真実教の意義
法蔵菩薩の物語米沢英雄先生
お釈迦様の顔が光り輝いたということは非常に貴い。その光は智慧のことで、それがお釈迦様の悟りの内容であるが、その悟りの内容を少しも損なわずに阿難に伝えることが出来る。また智慧のままで伝えるのではなしに、法蔵比丘が阿弥陀仏になられる物語を通じて、お釈迦様の悟りの内容であるところの智慧を、少しも損なわずして移すことが出来る。一器の水を一器に移す(一器水瀉一器)ことが出来る。
そのような悟りの内容を凡夫の阿難に伝えるために、その物語を語り聞かせると、阿難はその物語を聞くことによって、法蔵比丘を自分の中に見出し、自分が阿弥陀仏にされていく。そういうことが記載されて大無量寿経となったのであると私は思うわけであります。
諸仏というのがあります。たとえば、薬師如来とかも釈迦牟尼如来とか、観音とか大日とか、色々仏の名があります。その一々の名があるということは、名に意義があるので、何を語るかというと、徳を表わすのであります。その徳が大事なので、名よりも先に仏の徳が問題なのであります。即ち、名を通じて、仏の徳が私の方に移ってくるということが大事なのであります。
仏に名のあるのは、こういう意味で私に徳をもってくるためであると思う。観世音菩薩という名ですが、それは世音を聞くという徳を表している名であります。世の中の一切の事件の中から世音を聞き、真理を感じ取る徳で、私が観世音菩薩の名を称えるというと、その徳が私に移ってくる。つまり名を称えるということで、仏がこちらに移ってくるということであります。そうでなければ名を称えるということは意義のないことだと思います。
浄土真宗の称名ということは、阿弥陀仏の徳がこちらに移ってくるように仕組まれてあるのが、その名のいわれであると思います。南無阿弥陀仏というのを、宗祖は帰命尽十方無碍光如来とお書きになりました。そして拝んでおられたのでありますけれども、これは帰命尽十方無碍ということで、どちらに行っても障りないという、そういう徳が自分に移ってくると、自分は何処にいても障りのない人間にならしめられる。
人間というものは、障りがあって困るものであり、何処へ行っても行き当たってばかりいる。障りがあることで悩み、障りで苦しむし、自殺までするのが人間でありますから、障りの無い人間にせしめられるということが非常に大切なので、それで尽十方無碍に帰命するというのであります。「善も欲しがらず、悪も恐れなし」という、そういう人間になることが大切なことなのであります。どうしたらそういう人間になることが出来るかという、そういう内容をもった、また力をもったものが名号というもので、それで名号を称えることによって、障りのない人間にさせてもらうというところに名号の大切ないわれがあるのであります。
南無妙法蓮華経と唱えることを唱題といわれておりますが、それに対して、南無阿弥陀仏は称名といわれています。南無妙法蓮華経と唱えるということは、法華経のもっている真理に随うという意味で、そういわれるのでありましょう。真理は大経も法華経も同じでありましょうけれども、その真理に随うということでなくして、その真理と自分といかにして一つになるかという、その方法を確立したのが南無阿弥陀仏という名号である。
つまり法蔵比丘が阿弥陀仏になられたというのは、真実と一つになって阿弥陀仏になられたので、法蔵比丘が真実と一つになられたその方法に、私共があとに続いて、真似していくことによって、真実と一つになっていく、真実と一つになれば何処へ行っても、障りなくいかれる。
その徳が名に具わっているのであって、そのために名を称えるのですから真実の経の題目を唱えるという南無妙法蓮華経と、真実と一つになった人から、どうしたら真実と一つになれるかという方法を教えられて称える称名とは、全然違うと思います。
別に唱題と称名との優劣を言うわけではなくて、真実には変わりはありませんが、真実、真実といくら言ってみたからといって、真実と一つにならなければ何もならぬのであって、真実といかにして一つになれるかという、そのなられた方法がはっきりするということが大切だと思います。そういうところに称名という意味があると思います。
諸仏というのはたくさんある。阿弥陀仏も諸仏の一人。そして阿弥陀仏の徳が名になっていると思います。それで阿弥陀仏の名がどういうふうにして出来てきたかという、もとをたずねるというと、真実と一つになれるのであると、阿弥陀仏が真実と一つになろうと苦労された仏であるから、阿弥陀仏の名が力になってくるのであると思います。なかなかうまく言われませんが、そこで、法蔵比丘が阿弥陀仏になられる物語が説き出されたのであると思います。
法蔵比丘の物語というのは、どういうことかというと、昔、法蔵比丘と云う人があって、その人が願を起した。自分が仏となると同時に、一切衆生を救いたいという願を起されました。これを総願といって、仏教全体に通ずる仏の願であります。自分が仏になるということは、仏になる智慧を自分がもらうことでありまして、その智慧をいただいたら、それを自分にもらっただけでなく、全部の人を仏にするという、その智慧と慈悲とを一身に具えるという願を起す。そういうのを総願というのでありまして、その願はどの経典にも全部のっているのであります。
法華経の中にも本願はある。しかしそれの実現の方法は書いてありません。その実現の方法を問題にされているのが、大無量寿経であろうと思われます。ただ願だけではなく、法蔵比丘はその実現の方法を目指されて、今日でもよくあることですが、五十三仏という先輩の方々を訪ねられて、その方法を聞かれたのである。何人も訪ねられたということは、真実と一つになる道を、確実に伝えて下さる方がなかなか見つからない。
それは今日、私どもが色々聞き歩いても、なかなかその完全な方法に出会わないのと同じであります。学説はたくさんある。カントだの、ヘーゲルだの、マルクスというように、しかし実際やってみて実現しておるかのように見せかけるものもあるが、真に納得出来る道がなかなか見付からない。ある程度はわかるが、なかなか真実と一つになれぬ。そうして五十三人を次々と訪ねて、ついに、世自在王仏に会われたのであります。
世自在王仏という仏が問題なのでありますが、そういう人が実際おられたかというと、そういう名が問題でありまして、その言葉の意味は、世の中のことは自在であるというのであります。誠にそれこそ、人間にとって大切な理想であり、そういう徳をもって暮らしたいものであります。しかし、この世自在王仏に比丘がお目にかかったら、こういうふうにしたら自在になれるとその方法を教えられたかというと、そのように教えられなかったということが、私、非常に面白いと思うのです。
こうしたら実現するというのでなしに、「汝自ら当に知るべし」、お前自身で知れと言われたのであります。それはあまりに人を突き放すような言葉で、五十三仏中そういうことを言った仏はなかった。汝を自由自在ならしめようと言われて、それならば自由になる道を教えられたかというと、お前自身で知れと言われたところに、非常に深い意味があると思う。
汝自ら当に知るべしということは、「お前自身で悟れ」といわれたことでもあるでしょうし、また「汝自身を知れ」ということでもあると思う。今まで法蔵比丘と云う人は、自分が仏になることに、自分以外の他人を頼りにしているという気持があったのではないかと思う。仏があって、それを聞いたら仏になれるという気持があった。ところがそういう格好の人があれば甚だよいが、無ければ困るのである。比丘はそういう人を頼りにして遍歴しておったが、世自在王仏に会って、「汝当に知るべし」と言われて、自分の能力を振り返らねばならなくなったのだと思います。その時に自分自身の能力を考えるということになった。
それまでは自分の頭でもって自分というものを考えていた。自分の頭で理解すれば、その通り何でも実現出来ると思うていた。仏になりうると思うていました。マルクスの頭で社会主義を考えて、理想社会が出来るかというと、相当多くの人を殺さねば実現できないし、スターリンの政権のように犠牲を払わなければならぬ。法蔵の理想は一人の犠牲もなく全部の人が救われるという、そういう道を求められたのである。
世自在王仏はお前自身で知れと言われたので、自分自身にその能力があるかどうかということを世自在王仏を前にして、初めて明らかにすることを得たのであります。それまでは自分というものについて、何も考えていなかったのでないかと思う。
お前自身を知れと言われて、それまでは頭だけが前に出ていた。そしてそういうことの能力が、自分の中にあるのだと自惚れて、自分自身を振り返るということを、全然考えていなかったのであろうと思います。世自在王仏という方は本当に存在したかというと、「汝自身を知れ」というそのこと一言をこの世にのこすために存在されたと言ってもよい。比丘は世自在王仏の前に立って、その言葉のもとに、自分の全身の全能力を暴露されたのであります。
自分の力で何が実行出きるか、あにはからんや自分の体は借金の体で自分の力の及ばぬ命の上に立って、いろんなものを造り上げていくので、自分の体はもはや自分のものでない。みな偉そうにしているけれども、借金しながら、他人におごっているようなものである。そしてみな自分でやってきているような顔をしているにすぎない。
自分の自由になるものでない。その上に立って自分自身を主張しているのである。そういう自分の奥底の二重構造の底に、光があてられた言葉が、「汝自当知」の御言葉であると思います。こういうのを仏の智慧と申しますので、世自在王仏によって、汝自ら知れという言葉で「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」ということが知られたのであると思う。
それで、その呼びかけというのは非常に不親切なようであって、最も親切な言葉でないかと思う。汝自当知という世自在王仏の言葉の下に、比丘は罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫、誠にお恥ずかしい存在でございますと、言い返されたのであろうと思われます。その時に比丘は、思わず両手が合わされていたのであると思うわけであります。
―『南無阿弥陀仏の意義』に続く