思う。
ところが比叡山で、念仏を称えるというか、念仏に会ったけれども、生活の中で生きている念仏がなかったのであろうと思う。生活の中で生きている念仏がなかったので、それで比叡山を降りられて、法然上人に会われた時に、ここに念仏があると、こう思われたので、法然上人の弟子になられたのだと思う。

ところが親鸞聖人は法然上人の弟子としては、晩年の弟子であって、その先輩がたくさんおられるわけです。まぁ聖人は駆け出しの弟子である。それが信の座につくか行の座につくか、どちらでもお好きな座におつきなさいと言って先輩方をテストした。 すると聖覚法印という方、聖人を法然上人に会わせた人であるが、その聖覚は信の座につく。それに遅れてやって来た熊谷蓮生房も信の座につくことになった。そしたら先輩方はどちらにつくか迷っていた。そこに法然上人が出てこられて、わしも信の座につくと、こう言われた。 師匠が信の座につくのを見て、わしも信の座につけばよかったと、先輩達が動揺したのであります。つまり若輩の親鸞が先輩をテストしたわけであります。とにかく何にせよ、テストされて気持がよい人があるだろうか。私はあれは、親鸞様が若かったから、直情径行で、こうと思いついたらそれをやらずにおれなかったという性格から、信行両座というものをやられたのであろうと思う。ですから、テストされて行の座につこうか信の座につこうか迷うた先輩たちは、良いことを教えられたに間違いないけれども、そこはやはり人間だから、若い賭け出しの弟子が生意気な奴だと思われたのでなかろうかと思われる。

そういう点で、親鸞様の若い時代だったと思う。それが『御伝鈔』には堂々と載せられている。それは、信は行よりも大切だということを明確にするにはよい材料かも知れぬけれども、私のようなものはどちらかというと動揺する方だから、それで先輩方に同情するわけです。ところがそういう信行両座のテストをするような生意気なことをする人が、晩年になるとどうかということです。

これは『御伝鈔』に載っていないけれども、善鸞義絶の問題。これは親鸞にとっては大きな問題だと思います。こういうことはあまり格好のよい話ではないから、『御伝鈔』から省いてある。ご承知のように親鸞様が83歳の時か、自分の名代として善鸞を関東に遣わされた。それは関東の教団は親鸞様が開拓されたのですが、信心の上で大きな動揺が起こっていた。それでそれを明らかにするために、もう一つは関東でも念仏に対する弾圧が始まっていた。その弾圧に対して善処するために、自分は年寄りですから、善鸞を名代として関東に遣わされた。

ところが、善鸞がどういうことを言ったかというと、自分は父親からある晩こっそり、みなさまの教えられておらぬことを聞いておると言った。そうすると弟子達はそういうことはありそうなことだと思うもので、善鸞の方につき従うことになる。それがもとで弟子たちが手紙をもって、関東から京都へお尋ねする。
その時には聖人はやはり善鸞を信じて、まさかという気持も動いて、味方しておられた。ところがだんだん話を聞いていると、これは間違っておるということで、今は親子ということを思い切ったという、義絶(ぎぜつ、勘当すること)の手紙を送っておられる。84歳と書いてある。親子の情愛というものは、なかなか断ちがたいものがあったと思います。

それで私は思うのですが、自信教人信というて、即ち自ら信じ人に信ぜしめるという、これは聖人の生涯をかけての親鸞様のいのち、自分が本願の念仏を信じて他に信ぜしめるというのは、聖人の90年の生涯をかけての使命であったが、果たすことが出来たかというと、善鸞なる自分の子供さえ教育出来なかった。

こういうことは、これは大きな致命的悲劇でないかと思います。それから関東において長らく教えてきたのに、弟子たちが善鸞にまどわされている。こういうことになると自分は関東において、関東の弟子に何をしてきたかということは、これは全く悲壮な問題だと思う。そういうことに『御伝鈔』は何も触れておらぬけれどもその心情を考えてみると、絶望に近いことでないか。 自信教人信。これ一つを生涯の使命として生きてきて、どうにも報いられなかったということになると、親鸞聖人の晩年の心のさびしさというものは、非常なものでなかったかと思う。多分皆さまご承知のように、法然上人に騙されて、地獄に落ちても後悔せぬところまで法然上人の言われたことに絶対の信頼をもっておられる。ところが関東で育てられた弟子たちからは、自分が法然上人に対する絶対の信頼ほどの信頼を得ていなかったということが暴露されたとなると、そのさびしさはどんなものであったか。それを想像すると、親鸞様の心情は、堪え難いものがあったのでないかと思う。

このことが非常に大事なことで、親鸞様は若い時は、信行両座を決めるような、先輩方をテストするようなことをしたほどの人が、善鸞を義絶する時には、今は力及ばず候と、こういう情けない悲鳴をあげておられる。
こういうところに「愚禿」ということが非常に明確になっておるのであろう。ただ我々は何気なし愚禿と言われたといってはいるけれども、自分が一生の使命さえ遂げられなかったということ、今は力及ばず候と、これは全く悲鳴に近いものであろうと思うことです。だから御自身にとっては失敗の一生であったろうと思う。しかるに、みなは、親鸞は偉い人だと奉っておるけれども、親鸞様御自身は誠に悲壮な最期ではなかったかと思うわけです。

そこが、清沢満之(きよさわまんし)という方とよく似ているのでないかと思います。清沢満之という方は若く40歳で、肺結核でなくなられました。親鸞様はもう50年長生きしておられます。満之は40歳でなくなられました。しかもこれも全く失敗の人生であつたけれども、清沢満之の播かれた種というものは、現代において生きていると思う。

親鸞様の一生というものは、或いは失敗に終わったということかもしれぬけれども、聖人の教えというものは、いつまでも生き続けているといえる。だから親鸞様の一生というのは90年で計るものでなくて、いのちが非常に長いものであるといえるかと思います。

―『御伝鈔に無い話』に続く

合掌ーなむあみだぶつ




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