心の底に
大脳の生理についてー@

米沢英雄先生

精神分析より見た信仰の論理というようなことで、お話申し上げる次第でございます。

精神分析と申しますのは、精神病の治療のために、フロイドというオーストリアの精神科医によって始められた学問で、比較的新しい科学でございます。もと精神病の原因を追究し、その治療のための学問であったものが、図らずも宗教と関連して参るのであります。

宗教と科学とは、元来、対立的なもので、共に手握ることの不可能なものとされておりました。宗教というのは、科学が発達する以前に、科学の代用をしていたもので、ちょうど科学的医学が未発達の時代に呪術や祈祷が代用をしていたようなもので、科学が発達すれば、当然、宗教というものは影をひそめていくものだという考え方が強力であった時代がございました。

一方それに対しまして、宗教を強く信奉する側では、科学というのは、形をとって存在するもの、物質の世界でのみ権威をもつが、精神界とか心霊界とかの無形の世界は宗教の分野であるとして、宗教の権威を譲ろうとはしませんでした。ところが精神分析の発達で、意識の構造を明らかにしてくることによって、科学と宗教とが、対立ではなく、握手するようになったと思われるのであります。

ところで、精神分析の概観を致します前に、これも人体についての科学としては、大へん新しい大脳生理学について触れておきたいと思うのであります。と申しますのは、宗教というのも人間の一つの意識活動であります。人間の意識活動は、大脳で行なわれますので、大脳の状況を、このお話に関連する部分だけ知っておきたいと思うからであります。

大脳は周知の如く、頭蓋骨の中に収まっていて、左右一対の半球状の塊と、これを底辺でつないで、脊髄と連絡する棒状の脳幹という部分から出来ております。脳幹というのは、間脳、中脳、延髄をひっくるめた名前で、脳を横から見ますと、その下部が大脳の後ろ下にある小脳の下にわずかに見えています(脳の構造は、http://www7.ocn.ne.jp/~inamura/normal/anatomy.htmlを参照下さい)。

大脳の表面には俗に皺(しわ)と申している溝が、たくさんあるわけですが、便宜上、大脳を前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉とわけて呼んでおります。
大脳表面は、脳細胞の集まりでね大脳皮質と呼び、灰白色(かいはくしょく)をしているので、灰白質とも申します。皮質の内部は神経線維から成っている髄質で、白色を呈しているので、白質とも言います。この神経線維が、脊髄を伝って下行するわけであります。

人間の行なう活動を統制している中枢が、大脳皮質にあるのですが、ここでは分業体制がとられていまして、現在わかっているところでは、頭頂葉には、随意運動、体性感覚野、知覚、認識、思考野、後頭葉には視覚野、側頭葉には、味覚、聴覚、言語、判断、記憶野、前頭葉では、創造や感情の精神活動が営まれるというようなわけであります。

こういう分業体制は、各分野を、電気で刺激してみるとか、或いはそこを破壊してみるとか、また脳の外傷、腫瘍、出血等の病気で、脱落症状が現れることなどによって推定していくわけであります。

大脳皮質は、人間において、よく発達し、ことに前頭葉は、企画、創造の座でありますので、人類の文化は、いちにここから発祥しますので、それはまた人類の誇りとされてきたわけであります。この前頭葉は、犬、猫には殆どありませんので、研究が大変困難だったそうですが、1935年、ポルトガルのニガス・モーニスという方が、ひどい難病の患者さんの前頭葉を切り取るという画期的な手術をやられて、その機能が明らかにされる道がひらかれたというのです。

前頭葉を切り取ると、知能や記憶の能力に障害は起こりませんが、人格や性格が目立って変化してくるそうです。積極的に何かしようという意欲がなくなる、仕事に情熱がもてなくなる、執着心がうすらぐ、取りこし苦労をしなくなる、楽天的になる、計画性がなくなる、将来に対する思慮分別が乏しくなる、感情の動きが浅薄、単純になる、といった傾向が現れてくるそうです。ですから、いわゆる人間らしい行動は、この精神活動によって進められているわけであります。この創造企画を進め、向上発展していくところに喜びを感じ、それが阻まれると悲しみを感ずるので、感情の座もここにあるわけであります。

前頭葉は、人間において特に発達し、こここそ人間の誇りの宿るところと考えられてきましたが、今日、人類を絶滅に導くあの原子兵器も、また、他ならぬこの前頭葉の所産であり、これによって全人類が、今日おびやかされている矛盾のあることに思い到りますと、昨日までのように手放しには、この前頭葉を誇っているわけには参らぬのではないでしょうか。

これは後ほどの問題になりますが、知覚、認識、思考、或いは記憶、判断、創造とかの機能が、大脳皮質の、前に述べましたそれぞれの位置に配属されておりますが、この中に、良心とか責任とか自由とか、或いは謙虚さとかね宗教意識というような機能の場所がないということは考えさせられることであります。こうした機能の起こる場所を決めるのはなかなか容易ではありませんので、最近になって電気工学、その他最新の知識を動員して、総合研究が進められておりますから、将来、次第に明らかにされていくでありましようが、現在のところ、私が今日、ここで問題にしたいと思うております宗教意識の座が大脳皮質に求め得られないことは、注目すべき点と存じます。

―大脳整理―Aに続く




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