真実教の意義
南無阿弥陀仏の意義米沢英雄先生
なかなか両手が合わされません。その両手が合わされた時に、毎日を全部一人でまかない出来ると思っていた自分自身のあり方に、まず申し訳ないと、今まで頭の下がらなかった奴が、汝自身を知れという言葉の前に頭が下がった。そしてその時に初めて自由になった。 今まではこの世が自分でどうにか出来ると思っていたものが、その自分自身が知られ、零であるということに気付いて、この自分はあらゆる力で支えられているものであると気付かされたのである。
そこで自分が仏になると共に、一切衆生を救いたいという願も、自分から起したもののようであるが、それは全人類の祖先がもち続けてきたのであって、その願が偶々(たまたま)自分の口を通して叫び出されたのであることに気付かれたのであろうと思う。その願は自分を超えた大きな願である。その自分を超えた願をもって、自分は生きていたのである。自分自身は非常に貴い自分である。考えてみると零に等しい自分であるけれども、恥ずかしい自分であると思われる時に、そこには自分を超えた大きな願が宿っていて、その願に動かされていた自分であったという、その貴さに驚かされて、合掌せられ、阿弥陀仏になられました。
その境界を阿弥陀仏というのであって、南無阿弥陀仏されて阿弥陀仏になられた、その第一号が法蔵比丘であると、こう言われる。それで阿弥陀仏という人が果たして昔おられたかどうかと疑う人もあるが、そういう問題でなく、そういう願が宿っていてそれを実現しようとして色々苦労する、その人間の本当の願の実現に到る運びを表そうとしていることがらなのであります。
人間は、誰しも、自分も助かり他をも救いたい願をもっておるのであるが、それを実現するに色々苦労し色々分別するのであるが、自分の力でそれを明らかにすることが出来ません。自分を超えた力によって、自分自身を見る仏の智慧を自分にいただく以外にない。
人間は自分のことは自分が一番知っているように思うのでありますが、悲しいことには、自分のことは一番わからぬのであって、どうしても自分を超えたものから、自分を教えていただかなければならぬ。そこでこういう仏の智慧を自分で得ようとしてもなかなか得られません。それが53仏の遍歴となって、最後に世自在王仏に会われて、自分自身を知れと言われて、初めて自分の無力さを悟られて、真に謙虚になられた時に、どんなところでも生きて行くことが出来るようになったのである。
人間は障りがあると、障りを何とかしようとしている時は、障りばかりであったが、障りを受け取っていくことによって、障りは外にあるのでなくて、自分の能力もかえりみずに、その障りを何とかしようとしていたのだという、愚かな自分であることに気付くというと、障りが障りでなくなる。そればかりか、その障りがあるお陰で、自分自身というものが明らかにされてきた。
こういうことになると、もはや障りをどうかしようというような野心なしに、障りは障りのままでそこに自由の境界というものが開かれてくる。そういう道を世自在王仏の前に立たされるところに、法蔵比丘が初めて阿弥陀仏を実現されたというわけであります。
阿弥陀仏というのは、いつも申し上げるように、無量寿・無量光と言われているのである。それは無限というもので、宇宙の法則というか、相というもので、そこから人間は一歩も出ることは出来ない。法則のままに人間は生死していくという、自分の位置をはっきり自覚した言葉が南無阿弥陀仏という言葉である。
我々は無量寿・無量光からは一歩も出られない。真実の世界からは一歩も出られない。その真実の世界に生きておって、自分では、自分の力で何もかもしておるようでありますけれども、真実の世界からは一歩も出ておらぬのであります。我々は真実の世界におりながら、真実の世界に背いているのが我々であって、その背いているということがわかりますというと、真実の世界と一つになることが出来る。それが南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏することによって、真実に背いていた自分が真実に帰らしめられ、真実と一つになる。それが南無阿弥陀仏という言葉である。
そうすると阿弥陀仏は南無阿弥陀仏することによって、阿弥陀仏になられたということが出来ると思う。南無阿弥陀仏という言葉は、真実の中に生きながら真実に背いて、真実と一つになれないという自覚を通して、真実と一つになったということである。
法蔵比丘は南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になられた。南無阿弥陀仏して阿弥陀仏になるというと、人間でありながら阿弥陀仏に等しい智慧が与えられるので、南無阿弥陀仏することによって、人間が人間でありながら、人間を超えて自由自在になれるというので、この南無阿弥陀仏の法をすべての人に伝えて、全部の人に阿弥陀仏になってもらいたい。障りの無い仏になるには念仏以外にない。念仏を全部の人に伝えたいという願いから、法蔵菩薩となられて人間の間を遍歴せられるというのが、法蔵菩薩の物語であると思う。
―『深い本の願い』に続く