仏法が分かるとはどういうことか
米沢英雄先生
私たちは、浄土真宗の信仰、正しく申せば信心をいただくわけでありますが、浄土真宗も仏法でございますから、これも親鸞聖人に従って正しく表現するなら、仏法といえば浄土真宗のことになるのでありますが、釈尊の説かれた教えでありまして、釈尊は他の宗教と違って、転迷開悟、迷いを転じて悟りをひらくことを教えてくださったのであります。
浄土真宗の教えによりますと、『歎異抄』にございますが、この世で悟りをひらくということはない、悟りはあの世でひらくのであるということになっておりますが、こう言われるのにはその理由があるのですが、本質はやはり転迷開悟であろうと存じます。
ただ、転迷開悟と申しますと、人間というものの意識の構造上、どうしても大脳皮質の作業、つまり知性の上のことと受け取られやすい。知性で受け取られますと、簡単に理解してしまうか、理解の及ばぬこととして片付けてしまうかして、あくまでも追求しようと致しませぬ。したがって、転迷開悟が企図する自己変革、自分が生まれ変わる、禅で申すと、乾坤(けんこん)に独歩(どっぽ)すという境地になる。私たちの方で申せば、摂取不捨の中に生きる、その変革の力にならないのであります。
また転迷開悟と申しても、それだけでは、ただ言葉に止まっていますので、次に転迷開悟に導く行、修行をしなければならぬわけでありますが、私たちには、その行が、念仏として与えられていて、その念仏のいわれ、意義を聞きひらくことによって、自然に、誠に至難な転迷開悟という事業が、私の上に事実となって出現する、そういう仕組みになっているのが、私たちのいただいている教えであろうと存じます。
この『いただく』という言葉が、また若い方々にはお気に召さぬかも知れませぬ。若い方々は、自分が学ぶ、自分が・・・するというふうに、自分というものがはっきりしており、自分第一でありますから。しかし教えというものは、その、自分、自分と担ぎまわっている自分を明らかにするものであって、これが人間にとって予想以上に大切であると云う意味で、『いただく』と申すので、今一つは、自分を明らかにするということが何でもないようであって、実は一大事業で、これの達成は、誠に残念ながら人間の力を超えている、それでまた『いただく』と申すのでありましょう。
ここで真宗の論理、そういう言葉が成り立つかどうか存じませんが、そういうことについて及ばずながら考えてみたいと思うのでありますが、論理ということが、すでに大脳皮質の持つ言葉であります。大脳皮質というのは、人間の意識の一部分であります。宗教というのは、人間を尽くすことで、人間全体にかかわることですから、この場合、仮に論理という大脳皮質においてのみ通用する言葉を借りてはおりますものの、信仰の論理はむしろ肉体の論理と申しますか、いや肉体という場合は、どうも大脳辺縁系の臭いが濃厚でありますから、身体の論理、全身心を挙げての論理、はっきり申せば、人間がその前に立って、否応の言えない絶対的な道理であります。
また先ほど、念仏のいわれを聞くと申しましたが、この聞くということにも問題がございます。何処で聞くか。よく仏法を聞いて、分かるとか、分からんとか言われるが、仏法が分かる、分からんと云うことは、どういう意味か。何故聞いて分かる人と、分からぬ人があるか。分からぬ人は何故分からぬか、分かるように出来ないものか。聞くからには耳で聞くのでしょうし、分かるというからには、頭で分かるのでしょうが、分からぬというのは、この場合、大脳皮質で聞いているのではないか。つまり、聞いて判断し理解しようとしている、知性で捕らえようとしているのではないか。第一、仏法は知性を対象としていない。フランクルの申した人間の意識の最奥底に眠っている、“たましい”に対して呼びかけているのであって、仏法を聞く場所は、大脳皮質ではなくて、無意識の奥底の次元の異なった超越的無意識の場所で聞くのであります。仏法が分かったというのは、超越的無意識まで届いたのであり、精神的無意識が目覚めたのであります。
大体、無意識のところで聞くということが成立するであろうかということですが、勿論、お話は耳から聞いて、大脳皮質に伝わるのでありましょうが、ここで止めずに、ちょうど無線放送が、空気をくぐって伝わっていくように、超越的無意識へ響いていく。この響くという形で、聞こえるのではないかと思うのであります。お話を聞いて、響くか響かぬかと云うことになるのでありましょう。
念仏のいわれは本願であり、本願は、この超越的無意識まで響いていくように、そういう力がこめてある。そこまで届かねばやまぬという力を持ったものが本願であって、それが届かぬということは、大脳皮質で妨害しているわけでありましょう。まず、この妨害が取り除かれなければならぬわけでありましょう。
曽我量深(そがりょうじん)先生が以前、純粋本能ということをおっしゃっていましたが、あの純粋本能というのは大脳皮質の下の、動物本能的無意識の、その下の、質の異なった超越的無意識のことではなかったでしょうか。これは人間に、本来与えられてあるので本能であるから、本具と申されています。しかもこれこそ人間の尊厳の宿るところで、真実と交通する場所であるから、純粋と言われるのではないでしょうか。
無我とか無分別智とか、仏智とか言われるのは、人間の知恵と質を異にし、ここに目覚めて初めて我執を離れることが出来るからではないでしょうか。
平等無差別とは、この場において初めて言われることであり、釈尊が目指された涅槃の境というものも、この場所のことでありましょう。彼岸と言われるのも、意識の中では、質を異にしたこの超越的無意識のことでありましょう。この超越的無意識は、フランクルによれば無意識の一番底にありますために、そして私の中にあって私を超えていますので、そこに出るのには、私自身が、そこまで下降しなければなりますまい。人間が誇っている大脳皮質を捨てて、内面へ、内面へと下降しなければならぬのであります。
人間は大体、大脳皮質と、大脳辺縁系とさえあれば、日常の社会生活が出来ます。大脳辺縁系が強力で、それに大脳皮質の優秀なのが協力しますと、それこそ鬼に金棒、この世をばわが世とぞ思うというところまで、自分を拡大することが出来ます。そういう人達にとっては、このもっとも内面の世界は一度も覗いたことのない無縁の世界であります。自分の中に内包しながら、一度もお目にかからずじまいで、一生を終える者もあるわけであります。斧の入らぬ原始林とおっしゃった方もある位、私の中にありながら、日常生活に没頭している私たちにとっては、人跡未踏の世界で、あってなきが如き世界、しかし気付かぬけれども、実は黙って私を支えてくれている世界、尊い世界、大地にも似た世界。
一度その世界を、自分の中に拝みますと、それは自分の中にありつつ、自分を超えた世界。この前には、わたしが世界だと思うていたものは、実に小さく、醜く、不自由で、窮屈で、そんな世界で、威張り返っていた私が、恥ずかしくてたまらぬ世界。そういう広大な、自由な、無礙の世界に包まれている私を自覚させていただいて、フロムの言う自己関心で虚構した世界、娑婆は変動常無きものですが、今までも無意識で接していた世界、こここそ目覚めてみれば真に私の心の安んずべき場所であったのであります。