魂の軌跡(昭和35年)
二人の私、二つの世界米沢英雄先生
自己革命、世界観の変革、自我の粉砕という阿弥陀仏に会う第一歩は如何にして行なわれるのでありましょうか。それは罪悪深重煩悩熾盛の凡夫という阿弥陀仏の呼びかけを(私たちをこういう呼び名で呼びかける仏は阿弥陀仏の他にないのです。この人間侮辱的な私たちへの呼びかけが、深い親切から出ていることは、この言葉によって私が、うぬぼれの中に圧し潰されて埋もれかくれていた真実の私が呼び覚まされた時に初めて感ずることが出来るのです)私が呼び出されているのだと聞くことです。
その呼びかけの下に、私の中を調べて、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫を見付け出すことです。これが自我であり、うぬぼれでありますが、最初は自我やうぬぼれということがわかりません。これほど自我やうぬぼれは私に密着しております。
つまり私も二つ、世界も二つになってあると申しましょうか。私は自我やうぬぼれの私と、その皮の下の真実の私、自己と二つあり、自我と自己とがあまりに密着しているために、私たちは日常自我を以て本当の私と思いすごしているわけです。
これに対応して世界も、絶対現実という真実の世界と、それに自我が勝手な粉飾した、自我で解釈された世界と二つあるのであります。ここでもこの解釈された世界を私たちは本当の世界と勘違いしているのであります。二つの世界は浄土と娑婆と呼び習わしています。二つの私は仏と衆生でありましょう。
実は世界も一つ、私も一人なのですが、自我が真実の世界の上に娑婆をでっち上げ、自我が前にのし出て真実の私を後ろに押し込めているのです。真実の世界は万人共通ですが、娑婆は各自違うので衝突を免れませぬ。あらゆる闘争は国際紛争も含めて自我の戦いでもあります。真の私に立ち返り、万人共通の世界に目覚めるところに闘いは止むのです。
浄土は直接見ることが出来ませぬ。娑婆と自覚出来ますれば、浄土はその自覚の傍にあるわけです。お山の大将俺一人とうぬぼれていた私が、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫という呼びかけの前に頭を下げしめられる時、私は自我を脱皮して真実の自己、仏の近くにいるわけであります。
私の見ていた世界が娑婆であったという驚きが南無阿弥陀仏であります。この俺がとひそかに頼んでいたものが、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であったと頭の下がるのが南無阿弥陀仏であります。
南無阿弥陀仏において、内には自我が崩れ落ちて、今まで私にもかくされていた自己が、主体が、仏が顕現し、外には娑婆が薄れて、絶対現実が、浄土が現前するのであります。 これを念仏往生(念仏して浄土に生まれる。念仏、そこに浄土の真っ只中にある身を自覚する)、また念仏成仏(念仏して仏になる、自我が仏になるのではない、自己が仏になる、仏が仏になる、念仏する、そこにすでに仏たらしめられてある)と申し、この教えを真宗と申すのであります。およそ人間たるものすべてが内包している根本の願い、私は自由独立の私、仏でありたい、同時に一切の人々を共に仏にしたいという本願が、単なる願いに止まらず、遠く十劫の昔に、法蔵比丘が自己自身を投げ出すという深い懺悔によって阿弥陀仏となられた時に、本願が成就して、現実化する力を得て以来、同じ道を歩むことにおいて、本願他力によって、私たちの中に本来かくされてあたえられてある仏が、自我の殻を破って仏と成って現われる、他力廻向の信心の道がひらかれたのであります。
真宗こそ、いつでも何処でも誰でもが、仏になれる、自己を忘れて自我に溺れている者が自己を回復する、万人のための教えと申すことが出来ましょう。しかもこの仏となるのに特別な手続きが要るわけではない、万人が持ち合わせている、不足なく十二分に持ち合わせている煩悩を縁として仏になれるので易行道と申すのであります。
しかしながらここに易行にして難信、ということがあります。念仏は容易であるが信じ難いと申すのは、何が信じ難いかというに、私が自我の塊である、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫であることを信じることが困難なのであります。私たちは自分に対して一番甘いのであります。自分を常に許そうと致します。私は阿弥陀仏の前に絶対の一人になることが、なかなか難しいのであります。
大抵私が見て私よりも罪悪深重の同伴者を連れてきて、彼よりもまだ己の方がましだと、この期に及んでも、自分の優位を誇ろうと致します。実にこの狡猾が長年の習慣でスムースに行なわれるので、凡夫と自覚するのに苦しい抵抗を感ずるくらいであります。阿弥陀仏の前に絶対の一人になりきれない私は、また阿弥陀仏の慈悲を絶対の一人占めにも出来ないのです。
「弥陀の五劫思惟の願いをよくよく案ずれば親鸞一人がためなりけり」と喜ばれた宗祖は、宇宙唯一人の罪悪深重人になりきられたから、阿弥陀仏の慈悲もまた誰よりも深く感謝されたのでありましょう。阿弥陀仏の慈悲を深く感じ得るのには、私の感覚が鋭敏でなければなりませぬ。私の自我が如何に根強くて、それが如何に私の懺悔を妨げているか、私の成仏を妨げているか、に泣かなければなりませぬ。
宗祖は死の間際まで、名聞利養(他人に少しでもよく思われたい、一文でも得したいという利己心)が激しくて、阿弥陀仏の慈悲をへだてていることを悲しまれました。その人こそ最も仏に近く居られたわけであります。
私たちは念仏すれば浄土に生まれられることになっている。しかし私たちの念仏は浄土に往生出来るほどの純粋な念仏ではない。むしろ私たちは私たちの念仏が濁っている、私たちは浄土に遥かに遠い存在でしかない、という悲しみにおいて、逆に浄土に近づき得る、そういう存在であるかもしれません。
つまり、直接浄土に生まれるのではなくて、あくまでも否定を通して、絶対に浄土に生まれることの出来ない凡夫という悲しみにおいて、浄土に触れ得る存在なのでありましょう。こうした、念仏往生の深い心が、念仏の信心として、宗祖によって見出されたのであります。
思えば、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫という座は、これから一歩も動くことの出来ない、私たちの永遠の座でありました。故にこの座を宿業とも申されます。この座こそ、私たちの真実の場所であるにもかかわらず、その座に自ら進んで着こうとは致しませぬ。他力によって、この座に引き据えられることによって、不思議にも、私の解放は成就され、自由独立は達成され、前途に光明は輝き、十劫の昔に成就した阿弥陀仏の本願が、今改めて私の上に事実となって成就し、私が身を以て、本願の成就の真実を証明することになるのであります。
本願の歴史は、私をして人間を完成せしめ、本願に依って完成された私が、また本願の歴史を継ぐものとなるのであります。こうした連続無窮の阿弥陀仏の聖なる事業に私もまた光栄にも関与せしめられたのであります。これこそ私が、人間として生まれて来たことの本懐でありました。