真実教の意義
深い本の願い

米沢英雄先生

この南無阿弥陀仏の法は、法蔵比丘が阿弥陀仏になられ、阿弥陀仏が法蔵菩薩になられたということであって、それはもともとは民間人の間に伝説として伝わって、今のような完全な物語でなかったままに民間に語り伝えられてあったにちがいない。その物語に魂の成熟していく過程をこめられたのが、大無量寿経であると思うわけであります。

自分の悟りの内容を念仏して阿弥陀仏になられた物語とされたところに、釈尊の大経を説かれた意義があるのではないかと思います。釈尊が出られる前に南無阿弥陀仏という言葉はあったにちがいない。と言うのは、私はいつも申し上げるのでありますが、何処の民族でも、天地四方を拝む風習があります。日本でもあります。それが宮中にのこされて四方拝というものがあります。どんな民族にも四方を拝むことはある。したがって印度にもあった。ところがたまたま西の方に配当された神の名が阿弥陀仏というのである。お釈迦様以前にすでに、南無阿弥陀仏はあった。

阿弥陀仏は無量寿・無量光で、我々の生きている世界をそのまま言い当てた名である。それが南無阿弥陀仏することによって、我々が真実の世界と一つになれるのであって、此の言葉は最も秀れているというので、お釈迦様はそれを取りあげられて、法蔵比丘の阿弥陀仏となられる物語とされたのであろうと思われるわけであります。

とにかく、南無阿弥陀仏という言葉をそういうふうに考えるというと、私は納得出来るのではないかと思います。それで南無阿弥陀仏という言葉で、真実の法を伝えられてきたのであって、お釈迦様も南無阿弥陀仏されて真実と一つになられたし、それからずっと、今日まで、伝えられてきたのでないかと思う。

人間は男女老少と色々差別はありますけれども、また社会的地位も千差万別でありますけれども、人間は誰も気付いておらないが、その中に魂があって、仏になりたい、衆生を救いたいという願をもっておるのであります。人間は迷うておりますけれども、その迷いというものは、ただ迷いというものでないと思う。人間はすべて欲をもっております。その欲は、お金が欲しいとか地位が欲しいとか、色々の欲がありますけれども、その欲望というものは、ただそういう欲望が無意味にあるのでなくて、その奥底というか、その根底に願があって、その願を、はっきりとは自覚しておらないけれども、この世において、自由自在の障りのない生活をしたい。そして人をも障りの無い世界に生まれしめたい。そういう根元的な願をもっておるのであります。

何故我々はお金をもうけるかというと、余計にあればその障りの解決のために便利だからと思うのです。しかしお金というものは、ある程度はその解決の助けになるようだけれども、お金では解決していかれない障りが出てくる。その時どうしたらよいかというと、その障りを受け取っていく。つまり「福は内、鬼は外」でなしに、福も鬼も受け取っていかれる。そういう自分になれるのが大事なのであって、それが自由人というものである。どのようなことでも受け取っていかれる。微菌でも食って栄養とするように、念仏というものは、精神的に真に健康体を作るのでないかと思うわけであります。

そういう力は人間は自分自らでは出てこない。人間は欲をもっているから出てこない。悪を恐ろしがる人間からは出てこない。人間でありながら、人間を超える智慧と力を持たねばならと思います。そういうことを説き教えて下さるのが、大無量寿経であると思います。人間はただ生まれて来たのでなくて、人間は仏になりたいという願いをもって、それの成就のために人間に生まれてきたのでありましょう。

しかしその願いを持ちながら、しかもその願いを持っていることに自らは気付かずにいるのであるが、この願いに目覚める時に、そこに真の平等というものが確立するものであろうと思います。ただこの願いに目覚めるのが早いか遅いかがあるだけで、それはそれぞれに縁というものが違うだけであって、この願いを奥底に持っているということだけは、いかなるものも平等である、ということを大経で教えられてあると思います。

―『真の歴史』に続く




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