真実教の意義
超越的無意識

米沢英雄先生

それで罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫という呼びかけによって大脳皮質や大脳辺縁系の意識、無意識の働きが抽象しているものに過ぎないと気付かしめられる時に、初めて真実というものに触れることが出来るのでないか。

我々は“はからい”と煩悩だけで生きているものであるから、真実というものは絶対に見ることは出来ない。人間はそういう構造をもっているのでないかと思います。人間というものはそういう二重構造になっているのでないかと思われる。

二重構造と云うのは、身体というものは真実で、その中に一部の肉体をもって人間と考えている。肉体と大脳皮質だけで人間と考えているが、実は肉体は人間が作ったものであって、本当は身体全体が真実の存在である。その身体に、外に対応する真実の世界が、浄土と言われるのである。そして、身体と浄土を感覚するものが魂と申すものであろうと思うわけであります。仏法でアラヤシキと申されるもので、私はその点、学問がありませんから何とも言われませんが、とにかく身体が全体である。我々の全体が世界の全体と対応している。その中から、肉体を引っ張り出して考えておる。大脳皮質があってそれで社会を考え、本能でもって生物の世界を見ているけれども、それは全体の中から我々の煩悩・はからいで抽出したもので、真実ではない。抽出したものは娑婆というもので、それを世界と思っている。そういうわけで世界も二重になっている。解釈せられている世界と、解釈する私と二重になっている。そこに迷いというものがあると思う。

悟りというものは、迷いの他に別にあるものでないので、真実の世界に我々は全体をもって生きておりながら、私の中の大脳皮質は外に社会をつくり、肉体は、外に生物的世界を認めているのであります。そういうふうに真実の中から抽出して、自家製の世界を作り上げておったということが、間違いであったということに気付くことが、悟りというのであって、では気付かれるというと、真実の世界と一つになるかといえば、南無を離れるとすぐにはからいが働いて二つになってしまう。

即ち、真実の世界に生きておりながら、真実の世界を材料にして、煩悩・はからいの虚構した世界を造りあげておる。そういう世界は自分が抽出しているのであって、それは、何処かで行き詰まりがくるのである。行き詰るというと、自分の間違いを他の間違いであると考える。それを罪悪深重というのである。罪悪深重というと私が間違ったと思わず、世界が間違ったと思うほど、自分というものに確信をもっているので、これを自力の信というのである。「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」という呼びかけは、私の見ている世界は虚構した世界であるということを教える。

しかし教えられても先ほど申し上げたように、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫というようなことは、それは言葉でありますから力をもって我々に容易に響いてこない。それが我々に響いてくるのには、私どもが相当行き詰った時に、初めて大きな力を持って私に呼びかけてくるのでないかと思う。

言葉は昔から変わらぬのであるけれども、その力が私に響いてくるかどうかということは、実に私のおかれている場所によるのでないか。私が行き詰る以外にそういうことはないのでないか。或いは行き詰らぬ前にそういう言葉が聞こえるとしたら、今申した意識の分析ですけれども、なるほど自分は今まで人間であると自認していたけれども、人間というものを勝手に決め込んでおっただけであって、自分の正体というものが、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫ということがはっきり気付かれた時に、お恥ずかしい存在であると頭が下がる。

真実の世界に生かせてもらっておりながら、完全な身体を持って生きながら、そこで肉体と大脳皮質でもって、外なる世界を抽出して勝手に自分を作っておったと、煩悩に覆われていた自分自身に気付くことが出来た時に、初めてその言葉が大きな力をもって響いてくるのでないか。そこにおいて、私というものに懺悔の心が起きてくるのでないか。そこに真実と私とを結びつけるのでないか。

これは私の理解とか知識がするのではなく、また私の肉体が結びつけるのでなくて、私の身体全体をあげて真実に結びつくのではないか。そういうのが信心というものでないか。信心というのは信ずる心のようであるけれども、全身をあげて信ずるということであって、真実と一つになる心でないかと思います。

真実と一つとなったら、それなら、一つになり通しかというと、そこは人間の二重構造で、人間は、はからい・煩悩というものをもっているので、それは止むことがない。虚構の世界を、またかぎりなく作り上げていくのである。

真実に気付かせてもらっても、その後の生活はやはり同じく迷いを生むが、しかし、それは前と違って、迷いを起していると気付くことが出来る。そして、迷いを転じて、悟りにしていくことが出来る。そういう力は自分の中から出てこないのであって、確かに自分を通じて出てきたのであるけれども、自分を超えた力が自分に働いて、そういう転換を成就せしめていくのでなかろうかと思われる。

非常に面倒なのでうまく表せられませんけれども、真実の浄土に対応するものは、私の一番奥底にあるものである。そういうものが目覚めた時に、身心をあげて真実と一つになれるのでないかと思う。肉体がなくなりますというと、煩悩とかはからいの根元がなくなりますので、真実と一つになれるということは間違いございませんけれども、生きている今、真実の中に生きていながら、真実に背いている自分であると、こういうことに気付くことによって、真実に帰らしめられる。その真実に帰らしめられるところに、安穏というものが恵まれてくるのでないかと思われるのであります。

我々に安穏が恵まれてきた時に、初めて「福は内、鬼は外」でなく、福も鬼も、真実と一つになるという心が与えられると、自分の力では受けられないものが、それを受け取っていかれるようになるのでないか。暑からず寒からずというような、ボンヤリと、よどんだような世界を彼岸とか涅槃というのでなく、ひどく暑くても、ひどく寒くとも、生き生きとしていく、そういう生活が浄土に生まれたというものでないかと思う。

浄土の生活というものは眠ったような生活ではなくて、色々な刺激を受けて、悲しい時にも楽しい時にも、いつも心の感覚を生き生きさせて生かされる、そういう生活が浄土の生活で、それが死んでからでなく、生きている今、念仏によって与えられるのでないかと思うわけであります。

―『大経の序文』に続く




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