何故、仏法を聞くのか
魂の重心→念仏は領収書

米沢英雄先生

初めてお目にかかります。米沢です。えらいご紹介をして下さいましたけれども、私は仏法については素人でございます。
碁には、ダメ押しというものがあるようです。ダメ押しというのは、これは自分の領分だということを、境をはっきりするためにやるらしいですね。仏法を聞いたら仏法のダメ押しをしていくようなもので、私は皆さんがわかっておられる積りのところへ、本当にわかっておるのであろうかとダメを押していく、そういう男でございます。

今まで同朋会に参加されて、かねがね聴聞を重ねておられる方に対して「何故、仏法を聞くのか」と云う、今更こういうことを申し上げるのは失礼でありますけれども、一ぺんダメを押す積りでこういう題を出していただいたわけなんです。

早速ダメを押す必要が出てきました。と、申しますのは、これは昨日三重県から来た手紙です。私に宛てられた手紙をここで読み上げるのは非常に失礼でございますけれども、やっぱりダメ押しということは必要なものだと感じますので、ご紹介いたします。

「拝啓、先生にこんな手紙を差し上げることをお許し下さい。何度かためらったのでありますが、どうしても知りたくて、ご迷惑を省みずお手紙を書きました。幾重にもお許しの程をお願い申し上げます。私事で恐れ入りますが、私は明治42年生まれで、百姓をしていた無学の年寄りでございます。」
明治42年といわれると、私もどうもその年に生まれたようで、同年の方ですね。
「百姓をしていた無学の年寄りでございます。」
この無学ということが非常に有り難いと思うんです。学問の有る人は困る。

「現在、子供や孫達と同居して、無事に毎日を暮らさせてもらっております。病身ではありますが、不自由なこともなく、老妻と共に余生を送っている幸せな生活といえるでありましょう。なおその上のぜいたくと申しますと、いっそうの安心が得たく、先生のご高説を承りたくお手紙申し上げる次第・・・・・。」

ここに、安心を得るということが、ぜいたくと書いてあります。それが問題だと思うんです。安心を得ることがぜいたくなんでしょうか。

福井県に若狭という所があるんですが、その若狭のお寺さんから聞いて、良い話だなぁと思ったことがあるんです。それをご紹介しておきます。そこの漁師の人が言うとったそうですが、時化(しけ)に遇うと船がひっくり返る危険がある。その時に、船の重心というものが一番大事なものだということがわかる。ふだんは船の重心なんて考えずに、魚をたくさん獲ることしか思わん。ところが、いったん時化(しけ)が来て、船が転覆する恐れがある時に、重心がしっかりしておれば、転覆せずにすむ。その時に重心というものが如何に大切かということを痛切に感じる・・・と。それならば、船の重心が何処にあるかと、船の中をさがしてもないですね。
信心というのは、人間の重心ですよ。だからこれが一番肝心かなめのものだ。何処をさがしたってない。身体中さがしたって、重心のある場所はない。ところがね、船でいうと時化ですけれども、われわれが人生の困難に出会った時に、この重心がしっかりしておるかどうかで、苦境を切り抜けることが出来るかどうかが決まる。するとですね、信心ということは、ぜいたくな問題ではないんですよ。私は、これが一番大切なものだと思う。安心ということは信心の一つなんですけれど、この安心というものは簡単に手に入らない。

信心の高売りをした人がおるんです。蓮如と云う人。「国に一人、郡に一人なり」と言った。「そんな、国に一人、郡に一人のものを、自分が得られるはずがない・・・」と。そういうことになると、安心というものは実に高価なものだ。だから私は、蓮如という人はひどい人だと思う。人間にとって一番大切なものを、国に一人、郡に一人だ・・・・と。人間に生まれたものは、皆重心をハッキリしていないと駄目なんだと、私は思う。蓮如さまは、ここに居られんから撲(なぐ)られる心配はない。それで、

「おたずねしたいことは、信とは何かということであります。」(私の『信とは何か』という本を、この方が読まれたんですね) 「先生のご高説は、ご本で何度も読ませて頂き、私ながら一歩一歩と仏道を歩ませて頂いておるのでありますが、頭の悪いのに自我のかたまりのため、なかなか自分の心にドンと落ち着かないのであります。」 これは、鉄砲を一発ぶち込んだ方がよいかもしれん。

「先生から見られたら、何を今更と思われることでありましょうけれども、私には一大事でございますので、お手紙を煩わす次第です。」 誠にもっともです。この方も仏法を聞いてこられたと思うんですけれども、どういう聞き方をしてこられたか。またこの方に仏法を伝えられた方が、どういう伝え方をしてこられたか。こんなことは、余計な詮索ですけれど。

「先生のご本の中に、親鸞の真実信心までたどりつかしめられたのは、自分の自我のためだったと書かれておりますが、その先生が感得された親鸞の真実信心とは何であったのでありましょうか・・・・」
それ書いていないんです。ですから私は香具師(やし)みたいな者だと思うですよ。香具師をご存知でしょう。毎年の別院の報恩講には、昔は香具師がいたんではないですか。薬か何かを売るのが目的で、非常に面白いことを言ってこれから先はこの次、と言って、薬を売りにかかる。そういうのを香具師という。私は香具師みたいなもんだ。その本の中に全部書いたつもりだけれど、わからないようにしているから、私は香具師みたいな者だと思う。

「親鸞の真実信心までたどりつかしめられたのは、自分の自我のためだった」
私は、非常に自我の強いやつで、そこにどう書いたか知らんけれど。私がどういうふうに自我が強かったかと申しますと、人に騙されたくないという思いが強い。皆さんも騙されるのは嫌でしょう。だからたとえば、女の人が「あなたが好きよ」というと、「本当か」と念を押すでしょう。本当に惚れておるかどうかということは、やっぱり確かめずにおれんでしょう。

そのように、騙されたくないという意識が非常に強くて、何でも疑ってかかる。それで、親鸞さまの言われた真実信心までたどりついたんじゃないかと思う。
この方は、自我のかたまりだと、こういうことをおっしゃるが、本当に自我のかたまりだということが、わかっておられるかどうか。自我のかたまりということがわかったら、大したことなんです。誰も自分が、自我のかたまりだと思うておらんのだから。

「こんなことを言えば、『信とは何か』を読んでわからないのか、と言われることと思いますが、無才分の愚鈍な私には、人間として生きて行く道、親鸞が考えられたものの考え方・生き方を、ちょっとずつわからせていただくのでありますが、それが信心ということなのでありましょうか。私の単細胞の頭では、何かの核・・・・・」
核というふうに書いてある。これが問題だ。核兵器の核ですね。

「何かの核があって、その核の存在を信じ、それによる安心を得て生きていくことが、信心というふうに思うのでありますが、端的に申しますれば、鰯(いわし)の頭も信心から≠ニいうのが、信心というのではないでしょうか。」
どうですか、鰯の頭も信心から≠ニ昔から言う。それが本当の信心でないかと言われるんですよ。あれはどうしてあのように言うのか、ご存知ですか。あれは民間信仰ですね。節分の晩に、ひいらぎの枝に鰯の頭を突き刺して門口にかけておくと、災いが来ないという。これは迷信ですね。そこから鰯の頭も信心から≠ニいう言葉が出てくるわけなんです。

そうすると、ひいらぎの枝に鰯の頭を刺して、家の門口にかけておくということは、親鸞さまが言われた罪福心ですね。福は内、鬼は外=Aそういう考え方ですね。これこそ自我のかたまりのことなんです。ご承知のように、「念仏者は無碍の一道」と言われますように、何が来てもそれを引き受けて立つことが出来る。腰が決まる。それこそ重心がきまるというか・・・・それが信心でございます。だから、鰯の頭も信心から≠ニいう信心とは、全然質が異なるものです。

「信心というものは、そういうものでないと言われるのでありましょうか。そこのところがわからないのであります。」 こういうふうに、おっしゃっておられます。このように、鰯の頭を信じなくても、何かそれに類似したものを信心だと思っておられる方が、非常に多いわけである。だから、決してこの方を笑うことは出来ない。

「親鸞聖人の信心は、法蔵菩薩の御請願の十八願・十九願・二十願が核になるのだと、受け取らせて頂いておるのであります。それをそのまま信じて念仏することが、金剛の信心というのでしょうか。それともたくさんの先生方のご高説のように、色々と哲学的な理解の上に立っての親鸞の教えを、もちろんその核になっているのは、弥陀の御誓願であろうと思いますが、それを信じて安心を得るのか。同じようではあるが、私は何か違いがあるように感じられるのであります。先生のご本にも、信心というのは、今生きている有限な存在の私が、永遠の中に、無限の中に、確かに位置を占めているということがわかる。その自覚であると示されておりますが、老人の私共には、あまりにも難しい言葉であり、なかなかに理解出来得ないのであります。八百年の昔、無学の農民に、あの阿弥陀さまの存在、法蔵菩薩の御誓願をどのように説かれたのでありましょうか。『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』のお話をそのまま説かれて、この話を信じて生活せよと、説かれたのでありましょうか。それなら無学の私共にもわかるように思えるのでありますが、もっとも仔細のほどはわかろうはずはありませんが、わかっても分からなくても、それを信ずる。これが私共凡夫の信心のようにも思うのですが、いかがなものでありましょうか。

ものの根源をさぐり、信を追求して、自分の心を納得して初めて、信心が得られるのであろうかと。鰯の頭でも困るし、信心の追求をすればだんだんわからなくなって、迷いの世界をさまようのであります。しかし、信心とは何でありましょうか。」

念仏は領収書

「諸先生のご本も読ませていただきましたが、親鸞のみ教えのことはだんだんわかってきてはおりますが、私の信心のマト(的)が違うのか、親鸞の信心の核のことが、あまり書かれてないように思われるのです。なかには、古田武彦氏の如くは、<南無阿弥陀仏の声は消えるだろう。私はそれをいっぺんも称えはしない。宗教の役割も詮索しないだろう。けれど、親鸞の生きた真実、彼が生きた鍵は、今も未来も私たちの中に生き生きとよみがえり続けるのである>とさえ書かれているのです。南無阿弥陀仏が無くなって親鸞の教えが生きているのでしょうか。私には、あまりにも理解出来ないことなのです。私は、今は幸せな生活をさせていただいております。でも、迷いの中におりますから、南無阿弥陀仏も空念仏だと思います。いつ信心が崩れるかわかりません。どのような信心をしたら、考え方をしたらよいのか、何かのご教授をいただけたら一生の幸いであります。ご多忙中のことであり、ご無理は申しません。私なりに仏の道をたずねたいと思います。どうかご自愛の上、ご布教下さることをお願い申し上げます。」

こういうことが書いてあります。話が無数に分かれておりますので、私もこの方に劣らず頭が悪いので、整理するのに非常に困ったわけです。けれど、この方もやはりダメ押しが必要なんでないかと思って、とりあえず返事を書きました。それは、近頃よくお話に使うんですが「あなたの息は、自分の力で出ていますか。」こういうことを書いたんです。これは実は、以前桑名別院の暁天講座に出た時に、参詣されたおじさんから教わったものです。

そのおじさんは、この年まで仏法を聞いたけれども、少しも分からん。このことを一つ教えてくれという。私は、「おじさんの息は、自分の力で出ていますか」と聞いた。そしたらそのおじさんは、「身体の丈夫なうちは―――(しばらく考えて)―――丈夫なうちは自分の力で出ています」こう言われた。病気でもすれば酸素吸入とか、機械の力を仮なければならんけれども、健康な時は自分の力で出来ると、簡単に考えて、簡単に言うわけなんでしょうね。

それでおじさんに「自分の力で出来るんなら大変だ。吸って吐いて、吸って吐いて、自分の力で息しとったら、夜も寝るひまがないではないか。息がもう既に、自分の力で出来るのではないのだ。それをなさしめているのを絶対他力、或いは仏のはたらき、こう言うのだ。」 仏のはたらきを何か遠いところに考えておるんではないかと思うんです。

われわれの息がすでに、わが力を超えている。それから「おじさんの身体の中には、血液が循環しているんですが、それはあなたの力で循環させているんですか。」何も知らんけれど、血液が勝手に身体の中を回っとる。勝手に回っとるというのは、回らしめているものがあるんだ。それを仏のはたらきという。だから、仏のはたらきを非常に身近に受けている。にもかかわらず、遠い所に仏のはたらきを求めているんではないかと思うんです。

最も身近な所に、仏のはたらきがある。むしろ、仏のはたらきのただ中に、われわれが生かされている。そういうことがわかるのが一番大事なことだ。この方にとっては、これがダメ押しだと思う。

永遠とか今とか、無限とか有限、そういうことを私は確かに本の中に書きました。それはたとえば阿弥陀さん。阿弥陀さんというと、みんな本堂に立っている仏像とか、お内仏に掛けてあるお姿とかを思い浮かべるので、非常に困ると思うんです。親鸞さまは、帰命尽十方無碍光如来という名号を拝んでおられたということです。皆さんはご本尊といって、あのお姿を非常に大切にしておられますけれども、あれがあるために阿弥陀仏を分かりにくくさせてしまったんでないかと、私は思うんです。そこで、またダメ押しをせんならんということですね。

地上に生命というものが現れてから、生物学者によっては20億年ともいうし、また40億年とか45億年というひともある。これは放射線を使って調べる。そうすると生命というのは、恐らく初期はアメーバでしょう。そういうものが地上に現われ、人間にまで発達・進化するのに、40億年かかつておるというんです。
だから私が生まれるのには、40億年の歴史が必要であったということです。気の遠くなるような話です。それが1秒1秒重なって、1分1分が60集まって1時間。頭が悪いから計算できないけれども、とにかく非常に長い時間の経過があって、40億年たってやっと私が生まれることが出来た。

ところが真宗では、40億年というケチなことを言わないで、無量寿と言われる。だから、無量寿の中にわれわれが生きている。一人ひとりが、無量寿の命を生きとるのだ。そうすると、阿弥陀仏というのは自分の外にあるものでなくて、阿弥陀仏の命をわれわれが生きとるのである。

無量光というのは、智慧と言われます。確かに智慧ですが、無量寿を時間的に無限と考えると、無量光というのは、空間的に無限のことではないかとね私はダメ押しをする。空間的に無限というのは、太陽から月から星から、宇宙に存在する一切のものがないと、私が生きておられん。私の命は、宇宙全体とかけ合うほどの命である。無量寿の命を無量光の世界の中に生きとるのが、一人ひとりの私たちである。

こういうことを言うと、お前精神病ではないかと言われるかもしらんけれど、そういう事実を見る目を持たん人に、私は逆襲したいと思う。無量寿の命を、無量光の世界の中に生きている。これくらいの真実はないのだけれども、こういう真実を見ようとしない。

人間の知恵では、目の前のコップに水を入れて飲む、このくらいしか目に入らない。この水は、何処から来ているか。水道からか。水道の水源地は知らないけれど、大地に降った雨と関係がある。とにかく、宇宙に存在する一切のものが無いとしたら、われわれが生きられんということは、真実すぎるほどの真実だと思うんです。その真実の中に生かされている。こういうことが南無阿弥陀仏であるということを、この方に申したんです。

「南無」というのは、頭が下がること。そして、無量寿の命を生きとる。人生50年、まぁ命が長くなったといって70年とかいいますけれど、そんなケチくさい話ではない。40億年の命を生きとるんだ。だから、阿弥陀仏が決して私の外にあるのでなくして、阿弥陀仏の命をわれわれが生きている。これは誇大妄想狂のようですが、あんまり真実すぎて、われわれが信じられんくらい真実です。そして、そういうことがわかつたということが、無限の中に確かに位置を占めたということだ。

私も明治42年生まれで69歳ですが、――やがてこの地上からおさらばしていくでしょうけれども――私の命は無量寿であることが言える。永遠の中に確かに位置を占めているということがわかる。その自覚を南無阿弥陀仏という。その阿弥陀仏の命を生きていく私でありたい。でもその中で朝から晩までジタバタしている。そして、ジタバタしておる私であったと、私の本当の姿を受け取ったという領収書が、南無阿弥陀仏である。

みんなご馳走を食べると、ごちそうさまと言うでしょう。そのように、「無量寿の命を無量光の世界の中に生かされて生きている私でありました。それを忘れておりました。誠に申し訳ないというのが、南無阿弥陀仏だ」こう私は思うのです。それを蓮如という人は、仏恩報謝の念仏といわれた。 この方(三重県の手紙の主)の南無阿弥陀仏は、恐らく今まで空念仏であるということは間違いない。われわれは宇宙中のはたらきによって生かされている。私も北海道まで汽車の力を借りて――今は電車ですかね――あの力を借りました。人間の知恵で生み出し、組み立てたんでしょうけれども、材料は大昔からあったものを使って作り上げたんです。

われわれのどんな一挙手一投足でも、全宇宙と密接な関係があるということです。そういう自分というものの尊さがわかったのを南無阿弥陀仏というのであろうと思うんです。そうすると南無阿弥陀仏が生きてくるんじゃないか。南無阿弥陀仏に命を吹き込むかどうかということは、私の本当の姿がわかるかどうかにかかっておるのである。

それで、昨日この方の手紙が着いたんですけれども、今日お話するのに非常に良い材料をいただいた。この方には大変失礼でありますけれども、こういうことをきっかけとして、本当の仏法がわかっていただけたら結構だと思うんです。

『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』とか、そんな難しいことをわからんでも良いのだ。自分の命が無量寿の命を生きている。無量光の世界の中に生きている。その自分の命の尊さに目覚めていただくことが一番大事なんでないか。そうすると念仏が生きてくる。その生きた南無阿弥陀仏を称えなければならんのでないかと思う。

身体は本来無量寿、無量光の中に在るのだ。それに宿っとる心が、それをなめとるのだ。それを馬鹿にしているのだ。自分の知恵才覚でわかろうとしているでしょう。そんなちっぽけな知恵才覚で宇宙中がわかるもんですかね。せいぜいが、目の前のコップが見えるくらいのものだ。

―『人生は何だったか』に続く




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