何故、仏法を聞くのか
シューズも宝石も世界のもの

米沢英雄先生

「お手紙有り難うございました。人と接することの不器用な私で失礼をいたしましたが、温かく接していただき感謝します。米沢先生や他の方々までが泣いて下さったのを見た時、皆さまと心が一つになったような気がいたしました。私の苦しかったことを、わかって下さったのだと思いました。友達と話をしていて、どんなに言葉を尽くして話した時も、どんなにうなずいてくれても、空しさがはね返ってきて、余計に孤独を感じたものでした。本当に嬉しかったです。決して忘れません。以前の私と、今の私と較べると、本当に不思議でなりません。今の私なら、きっと苦しみの種になったような出来事や事実にぶつかっても、ちっとも苦しみにまでならない。失望に終わるような出来事にぶつかっても、私を導いて下さっているのだと思えるのです。怒れるような状態になっても、すぐ違う見方が出来て、その状態から抜け出すことが出来る・・・・。」

これが、応用問題を解いているところです。たとえば「体育館シューズを・・・」
運動靴だね。学校の先生をしているから、体育の時間に運動靴をはくんでしょう。
「体育館シューズを洗うつもりで、家へもって帰ったのですが、どなたかが私に無断で履いたらしいのです。それでしばらくプンプンしていたのですが、ふと靴にとっては、履いてもらうことが役目なんだし、そんなら誰であろうと履いてもらえたら嬉しいのではないかと思いました。そしたらバッとわかったんです。たとえこの体育館シューズを買ったのは私でも、靴の命(人に履いてもらうということ)は、私のものではない。私は、靴に協力してもらっているのだ。そしたら、プンプンしていたのは消えて、どっかへいってしまいました。靴に南無阿弥陀仏しなくてはなりませんでした。
先生。私を苦しめるものがないということが、どんなに嬉しいことか、どんなに幸せか、今までの自分には想像も出来ませんでした。先生は、私の命の恩人です。私は、先生のお陰で生まれ変わり、一つひとつの出来事が私を導いてくれます。この歩みが、どうか続いて欲しいと思っています。」

続くことは間違いない。昔の説教ではね、「お前は前世で他人の運動靴を履いたから、この世で他人に運動靴を履かれるのだ」という。前世なんてわからん。わからんことをもってきて押さえつけたんだ。ところが、この人は現世で解決しているではないか。靴にとっては、履かれることが嬉しいのだから、どなたが履いても、靴は嬉しかったであろう・・・と。こういう考え方が出来るかね。こんなことまで私は教えんが、応用問題を見事に解いているではないか。

これは去年の4月に来た手紙だ。
「どうもお手紙と、お葉書を有り難うございます。以前の私の手紙の内容上、すぐご返事を書かねばと思っていたのですが、仕事の関係上、3月が最も忙しい時期でして、――(そうです。学校では、3月は学年末で忙しいのや)――ついつい書きそびれておりました。先生がご多忙の中を、いつもすぐご返事を下さることを考えたら、言い訳など言える私ではございませんが、――(私は、女の人に甘いからすぐ返事を書くんです)――その後の私の心情を申し上げますれば、これでやっと何とか生きていけそうだという気持です。(ここで先生の資格を得たと、私が書いたわけだ)――そして、不思議なことが多くありました。変化といった方がいいかもしれませんが、ひとつは、ただ嬉しくてしかたがないのです。」

いいね。信心とは、こういうもんや。ただ嬉しくてしかたがない。普通の嬉しさじゃない。人から物をもらったとか、美味しい物を食べたとか、そういうことが嬉しいんじゃない。ただ嬉しくてしかたがない。生きているだけで、息をしているだけで嬉しいというのは、大したことではないか・・・。

「自分の中に尊いものがある。自分を超える部分があるということが嬉しくてしかたがないのです。何かに感謝しなくてはいられない気持で、すべてのものに対して南無阿弥陀仏と拝みたい気持です。これが一つの自信につながるのか、どんなことがあっても大丈夫だという気になりました――(この人に重心が出来た)――。一つは、お米のひと粒ひと粒が勿体ないような気がして、粗末に出来ないと思うようになりました。一つは、大変怠け者の私が、せっせと体を動かすようになったように思います。一つは、今までの私は三寒四温のように、何か悟ったような気がしていていい気分になっても(せいぜい2、3日で)次には死にたいような気分に落ち込んだものですが、先生に手紙を差し上げましてから、いまだにその温かさが続いているのです。何だか、本当に生きていけそうです。今までの私は、何かいつもせかせかしていました。まるで何かから抜け出ようとするかのように。でも、抜け出るようなものではなかつたんだと、やっと気が付いたんです。突然、シャボン玉がパチンと割れるように気が付いたんです。」

うまいなあ、この表現は。シャボン玉がパチンと割れるように気が付いた。今まで知らなかった世界を見られたと。こういうことですね。信心というのはそういうものです。それを昔の人は夜明け≠ニいった。今まで暗かったのが明るい世界に出た、というので信心の夜明け≠ニ。これを現代の人ですから、シャボン玉がパチンと割れるという。現代的で良いですね。私にはとてもこんな表現は出来ない。

「私は、何処へも行く必要はないんだ。まして、せかせかと急いでなどと・・・。それがわかったとたんに、体が楽になって、のんびりやろうという気分になって、そしたら体がよく動くようになったのです。(ああ、いいねえ)――私は本当の意味で自分を大切にしはじめたような気がします。私の中に仏様がいらっしゃると思うと、自分の心も体も人生も、粗末に出来ないという気持で(いいねえ。信心というのは、こういうもんだ)――今は二度と以前の苦しい日々に戻りたくない。でも、苦しんできて良かったと思います。」

苦しまなければ、こういう世界に遇うことが出来ない。浄土に生まれるための陣痛であると、私は信じております。私が生まれる前に、母親は陣痛を経験した。しかし、自分が浄土に生まれるのにはね自分自身が陣痛を経験しなければならない。死にたい、死にたいと言っていたのが、この人の陣痛であったと思う。陣痛が成就した。成就して、めでたくこの人は真実の世界と呼応する自分というものに目覚めることが出来た、ということです。

「今日、学校の掃除中に、子供たちが血相を変えてとんできまして、何ごとと思いましたら、ゴミを捨てに行ったら、そこに球根が捨ててあったというのです。まだ生きているのにと、大変怒っておりました。そして、クラスの花壇に植えといたというんです。子供たちというのはきれいとつくづく思います。本当のことが、すっと受け入れられてきます。この頃は、自分の行動が批判されそうでヒヤヒヤします。反省のノートに、どうしてだかわからないですけど、直ぐに先生の話を思い出してしまう≠ニ書いているのを見ました。すこやかに成長して欲しい、と願わずにいられません。」

つまり、球根はまだ生きている。それがゴミ捨て場に捨ててあった。そういうことを子供たちが憤慨した。それは、先生が子供たちに、ものには生命がある、ものを大切にしなければならんということを教えたわけです。ものを大切にすることが、人命を尊重することにつながるのや。人命だけを尊重して、ものを粗末に扱って良いということでは、人命もものと一緒に取り扱われてしまう。現代はそういう時代です。ものを大切に扱うということが、人間の命を大切に扱うことにつながるのですね。

ですから、現代の教育はそういう点で根本的に間違っている。ところが、この先生は本当のことを子供に教えるようになった。だから、子供たちが球根を捨ててあったのを見て、血相を変えてとんでくる。子供には、直ぐに反応が現れる。だから恐いですね。教育っていうのは、非常に恐ろしいものだと思う。算数を教えることも大切だが、算数を何故教えるかということを考えねば・・・。

要するに、数は勘定するためだ。その勘定が出来るから人間として勝れているということは、私は言えないと思う。一番大切なことは、人間性を育てることだ。ものの命を知ることだ。球根が捨ててあったことに憤慨する。これは非常に良いことだと私は思う。

この手紙にも応用問題が書いてあるので、読んでみます。
「家庭訪問がやっと終わり、一息ついたところで、父兄の方々とお話して感じたことは、一番大切なことは何なのかということが、明確になっていないなぁ、ということです。食も細く、体も小さく弱い子供のお母さんが、体力をつけることが大切と思っていながら、それを第一の目標とせず、勉強のことだけ心配している。一番大切なものが何なのかがわかっていながら、思い切って捨てることが出来ない。そして、あれもこれもと追いかける。」

問題だな。弱い子供は、体を丈夫にすることが一番大事なことでしょう。ところが今は、勉強、勉強だ。成績を上げることばかりいっている。私は子供に、成績を上げよなんて言ったことはいっぺんもない。あんまり学校の点数をとると、学校の点数が無くなるなんてことを子供に言った。子供が通知表をもらってくると、先生が子供をどういう目で見ておられるか、その点を注意しました。今はそうではない。人間性よりも点数がいいということばかり、親が考えている。ここにお集まりの方々は、そんなことなかろうと思うけれど・・・。

「私、今度ちがうところに引っ越したのですが、その最中に貴金属ばかりを入れておいた箱を無くしてしまいました。15万円位のものが入っていたのです。やっぱり惜しくてならないのです。――(そうだな。私なら警察へ届けて探すと思うが・・・)あれが、私のものだと思えば、惜しくてならない。でも、あれは全世界のものであって、誰がそれを使っても良いはずのものです。たまたま縁あって私の所にあったけれど、縁がなくなって、誰か他の縁のある人の所へいったのだろう。そう考えていったら、私が私のものだと思っている身の回りのものだって、何一つ私のものなどないのだ。みんな縁あって、私のもとに有り、私を助けていてくれるのだ、と気付きました。すべてこういうふうに見られるなら、お金の介在する余地などないみたいです。

が私は、この世にたった一人で、裸で生まれてきた。私の周りのものも人もすべて、私が生きて行くためにあたえられたものだとわかりました。――(いいじゃないですか。15万円の応用問題を解いとるのだ)――引越しを手伝ってくれた母はくやしがり、父はそもそもそんな大切なものを他の荷物と一緒に運ぶなど、間違っている≠ニ怒ります。確かにその通りで、言葉もありません。今にして思えば、何故そんなことをしたのかも分からないのです。」

気が付かん時に、失敗はするものだ。しかしこういうふうに、縁がある間は自分のもとにあるけれども、縁がなくなればどこかへ行ってしまうというのは、大きな覚りであると思うんです。この覚りは、この人が真実の自己に目覚めているからだ。自我というのはがめついもんだけれど、そのがめついものをわれわれはもっている。もっているけれども、それが直ぐに転回出来る。転悪成善。悪を転じて善と成す。

こういう応用問題を解く実力をたった一年間でこの方がもって下さった。去年の3月に真実の自己に目覚めた人が、もうこれくらい応用問題を解かれるようになったということが、私としては非常に有り難いと思うんです。私は、応用問題の解き方を教えた覚えはない。ただ、真実の自己が目覚めるということの大切さを言っただけです。そして、この人は重心が見付かった。信心というのは重心である。重心がはっきりすると、ものごとに動かされん。15万円の宝石に動かされずにすむということは、大したことではないですか。それならお前は出来るかと言われると、私は自信がない。自信がないところで、時間もきたので、話を終わらせていただきたいと思います。 どうもご清聴ありがとうございました。

(昭和53年5月14日、第12回名古屋教区同朋大会記念講演)

『何故、仏法を聞くのか』ー完




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