真実教の意義
救いとは

米沢英雄先生

それから救いということには、非常に誤解があって、救いというものは、一般に、現在の私のある状態よりもよい状態というか、一段高い状態に移っていくことを救いというふうに考えておる。何か宗教というものがあるならば、よりよい状態にもっていってくれたら、その教えは効果があると、こういうふうに考えておるのであります。

そうすると真実の教えというものは、今私がある、このあるがままの私というものが明らかになって、あるがままの私に満足することが出来るというのが、それが浄土真宗の救いというものであると思います。今ある状態から、浄土というよそのところへ行くのではなくて、また現在ある状態よりもより高い状態へ移っていくというのでなくて、このままの状態で満足であるという、そういう自分自身の位置・場所を明らかにするために、浄土というものが必要なのであって、今から浄土へ引っ越すのではあるまい。

往生と云う言葉もございますけれども、それは浄土が明らかになって、初めて、人間が生きている喜びの感覚が生まれてくることであります。それ以外の喜びを自分以外に求めているのが、普通の人の日常生活と思います。ところが浄土は、今の自分の立場を明らかにするために必要なのであって、それが明らかになると、浄土こそ真実に存在する。そして浄土と自分が一つになる。それが理屈で分かるのでなしに、体全体で感覚するという、それが浄土真宗の救いであろうと思うわけであります。

そして私達に真実の浄土、真実の私を感得せしめるのが名号。名号というものを成り立たしめていると申しますか、名号というものが出てきたもとというか、そういうものを阿弥陀仏の本願というのでないかと思われるわけであります。

阿弥陀の名号を称えるということが、どうして人間を救うかというのは、浄土真宗の救いというものがどういうものであるかということが明らかにならぬというと、そういうこともはっきりせぬのでないか。皆は救いというものは、どういうものかという予定概念をもっています。今現在苦しんでいるというと、その現在よりもよりよい状態に行くことを救いというて、そういうことを心から求めるのであるが、求めた通り果たして実現するかどうか。聞法している内に、そういうことが真実の救いではなくて、本当の救いというのは自分の今ある状態に満足するということであって、そこに落在せしめられる、というのが浄土真宗の念仏の救いでないかと思われます。

この間、お彼岸の日に、京都知恩院の方のお話がラジオでありましたが、その中に、彼岸というのは到彼岸ということで、彼の岸とは仏の国である。仏の国というのは、丁度気候で表せば、暑からず寒からずという気候で、それが彼岸の時季に相当するので、その仏の国を思う。彼岸にそういう心持ちを起させるという解説がありました。なるほどうまく言われるものだなと思いました。しかしここには大きな誤解があると思いました。

彼岸というのは暑からず寒からずの国と言われましたが、もしそういうよい国がありましたら、人間はみなボケてしまうと思います。それは理想として、いつもそういうところにおれたらなと思いますが、もしそういう国が事実あって、その中に生きられたとしたら、みなボケてしまうに違いないと思う。それは、もはや人間とも言われないものになるかも知れません。暑からず寒からずの国という意味は、暑い寒いという両極端の世界があっても、その何れをも丁度同じように受けていかれる。暑い日も寒い日も平等に受けていかれる。悲しいことも楽しいことも両方とも、平等に受けていかれる。信心がこちらに出来ますというと、受けていかれると言うことであります。

しかし、それは人間の力では、到底出来ないのでありまして、人間が彼岸、仏の国というものを教えられて、仏の国に住む心が実現するというと、此岸にいてその何れをも平等に受けていかれるのであります。此の岸にいてということが大慈である。そういう精神が我々の上に実現することが、到彼岸という意味だと思われます。

皆は寒いことも暑いことも無いことを要求します。嬉しいことばかり、よろこびばかりで、不幸なことや悲しいことが無くなるようにというのが、人間の偽らぬ心であります。それが人間の正直な心でありましょうけれども、鬼が来ても福の神が来ても、どちらも平等に受けていかれる心が、自分のうちの生まれてくるということがあれば、それを成仏したというのであって、その心が安穏であるということである。安穏というのは、地震も大風もなくまた大雪も降らぬというのではなくて、どういうことがあっても、たとえ普通の人間では受け止めることの出来ないことでも、平静にとまではいかなくても、ジタバタせずに、それを何とか受け取って、そこから立ち上がっていくことが出来る、「福はうち、鬼は外」ではなく、その何れが来ても、両方とも受けていかれる心が出来たことを、それを成仏したというのでないかと思う。
そうなるのには人間からはそういう力が出てこないので、何か仏力というもの、人間を超えた力をこうむらなければ、それが成就しないのではないか。

お釈迦様が涅槃と言われているのは、そういうことではないか。涅槃とは、そういう境界をいうのであって、暑くも寒くも無い環境をいうのではなくて、どのような世界にあっても、全心身の感覚が生き生きとしていることであって、嬉しいことも悲しいことも平等に受け取っていかれる人間が生まれることであって、それを念仏者は無碍の一道、障りのない人間であると、こういうのであろうと思います。

親鸞聖人は南無阿弥陀仏という名号よりも、帰命尽十方無碍光如来と言われ、世界中何処へ行っても障りの無い、この帰命尽十方無碍光如来――これは阿弥陀仏の別名でありますが、そういう障りの無い心境を確立したいという念願をもっておられて、そういうふうに言われたのであろうと思うのであります。

人間はいつも無碍を念願していなければ、「福は内、鬼は外」の心に引きずりまわされるので、常に無碍光仏の名を称えることで、鬼も福も平等に受け取り、かつ鬼を福に転ずることが出来るのであります。我々は嬉しいことがあると飛び上がるほどに喜び、悲しいことがあればドン底に沈んでしまう。浮き沈みの生活を繰り返しておるのであります。それでその両方を公平、平等に受けていくために、本願の念仏の教えというものを聞かねばならぬというのが、親鸞聖人のお立場ではないかと思うわけであります。

―『聞法の意義』に続く




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