真実教の意義
人間とは、私とは

米沢英雄先生

先ほども三上先生から、皆様はお忙しいと言われたのでありますが、その忙しいというのは、この娑婆が忙しいのでありまして、その娑婆は、人間であることを前提として、それから先の方が忙しいのであって、人間というものはどういうものか、ということを掘り下げて明らかにすることが怠られていあるところから、娑婆が忙しいのである。

人間はどういうものかということを掘り下げることが、娑婆を成立せしめる根底でありまして、その根底が明らかになっておりませんと、その上に立っている娑婆は非常に薄弱でありまして、人間が明らかになっていないと、いつかは行き詰るのであって、その行き詰らぬために仏様や神様を頼むということでなくて、その娑婆を成り立たしめている根底である人間を明らかにすることが、私は第一ではないかと思うわけであります。

それが明らかになりますというと、その上に立っている娑婆は何か安心して、忙しければ忙しい中に、暇なれば暇のままに、どちらにでも安心して生きていかれるはずであって、問題は娑婆を成立せしめている人間とは何か。人間、いや、人間というような抽象的なことではなく、もっと具体的に私とは何かということを明らかにする。それが仏法の問題と思うわけであります。

その私というものを明らかにするために、仏と云うものがあり、或いは浄土というものの力を借りなければ、人間というものが明らかにならぬのではないかという意味において、仏とか、浄土とかがあるのであって、仏とか浄土というものはただ有るとか無いとかの問題でなく、人間というものを明らかにするために必要なのであって、そういう意味で方便と言われるのではないかと思うわけであります。

ところが親鸞聖人がおっしゃった浄土、或いは南無阿弥陀仏というのは人間、或いは私というものを根底的に答えておるのではないかと思われるわけでございます。仏法というものは、人間というものを明らかにするものでありますが、多くの先輩が仏法という名の下に、色々と苦労されたわけでありますが、その人間とか仏法というものを根底的に明らかにし尽くしたものが、浄土真宗ではないかと思うているわけであります。

それで浄土真宗では聞法ということがやかましく言われるのですが、法というものは何のために聞くかというと、人間とは何か、私とは何かということを明らかにするためでありまして、ただ幸福を求めたり、平和を求めたりするだけでは、聞法にならぬのではないかと思われます。

親鸞聖人はこの聞法ということを定義されて「聞というは衆生、仏願の生起本来を聞きて疑心あることなし」と。聞くということは、阿弥陀仏の四十八願がどういうふうにして起こったか。その四十八願の中で、どれが根本でどれが末であるかを聞いて、疑いが晴れたのが『聞』であると言っておられるので、ただ漠然と聞いただけでは、仏法を聞いたことにならぬのでありまして、疑いが晴れるまで聞かなければ聞いたと言われぬというふうにおっしゃっているわけであります。
それが聞法の第一の態度でありまして、この態度が出来ていなかったら聞法とは言われぬ。ただがやがや集まっているだけであって、選挙の演説を聞いているのと同じであって、聞法の座というわけにいかぬのであります。
『聞とは』の次に衆生と言ってあることが非常に大事なので、人とは書いてないのであります。
人間が衆生という立場に立って本願を聞くということが大切である。普通人間はどういうのかというと、我々は始めから人間であると決めておりますけれどそれは実は驕慢であって、自分が人間であったら本願が聞こえるはずがないのであります。

人間であると思っていたものが衆生という立場まで下がらなければ、自分が仏から見られている自分のあり方まで下がらなければ、本願というものが聞こえてこないと思います。浄土真宗というのは、我々が仏法を聞く態度を教えられるのであって、その心構えが出来ると、自然に法は体の中に浸透してくるのではないかと思われるわけであります。人と救いとがわかっておらぬと申しましたが、仏法では、人は迷っているというのであります。

人とは、迷っていても迷っていることがわからぬのを人というのである。迷うていても分からずに、人間は万物の霊長であるとうぬぼれているものを、人間というのであって、自分は始めから一人前であると思うて、阿弥陀仏の本願などというと、何処かの暇人が考えている特殊社会のことであって、我々にはそのようなことを考える必要がない。我々は人間が考え築き上げてきた文化さえあればたくさんであると確信している、そういうのを人間というのであって、衆生というのはそういう人間の確信が破れ、何か人間が不安であるという、そしてその不安、不満から徹底的に解放されたいと願うのが衆生というものであると思う。

その叫びをあげないものには、どれだけ仏が働きかけようとしても、働きかけることが出来ないのであって、人間であることに確信がもてなくなって、不安を感じ、何かその不安からのがれたいということを叫んでいるものに対し、仏の力というものが働く。それで『聞(もん)』と云う場合、衆生ということわりがついてあることが、非常に大事であると思うわけであります。

―『救いとは』に続く




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