何故、仏法を聞くのか
人生何だったか→夢にたよらぬ人生

米沢英雄先生

まだお会いしたことのない愛知県の方ですが、その奥さんが一月に手紙を寄こされた。その奥さんは非常に恵まれた方で、またとないご主人と一緒になられた。こう申し上げると、大分ご婦人方はうらやましそうな顔をしておられますね。皆さんのご主人も、またとない良いご主人でしょう。

この方も良いご主人にめぐまれて、男の子と女の子と、二人のお子さんがいらっしゃる。そのお二人とも非常に頭が良くて、男の子は阪大の理学部の応用物理の二回生、ところが良いことがいつまでも続かないですね。

その子が卒業し、就職したら嫁をもらって・・・と、将来の夢を色々とご主人と語り合っていた。ところが、その息子さんが去年の十月に、東北の方へ旅行した。旅行というよりも登山ですね。八甲田山へ登って下山した時に電話がかかった。「今、八甲田山から降りてきた。これから鳥海山へ登ってから帰る」と。鳥海山というのは山形でしょう。その鳥海山へ登ってから便りがない。

その息子さんは、鳥海山から落ちて死んだのだ。それで警察から通知が、大阪の下宿先へ行った。下宿先から実家へ通知が来た。そりゃ驚かれたであろうと思う。それで、夫婦して遺体の収容に鳥海山まで行った。それから奥さんは、毎日泣きの涙であった。誠にごもっともだと思う。娘さんがあるにしても、たった一人の男の子を事故で失くしてしまったということで、毎日悩んでおられたのである。

私は非常に不人情な人間ですから、その奥さんに、「どうかうんと泣いて上げて下さい」と返事を出した。男は仕事があって、外へ出ていかんならんから、そうしょっちゅう泣いている訳にはいかん。だが、自分の腹を痛めた母親だけは、その子供のために泣ける。だから、うんと泣いて下さいと書いた。

また、こういうこともある。去年知り合った方です。去年52歳と言われたから、今年は53歳かと思う。それくらいの数学は私にも出来る。その奥さんが、10年前にご主人を亡くされたんです。非常に良いご主人であったらしいです。そして、そのご主人を亡くされてから、自分は一生笑うことがなかろうと思った。そうだろうね。頼りにしてきたご主人を亡くされ、子供さんが3人もある。もうこれで楽しいことはないから、一生笑うことはなかろうと思ったんです。

だが、3ヶ月目に笑ったというんです。大笑いした。人間というものはそういうもんです。これは決して笑うことは出来ない。われわれもそれと一緒だ。悲しみのどん底に落ちた時には、本当に毎日が泣きの涙だ。しかし、それが続かんのですね。人間とは、それくらい情けない凡夫です。情けないですよ。

それで、うんと泣いて下さいと申しながら、いつまで続くかなという思いもないではなかった。私はひどい奴ですよ。こんなものに手紙よこすものでない。ところが、奥さんの前の手紙の中に「22年間勉強ばっかりして、そして山へ行って死んでしまった。この息子の22年の人生は何であったでしょうか」こういうことが書いてあったんです。それで、私は非常に皮肉な人間だから、うんと泣いて上げて下さいと書いたついでに、「奥さんの49年――(49歳と書いてあった)――の人生は何でありましたか・・・・」と。

これはその奥さんだけに言っているんでない。皆さんの人生は何だったか。それに答えるものは、仏法以外にないということです。皆食べるために生きとる。これは生きるために食べるのか、食べるために生きるのか問題でありますけれども、とにかく皆食べとる。それから結婚して子供もうけて、子供を教育して、息子に嫁とって、娘を嫁に出し、こういうことをやるのが人間だと思っているでしょう。でも、それくらいのことは動物でもやっとる。動物も餌を拾って、喰って生きとる。かたちは違うけれども、結婚して子供を生んで、子供を育てるということは、動物もやっとる。しかし犬が犬の人生は――犬は犬生か――犬生は何であったか、そんなことは問わないでしょう。猫は、猫の猫生は何であったか問わないでしょう。

自分の人生は何であったかを問うのは、人間だけだと思います。それに答えられなかったら、動物といっしょではないか。人生の意味、人間の生きている意味、そういうものに応えるのが仏法ではないか。こういうことになったら、人間に生まれとるものは、みんな仏法に聞かねばならんのでないかと思うんですよ。そういう仏法を、学校教育の中で教えておらん。だから今日、自殺する子供達が非常におおくなっている。人間の命に尊さを知らん。無量寿の命を、無量光の世界に生きとる非常に尊い存在である。そういうことを覚られた時に、釈尊が天上天下唯我独尊≠ニ言われたのでしょう。自分というものは、宇宙中で一番尊いものである。釈尊だけが尊いのでなくて、人間一人ひとりがみな尊い存在だ。

宇宙中が私を生かそうとして、全力を挙げて始終休まず働き続けていて下さる。大したことですよ。太陽は私一人のために出るのだ。と言ったって、私が太陽を独占するわけではない。私ひとりのために出て下さると思うかどうかということです。親鸞さまが「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人が為なりけり」と言われた。この言葉を訂正すれば、太陽は私一人のために出て下さった、雨は私一人のために降って下さった、と言えるんじゃないか。しかも、それを恩に着せてない。これは大したことではないですか。

これを無縁の大悲という。皆、縁の有るものは大切にしますけれども、縁の無いものを大切にするということはない。ところが太陽は―――太陽から見れば、われわれはうじ虫以下のものではないか――みんなに平等に日の光をあたえて下さる。空気も、みんなに平等にあたえて下さる。
しかも、恩に着せないというから大したことだと思うんです。それに較べますと、人間というのはケチくさいもので、少しのことを恩に着せるというところがありますね。だから、空気に対しても、太陽に対しても、誠にお恥ずかしい。

だから如来大悲の恩徳というのは、何処か遠いところにあるように思ったら大きな間違いで、太陽となり、月となり、星となり、雨となり、風となり、そこらの草木となってわれわれを生かし続けておられるということです。如来大悲を、言葉だけで聞いてきただけで、そのダメ押しをしてこなかったんです。身を粉にしても報ずべしというが、身を粉にしたって報ぜられんでしょう。
太陽の恩徳をどうして報ぜられますか、有り難いなあと、こう言う外に報じようがなかろうと思います。それを蓮如さまが、仏恩報謝の念仏と言われたのかも知れません。

仏法というものは、人間の生きる意味に応えるものだと申し上げました。そして、その教えと云うのは、人間が人間の尊さに目覚め、どんな困難にも耐えて生き抜く、いわゆる重心が出来る教えなんだと思います。そうしたら、人間としての教えを聞き、自分のものにするということは、非常に大事なことでないかと思います。

これもまた、手紙の紹介ですが、手紙を出して下さった方に対しては非常に失礼ですけれども・・・・。これはわれわれが算数の勉強をする。そして、算数の実力がついたかどうかということは、応用問題が解けるかどうかでわかる。だから、応用問題が解けなかったら、いくら算数の勉強をしても、勉強した値打ちがないということです。それで、仏法を聞いたらどうか、毎日起こってくるのは応用問題だろう。その応用問題が解けなければ、仏法を聞いたということにはならん。仏法が身についたかどうかということは、この応用問題が解けるかどうかで決まる。
真宗には特別な修行がないといって、昔から威張っていました。特別な修行、たとえば座禅とか滝に打たれるとか、そういうことはないかもしらないが、毎日起こってくる家庭内の問題、人と人との問題、そういうものが修行ではないかと思うんです。その問題に対して、どう対処していけるか、そこで、こちらに重心が出来てるかどうかということが、ためされると思うんです。

私のところへ去年の1月か2月に、ガリ版刷りの印刷物を送ってこられた方があった。名前から察しますと、女の人ですが、若い人かお年寄りか、そういうことは分かりません。どういう職業の人かもわかりません。そのガリ版刷りを読んでみると、「死にたい」と書いてある。それからしばらく読んでいくと、「生きていて良かった」と書いてある。で、その先にまた「死にたくなる」と書いてある。それで一番最後に、「死にたくなったら必死で祈ろうと思う」と、こう書いてあるんです。

それで私は、死にたいと思う心と、必死になって祈ろうと思う心は、同じレベルであって、この祈りは聞き届けられることがない。つまり、成就することがないと考えた。感想があったら、書き送ってくれということでありましたから、私はその方に書き送った。

人間というのは、自分のために生きているのではない。他人のために生きるのである。私ももう死んでもよい年だけれども、生きてくれという者があるから、生きているのである。なんていって恩に着せている・・・悪い奴だけれど、長生きしてくれという人もある。それで生きるのだ・・・と書いた。あなたが死んだりすると、両親が歎き悲しまれるであろう。だから、両親のためにもあなたは生きなければならん・・・と書いたんです。

多分、反撃がくるであろうと覚悟して書いたんです。そうしたら返事が来ました。
「早速のお便りを有難うございます。見ず知らずの者の突然の手紙に、ご親切に応対していただき、本当に有難うございます。何度も読み返しました。お手紙の中の『人間は、自分のために生きているのではなく、他人のために生きている』の言葉が、頭の中で行ったり来たりします。本当に死にたいと思った時に、私が死んだら両親は気が狂うほど悲しむだろう。そう思うと、とても死ぬことは出来ない。それがいつまでも、私を押し止めました。(でも、ここだ)――私の存在が両親にとっては、生き甲斐の一つであることは、先生のお手紙でわかりました。でも、苦しくてたまらない時は、きっと私の中の膿みたいなものが、私一杯に広がって、目が見えなくなるものだろうと思います。膿で一杯になった私を、針でプツンと刺して膿を出して、またいつの間にかたまって・・・と、それの繰り返しのようです。これからもきっと、死にたいと思うようなことがあるかも知れません。でも、自分でどうすることも出来なくなったら、祈ろうと思っています。ただ祈ろうと思う。(こう手紙に書いておられる。そして・・・)『感受性は失わずに、しかも強靭に』ということは難しいです。感受性が強いということは、傷つくことも多いということではありませんか」とある。

ところが後になって、このことが分かってくれたんです。私が「3月の13日か15日、名古屋の教育館で講演をすることになっておりますから、もし良かったらおいでになったらどうですか」と書いておいたんです。そうしたら、その方がそこへ見えておられたんですよ。 そして、
「前略、二度目のお手紙を有難うございました。そして、そのお礼の手紙を今頃書きますことをお許し下さい。今日名古屋の教育館での先生のご講演を拝聴いたしまして、やっと書くことが出来るようになりました。正直に書きますと、先生の二度目のお手紙をいただいた時は、突き放されたようで、失望いたしました。」

「要するに、あなたはエゴだけで生きている」すなわち、先ほどのお百姓しておられる方も自我のかたまりである。だが、「あなたが現在悩んでいられることは、自己に会いたいというもがきである。」人間は、自我と自己から出来ている。自我をエゴという。この自我のことを、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫と真宗では言っている。

自己というのは、自分を超えたもので、仏法でいうと仏性というか、正確にいうと無上仏というように言われる。この上ない仏、「誓いの要は無上仏にならしめんと誓いたまえるなり。」本願というのは、真実の自己、この上ない仏を、一人ひとりの胸の中に誕生せしめようという願いである。そして、そこで誕生したものを信心というし、この信心がわれわれの重心になるということです。

みんな自己に会いたがっているんです。それがわからんから死にたがる。こういうことになるんです。自暴自棄になるのも、自己不信になるのも、自分の中にある真実の自己が目覚めたがっているもがきである。

夢にたよらぬ人生

人間が生きるといえるのは、この信心があって初めていえる。生きている意味は、自我によって抑え付けられていた真実の自己が目覚めるということだ。真実の自己が目覚めたがっている。目覚めたがっているけれども、ご当人はノホホンとして、それに気付かん。

何で私だけが、こんなひどい目に遇うのかと思っている。ご長男に死なれた奥さんも、自分の49年の人生は何であったかということを問うて、生きている意味をはっきりさせなければならん。真実の自己が目覚めて子供が死んでくれたお陰といえる。子供が丈夫で、嫁さん貰って・・・・といえば、世間的には幸せかも知れん。けれどもなんか空しさを感ずる。

真実の自己が目覚めておりますと、どんな境遇におかれても、人間に生まれた生き甲斐というものを感じて暮らすことが出来る。総理大臣になっても、松下幸之助――ちょっとなれんが――になっても、真実の自己が目覚めておらなかったら、人間に生まれた生き甲斐がないということですね。

われわれは付録を余計に集めても、その付録は落とすということがある。また、付録はどれくらい集めてもこれで満足ということはない。お前は貧乏しているから、そう言うのだろうと言われるかも知れません。それは当たっている。ある程度は当たっているけれども、しかし、どんなに貧しくとも、真実の自己が目覚めていれば、人間に生まれた喜び、天上天下唯我独尊ということを感じて生きられる。それが人間にとって一番の幸せでないかと思う。だが、その真実の自己がお留守になって、自我ばっかりで生きとるから、思うようにならんで死にたくなるのだ。

「お言葉が冷たいものに思われ、しかもどうすべきだというようなお言葉がなかったものですから、私ならこんな手紙は書かないなどと、浅はかにも先生をうらみました。」
私という奴はひどい奴だ。
「自分としては精一杯と思い、これで良いのだと思っていた現在の自分というものを、ものの見事にすっぱりと否定され、どうすれば良いとも書かれておらず、自分がこれからどうして良いのか全くわからず、悲しいやら悔しいやらで泣けて泣けてしかたがありませんでした。」

後でわかったんですが、若い娘さんでした。若い娘さんを泣かすとは、米沢という奴はひどい奴だ。
「先生の手紙に納得がいくまで、返事は書くまいと心に決めておりました。何処までも高慢でした。」これが素晴らしい。高慢であったことに気が付かんのでなく、何処までも高慢と書いてある。これを邪見驕慢(じゃけんきょうまん)と、親鸞さまは言っておられる。
「間違っているかも知れませんが、今日の先生のお話を聞いて、手紙の中の先生のお言葉は、私の中にも尊い自己というものがあるということを示して下さっていたんだと初めて気が付きました。」

私は、この人の一人のために行ったようなもんだ。それで良い。この人ひとりが目覚めて下さったので、私は名古屋へ来た甲斐があったと思う。
「私は先生の手紙のお言葉に接した時に、私という人間の全部を否定されたように思いました。でも、自分の中に真実の世界と呼応する・・・」
うまいこと言うね。呼べば応える。親鸞さまはご承知のように、真実報土ということを言われた。真実世界。太陽も、月も、みんな真実の世界。その真実の世界に生かされて生きている自己。それが本当のわれわれの姿なんだ。その本当の姿に会わせたいというのが、親鸞さまの教えです。だから、その真実の世界と呼応するということが、親鸞さまの言葉を使えば、真実報土に往生するということになるんです。

「その真実の世界と呼応する自己という部分、自分を超えるような部分があるということに、全く気が付きませんでした。これが、私なりの解釈で間違っているかも知れませんが・・・」
間違っていない。こういうことが、わかって欲しかった。

「一応、先生のお手紙の言葉が解釈出来、納得出来たことが嬉しいです。この私の理解が、何処まで私の血や肉になっているかわかりませんが、とにかくこれからも、行ったり来たりを繰り返すことが多いと思いますが、頑張りたいと思います。改めてお礼申し上げます。有難うございました。」

こっちがお礼言わんならん。これで米沢というのは、大したことを言う男でないと、皆さんおわかりでしょう。そういう私のようないたらんものの話を聞いて、わかって下さったということが、私にとって非常に有り難いことです。何故こういうお手紙を紹介するかというと、仏法がわかって下さって、応用問題が解けるようになったということで、ご紹介するのです。応用問題が解けなかったら、仏法を聞いても、何にもならん。

「お手紙有り難うございました。先生が喜んで下さると、私も嬉しくなり、勇気付けられます。有り難うございます。私自身、人生観が変わってきたような気がします。」
そうです。真実の自己に目覚めると、自我で見とった世界と、自己が見る世界とは変わってくるのだ。真実の世界と呼応する、というように、真実が見えてくるわけです。
「今までしてきたように、甘い夢をぶら下げなくても、生きていけそうです。」
大事なことです。みんな、夢をぶら下げて生きとるのだ。この子が大きくなったら、就職したら、結婚したら、というよう夢をぶら下げておる。その夢をぶら下げていると、先ほどの奥さんのように、ご破算になってしまうことがある。

「日常生活の、平凡な営みの中に幸せを感じていけそうです。私は、今まで本当に幸せというものを味わったことがないような気がします。もちろん、時々はありました。本を読んだり、映画を見たり、歌や音楽を聞いて、素晴らしい人にめぐり会ったと思った時、生きていて良かった、これが幸せというものだと思いました。でも、それはいつでも短時間のことでして、そのことが失望につながることが多かったようです。母からいつも、お前は幸せなのに何が不足なのか、と言われました。確かに対外的には、何一つ不幸なことなどありませんでした。高校進学、大学進学、就職とスムーズにきて、友人もあり、良い人にもめぐり会え、皆さんが親切にして下さり、本当に何一つ不幸なことなどありませんでした。気付くということの大きさを、今しみじみ思います。」

このような幸せの中にいても、幸せだと気付かなかったら、何にもならんということだね。信心といっても、気付くだけです。大したことでない。信心は、高売りすべきものではない。ただ気付くだけだ。その気付くきっかけを作ることが、非常に大事なことだと思います。

「この頃の私は、小さな、些細なことに、よく気が付くようになったようです。」
これは感受性が鋭くなったんですよ。
「草木の新芽の緑や、花々の色や姿が胸の中にしみてきます。」
良いねぇ。今は新緑が非常に美しい。それを見ても、それよりどっかに、安いものがないかと、われわれの目は向くのでないだろうか。若葉の色に感激したってそんなもの一文にもならん。安いものを買った方が得だ・・・と。

「中日新聞のともしび欄の文章も、今まで気付かなかったようなところに、心がとまるようなことがあります。本当に感謝です。先生は、自己を育てていかなくてはならないとおっしゃっておいででした。ただ喜んで、感謝して、南無阿弥陀仏して生きたいです。私は現在、小学校の教員をしております。以前の私は、自分の生き方をさがすのに夢中で、教育関係の本よりも、小説とか宗教関係の本などばかり読んでいました。自分の生き方をさがすのに夢中な自分が、エゴイストに思われて、いつでも後ろめたくて、やめた方が良いのではないかと思いました。最近は、先生のお話などをお聞きして、これで良かったのかなぁ、と思ったりします。」

良かったんです。教育関係の本よりも、人間の生き方を求める方が・・・。この方がどうやら生きていけそうですと、手紙を寄こされた時に、私はあなたが初めて先生の資格を得たと言ったんです。教育学部を出れば、日本の政府から教員の資格をくれます。しかし、死にたくなるような人が、これから生きていかんならん子供を教える資格があるか。人間の生命の尊さに目覚めて、初めて人間を育てる資格が得られたと思う。人間が何故生きていかねばならんのか、人生の意義ということ、それを教えることがないから、現在の教育は間違っていると思う。

――『シューズも宝石も世界のもの』に続く




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