魂の軌跡(昭和35年)
続―帰り着く場所

米沢英雄先生

私たちに迷いや悩みがあたえられているのは、それによって念仏の法に遇うためであります。悩みがなければ法を求めも致しませぬ。法に遇い得て初めて、私の迷いや悩みが意義を得てくるのであります。私が救われるとは、私が無駄に迷い、いたずらに悩んだのでないということであります。私の迷いや悩みが成仏することであります。この迷い、この悩みがあったればこそと私たちから拝まれる時、迷いや悩みは喜んで私たちから去っていくのでありましょう。いや私たちから去っていかなくとも、その日から邪魔にならなくなりましょう。

迷いや悩みによって、更に一層法に近づいていくことが出来ますから、迷いや悩みがなくなると、却って法に遇うことを忘れますから、煩悩こそ私の命で、仏の命。昨日までは敵と思うていましたが、今日からは私の最も強力な味方となりました。

よくよく承ってみますと、生きとし生けるものは、自覚するとしないにかかわらず、すべて念仏しているのでありました。宿業を一歩も出られぬ姿こそ、大観すれば合掌礼拝讃嘆の念仏の容(かたち)ではありませんか。薔薇の木に薔薇の花が咲いて、他の花が咲かないというのが、薔薇の絶体絶命の姿、薔薇の木の念仏であります。桜は何としても桜、松は何処までも松、これが念仏の姿、山河大地、日月星辰、いずれも念仏しております。胡瓜は胡瓜、茄子は茄子、男は自分の意思如何にかかわらず男、女は自分の意思でなく生まれてきて女。念仏しております。象はあくまでも大きく,土鼠はあくまでも小さい。これも念仏しておりましょう。人間は中で、理知を働かせて自分の意思で道を択(えら)んでおりますが、これも因縁を免れることは出来ませぬ。泣くも、笑うも、腹を立てるも、怒るも、喚(わめ)くも、悲しむも、すべてが念仏の姿であります。

念仏とは、絶対現実の姿、絶体絶命の今の事実をそのまま言い当てた言葉、事実を記号に置き換えたのでありますから、念仏はこの世のすべてを、そのまま一語で表現しているのであります。念仏は実在の叫びであります。私たちは念仏から一歩も出ることが出来ないのであります。念仏を信じていない人も、念仏を信じていないという姿において念仏しております。無神論も無宗教も、その人はそう叫ばずにいられぬという姿において念仏しております。

私たちは朝から夜中まで(夜中も)、生まれるから死ぬまで、念仏で一貫して更に変わることはないのであります。一切は念仏ならざるはなし、唯私たちに課せられた問題は、私たちは知ると知らざるとにかかわらず、十劫の昔から念仏し続けてきたのだ、今も念仏の中にいるのだという事実を自覚するだけであります。念仏は今から新しい世界に住み替える話ではなくて、すでにすでに念仏の中にいるのだという既成事実を、今更の如く驚いて承認することであります。

念仏は昔に死んでしまったのではない。念仏を虐殺し得たと信じた者はありました。それでも念仏は生きております。私たちは死んでも念仏は生きております。原子爆弾も月ロケットもすべて念仏の中の出来事であります。念仏は広大無辺であります。事実のもつ強みであります。念仏を自覚しますと、私たちの一切の行動が、それまでバラバラであったものが、念仏に見事に統一されて、意義をもって、生き生きと動いてくるのです。そしてやむ時がないのです。

南無阿弥陀仏という声は、私の自我の崩壊し去る時の叫びでありました。同時に、私において人間革命が成就した凱歌でありました。慙愧の念仏、歓喜の念仏と言われる所以であります。それは私の叫びであると共に、多年私の内にひそんで、私の正覚を念じ続けてこられた法蔵菩薩の喜びの声でもあるのです。他力廻向の信心と言われる所以であります。

こうして念仏が伝承されてきて、この念仏の下に、釈尊も人生の意義を自覚され、代々の祖師方もこの念仏の灯を継がれ、名もなき私たちの祖先も、この念仏の下に人生の尊さを教えられて、喜んで生き、且つ死んでいかれたのであります。

その中においても、宗祖親鸞は、師法然によって念仏に開眼されて以来、単に念仏の伝統を受け継ぐだけでなく、念仏によって自分を磨かれると共に、磨く念仏の真意を深くさぐられ、真実の宗教が、仏法の真意が、本願の念仏以外にはない、その他は念仏に辿り着くまでの道程にすぎないことを明らかにせられました。

念仏だけが、善人も悪人も、インテリも無学文盲も、すべてが自己を完成する道であることを明らかにせられました。しかもこの道が、インテリの底をついて一文不知にかえって、善人の底をついて悪人の自覚に立って到達し得る道であるが故に、万人の道となったのであります。
宗祖の愚禿(ぐとく)と云う名乗りは、本願に遇われた、阿弥陀仏の光をまともに浴びられた場所を明示せられたのでありましょう。そして後に続く私たちの立つべき場所をも親切に教え示していられるのであります。

念仏は確かに無自覚に唱えられた呪文であった時代もありました。宗祖によって命が吹き込まれたのであります。釈尊の教えの根本であり、仏教の命である自覚となったのであります。私たちにおいても、見様見真似で念仏を唱えるいわゆる念仏の呪文時代があります。私たちが悩み苦しみ、これから脱却せんとする時、宗祖の教えの真意に触れて、私においても念仏が信心として自覚に転ずるのであります。呪文の念仏には力がありません。自覚の念仏にして初めて、愚かな私、 鈍感な私を動かし真実を歩ましめる力をもってくるのであります。

宗祖が、その生涯をかけて探ねられた念仏の真意、本願の念仏以外に真実の宗教はないという大胆な宣言は、先輩の幾多の論証と、宗祖の血の滲む体験とを織り込めて、『教行信証』という書物となって遺されております。 また宗祖の日常の珠玉の如き信仰告白は、側近の弟子の唯円によって記録されて、『歎異抄』として遺されております。いずれも真実を求めて歩みいく者の、最も信頼することの出来る指針であります。

帰り着く場所ー完

魂の軌跡―完



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