真実教の意義
魂の呼びかけ米沢英雄先生
そうしますと、そういうことになってきたもとを調べてみなければなりませんが、その原因が実はこの科学を信頼して、はからいを尊重してきた意識にもとがあるのでありまして、そして、それに執着してきたところに、人間がだんだん不幸な方向に追いやられなければならない結果に、陥っていったのです。
そのはからいに執着しているのを、仏教では罪悪深重(ざいあくじんじゅう)というのでありまして、まさに現代人はその言葉をそのまま受けとらなければならぬのではないかと思われるのであります。昔の人は実はこの言葉を、我が身にかけて受け取られなかったかも知れぬと思うのでございます。昔の人はそういう“はからい”の意識は少なくて、むしろ自然と一如に近い生活をしていたので、現代人のように、そういう「罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」と呼びかけてもなかなかピンとこなかったのでないかと思われます。
現代人こそ罪悪深重と呼びかける呼びかけにこたえられなければならぬように、この時代が立ち至っているのでないかと思うわけであります。分別がますます精緻となり衝動的になっていく現代は、こういう呼びかけにこたえなければならぬということの、前知らせといってもよいと思います。そう致しますと、南無阿弥陀仏の教えは遠い昔の話ではなくて、むしろ現代、将来に向かって現れてくる教えではないかと思われるのであります。
今までは「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」というのはただ説教の形式にすぎなかったかもしれないが、真に実感として阿弥陀仏の呼びかけというものを聞かねばならぬ者は、現代人とこれから生まれて来る者ではないかと思う。それで浄土教というものは、これからいよいよ明らかになっていくものでないか。まさに浄土教の夜明けになりつつあるのでないか。
それは遠い昔から聞かれている教えであるけれども、昔の人はあまり痛切に感じなかった。これからこそ、その必要性を感じていく教えでないかと思う。罪悪深重というのは我々の意識に向かって呼びかけられることであり、煩悩熾盛というのは、無意識の本能に向かって呼びかけられていることである。
我々は、はからい、分別の心と本能さえあれば、人間の生活は完全であると思うているのであるが、それが愚の骨頂であって、それを指し示して、それを超えて安穏な世界ありということを教えられる言葉が、「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」という呼びかけであって、その呼びかけによって自分自身のすがたというものを明らかにせられた時に初めて、何かそのまま摂取されている世界が我々の前に展開してくる。そういう展開を我々自身に与えようとする。親切な心遣いの言葉が、「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」という呼びかけでないかと思う。
この呼びかけの言葉は、阿弥陀仏の本願から出たもので、本願が背景となって、本願が結晶したものが、この南無阿弥陀仏という言葉でありまして、その言葉は呼びかけを受け取った人の言葉でないかと思う。罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫というのは私を超えた呼びかけで、私を超えた呼びかけとは何処から来たかというと、それは外から来たようであるけれども、私の一番奥の内面から聞こえてくるのでありまして、内面というのは先ほどから申しています、はからいの意識と本能の無意識とだけで人間は出来上がっていると思っていますが、その二つの意識のもう一つ底に、質の違ったところから、これをオーストリーの精神分析学者のフランクルという人は、超越的無意識と申しましたが、そこから来た呼びかけであります。その超越的無意識というのは私の中にあって、私を超えている。昔の人は魂と申しましたが、その魂からの叫びではないかと思うわけであります。
私どもの意識は、前にも申しましたが、意識と無意識との構成であると思っていますが、このように更に超越的無意識というものを持っておるのであります。それでわれわれは世界というものを、その意識にそれぞれに対応して生み出しておるのでないかと思うわけであります。人間は生物的世界、或いは人間社会の中に生きている。本能の無意識に対応するものが生物的世界であり、我々は外に食える動物・食える植物を探し、また性本能に対応して異性を見ております。社会というのは、分別意識に対応する関係といえる。
ところが我々は、もう一つの世界を持っているのであります。生物的世界とか社会は、本当の世界を抽象し、分別し、我執我欲で捉まえた世界でないかと思う。馬とか、牛とか、食べられる植物とか、社会も人間が生活するために抽象してきたものでないかと思う。
参考:【抽象化(ちゅうしょうか)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法である。】
それが証拠に、自民党と社会党(今では民主党)とか云うのは、同じ一つの世界に生きながら、各々見方が違うのは、各々のイデオロギーによって、世界を抽象してきているために起こっているのでないか。そして、人間というものは、その抽象しているものをいつの間にか本当のものだと誤認するようになる。
ところが超越的無意識というのは、これこそ、真実の認識ではないかと思う。真実は浄土と言われるもので、外に浄土を認めるものは内に真実の魂を持つ。真実は、真に具体的に存在するものであって、外側に真実世界に対応するものが、身体というものでないかと思う。それに対し、生物の世界、無意識に対応するものは、肉体というものでないか。肉体と身体というものは、違っている。身体は全体であるが、肉体というのは、胃袋と生殖器で出来ているのでないか。肉体というのは、我々の身体から抽象したものであろうと思う。真に具体的なものは身体であると思う。そして身体に対応しているものが浄土と言われるものであろうと思う。浄土は死んでから行く世界でない。常にある世界、その中に我々の全体が生かされているのである。
私の全体の中から胃袋と生殖器を抽象して、我々は肉体と考えておる。肉体というのは考えられたものであって、真に具体的なものでない。そういうように言えるのでないかと思う。肉体というものは、時々現れるものである。身体というものは常に存在している。寝れば寝たままあるのである。ところが肉体というものは、時々、目が覚めている間、お腹が減った時に胃袋を感ずるというふうに、自分の要求によって現れてくるものが肉体というものであって、それで肉体は身体の中に入っているけれども、身体というものは肉体を包んでいる全体である。
その全体の中から、自分の煩悩の要求で肉体だけ引っ張り出して、人間は逆に肉体を自分だと思つているのでないか。生物的世界とか人間社会は本当の世界から抽出したものであって、これが一つの迷いというものであり、迷いの中に生きているということは、具体的な真実を抽象してそれを真実だと思っていることであって、その抽象するはたらきを指して、罪悪深重というのであると思われる。
―『超越的無意識』に続く