真実教の意義
大経(大無量寿経)の序文米沢英雄先生
阿弥陀仏の本願の念仏というのは大無量寿経の中に説かれていますのですが、大無量寿経は非常に特色を持ったお経だと思うのであります。私、面倒なことはよくわからぬのでありますけれども、大経をお釈迦様が果たしてお説きになったかどうか、そういうことが非常に問題になったのでありますが、大乗経典の根底をなしている考え方、それはお釈迦様がお悟りになった四諦・十二因縁というような考え方がもとになっていることは間違いないのであるが、お釈迦様がその通りにお説きになったと考えられなくても、お釈迦様の中心思想の上に立って、大経というものも出来たのであろうと思います。
大無量寿経が非常に特色があると申しますのは、それが人間の経典である。そうすると、法華経でも人間の経典には違いございませんが、人間的な環境において説かれたというところが違うと思います。それはどういうことかと申しますと、法華経は、釈尊が今まで四十余年間説法してこられたけれども、未だ真実というものを説かない。今、初めて真実というものを説くというふうにして、説き出されたのが法華経ということになっておりますので、それで法華経を尊ばれる方は真実経は法華経であるし、あとの経は真実に導いていくところの方便の教えであるというふうに言うておられます。
ところが法華経と大経(大無量寿経)とはお経の始まる序幕というものが違いますので、その違いが経典そのものの性格を語っていると、私、非常に興味を持っておるわけでございます。それは、法華経が説かれる前に天地が六種に震動した(六種震動:仏の入胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅のそれぞれのとき、大地が感応し震動して現した六種の相。動・起・湧(ゆう)・震・吼(く)・撃の六つ。六震。)と言われ、天から花びらが散ってくるといった奇瑞(きずい;めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)が現われるということになっております。
それに対して大経は、阿難がある朝お釈迦様の顔を見られて、お釈迦様のお顔が光り輝いておったことに驚きを立てたというところから出発している。即ち、その序幕が非常に違っていると思うのであります。法華経でありますと、今申し上げましたように、天地が六種震動して天から花びらが降る。すると、皆がその奇蹟に対して呆然とする。
昨日地震がございましたが、皆が驚きましたけれども、六種震動して花がにわかにおちてきてみなが驚いて、中で一番物知りのお弟子に質問するわけであります。文殊菩薩が質問に答えるのですが、今から何百年前に仏が法華経を説かれた時に天地が震動した。また昔のこと仏が現れて法華経を説かれた時に天地が震動して花が落ちてきた。またその昔何とかいう仏が現れて法華経を説かれた時に、六種震動して花が落ちてきた。今お釈迦様が法華経を説かれるに違いないと、こうして始まるのが法華経の序文なのであります。
それが大無量寿経では、お釈迦様の顔が光り輝いたというところから始まっている。つまり悟りをひらいた方に悟らぬ人が聞くという形で、そこには何等の奇蹟が無い。阿難と申す弟子は、朝から晩まで、お釈迦様の身の回りをお世話しておられた、いわゆる常随昵近(じっこん)のボーイのような生活をしていたのであります。
ところが阿難は非常に記憶力が強かった反面、判断や思考力に欠けて女性的であったとみえて、お釈迦様の精神がなかなか分からぬ。真実の世界にどうして目を開くか、どうしたならば真実の世界と自分が一つに会えるかという、そういう根本問題についてなかなか通じない。お釈迦様は真実の世界に眼を開かせたい、伝えたいと思われる。こういうところにお釈迦様の大慈悲心というものがあるものと思われる。大経というものは、こうして、お釈迦様の大慈悲心というものから出発したものであろうと思われる。
ところがある朝、阿難がお給仕していると、その日のお顔が光り輝いておることに驚いたのであります。そこで「今日は特別に違って、その光り輝いているお顔を拝して驚きました。それはどうしてですか」とお尋ねします。そこでお釈迦様は非常にその問いを喜ばれたのであります。
何故喜ばれたかというと、お釈迦様の顔がいつもと違うと阿難が感じ取った。阿難の心の中にその光り輝くお顔を見て感ずるものがあって、今までは、どんなことを言っても感ずることの出来なかった阿難に、その光り輝くお顔を見て感ずる心が目覚めてきたということを見抜かれたのであろうと思う。
―『凡夫の代表として』に続く
―『大経の序文』に続く