真実教の意義
凡夫の代表として

米沢英雄先生

人間は顔を見れば、今日は機嫌がよいか悪いかはすぐわかるように、阿難はその顔を見て、いつもと違うとそういうようにお釈迦様のお心を察することが出来た。そこに一つの問題がある。そこで誰かにその問いをそそのかされて、入れ知恵されて問うたのかと問い返されると、「そうではありません。私自身、そういうことを直感した」と答えて、再びお尋ねするのであります。

私、ここのところが非常に大事なところと思うわけであります。舎利弗(しゃりほつ)とか目蓮 (もくれん)とかにそそのかされたのでなしに、自分の感じで問うのだというのである。お釈迦様にとっては、入れ知恵か阿難自身の問いかが問題なのである。阿難は記憶力は強いが、お釈迦様のお説きになることを悟ることが出来ない。もしこの阿難が悟ることが出来たら、阿難は思考力の乏しい凡夫の代表であり、毎日朝から晩まで忙しく暮らし、法を静かに聞くということの出来ないそういう立場の人間、生活者の代表者の人間であって、それがお釈迦様のお説きになる悟りの内容を聞いて、疑いが晴れましたということが出来れば、この法は、人間のすべての者が救われるということの確証を獲られたことになると思うわけであります。その時のお釈迦様の心の中に宿ったものは、法蔵比丘が阿弥陀仏になられるという物語であります。

その物語を説いて、念仏の法を伝えたならば、阿難は悟ることが出来るであろう。阿難さえ悟ることが出来たら、日常生活に忙しくしている人間の全部が、お釈迦様の悟りの内容を、本願の念仏をもって悟ることが出来るという確信のまず試験台が阿難であり、それは、阿難がお顔に驚きを立てた時に、「これは見込みがある」ということで、お釈迦様がよろこばれたのだと私は思うのであります。そこでお釈迦様が説き出されたのが、法蔵比丘が阿弥陀仏になられる本願念仏の物語であります。

その物語に感動して、阿難は悟りを開かれた。阿難がその本願の念仏をいただいて、悟りを開かれたということは、阿難と同じ立場にあるそういう者が全部救われるという。阿難が救われるということは、凡夫のすべてが本願の念仏によって救われるということで、それを実証されたのがこの法蔵の物語であって、大経の一番始めにお釈迦様の顔が輝いていて、それに対して阿難が問いを発してこの物語になったのであります。

親鸞聖人もこれを非常に重要視されて、そこをそっくり『教行信証』教巻にお引きになって、その上、『浄土和讃』に讃歌しておられるほどである。阿難が救われるということで、全人類が救われることになったことを証明しているのが大経であると思います。

その説かれている真理は、法華経とちっとも変わりはないと思います。「仏知見」と申しまして、仏の考えの内容と申しますか、悟りの内容と申しますか、法華経では面倒な哲学的表現で説かれていますけれども、法蔵比丘が念仏して阿弥陀仏になられる、そういう物語を聞くことによって、私が念仏申す身になる。法華経に説かれている真理が自分のものになるように仕組まれている。

この阿弥陀仏の物語を仕組まれるまでには、お釈迦様には非常なご苦労があったかと思います。何とかして阿難に悟りを開かせたい、彼がいつも身の回りの世話をしていて日常生活に追われているすがたを思えば、ひとしお哀れで、何とかして、阿難をして悟らしめたい、分からせたいものであるというので、お釈迦様は日夜心を悩ませておられたのだと思われます。

それが法蔵比丘が阿弥陀仏になられる物語を説かれることによって、たちどころに阿難は悟りを開くことが出来るという確信のもとに、そのお顔が光り輝き、阿難の問いをよろこばれたのであろうと思われるのであります。

―『法蔵菩薩の物語』に続く ―『凡夫の代表として』に続く

―『大経の序文』に続く




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