魂の軌跡(昭和35年)
法蔵菩薩の誕生―U

米沢英雄先生

法蔵比丘が多年憧れの絶対自由、絶対満足の国、浄土に入国せんとして、いよいよ世自在王仏の資格審査を受けることになりましたが、それに先立って法蔵比丘は尋ねました。
「先生は浄土は願いさえすれば誰でもすぐにそのまま入ることが出来ると言われながら、なお資格審査をされて入国出来る者と、出来ない者とを選ばれるのは根本的な矛盾ではないでしょうか」 「そう、矛盾とも考えられるが、浄土は迷いのない人、仏ばかりの清浄な国だから、泥足で踏み込んで汚したり、ばい菌をこっそり持ち込まれては浄土が甚だ迷惑する。しかし君はとにかく全人類の解放を願うようなヒューマニスト、善人だから、まあ落第する懸念はあるまい。

さて、浄土は清浄な国だから手や口に穢わしい血が少しでもついていては絶対に入れないな。つまり生きとし生けるものの命をあやめたものは入れないのだ。ところでこの命のとり方にも色々あって、自ら手を下して殺すものもあり、他人の手を借りて殺すのもあり、また自分の父、母、師匠の如く、自分が成長していくために色々の心配をかけて目立たぬようにじりじりと殺していくのもある。また何も知らないものに自分でもよく分かっていないことを説いて聞かせて、迷わせて苦しめて殺していく方法もある。また生きて甲斐なき人生だと言うて自分で己の命を殺すこともある。一体自分が生きるために他の命をとってもいいということを、また嫌になったら勝手に自分の命をとってもいいということをいつ、誰から許されたのだろうかね」

法蔵は先ほど誉められて自分なら大抵大丈夫だがなと安心した気持ちで聞いていましたが、次第にこれはどうも他人ごとではないような不安な気持ちになってきましたが、今更聞くのをやめるわけにも参りません。

「第二には、自分をたててよしとする心、うぬぼれというかね、これが少しでもあったら浄土へは入れないな。天下国家を論じ、世界の平和、人類の解放などと大変立派なことを言うていても、それが自分の気付かぬ意識の底に、こうして少しでも人によく思われたい、一文でも得をしたいという名聞利養の心が毛筋でも雑ざっていたらそれは真っ先に落第だ。法蔵、お前は正直者が馬鹿を見る世の中が嫌になったと言うたが、正直者とは一体何処にいるのだろう。存外お前が考えている正直、自分だけはそれから外れぬような正直の線を引いて、その内側から外側の人、つまりは自分の気に入らぬ人間を批判していたのではないかな。お前は早速言いたいだろう。それは私一人ではありません。世間の人間はみなそうです、とね。それならお前が捨ててきた世間の人間と同列同格ではないか。自分も同じ仲間のくせに、それを捨てて如何にも自分が彼らより高尚な目覚めた文化人の如く思い上がっている心根こそ、更に哀れとは思わぬか。お前は今は浄土を願う野望を捨てて、煩悩に苦しんでいる彼らと共に素直に苦しむべきではないか。お前は修養によって煩悩を克服しようと努めてきたが、もともとお前は煩悩によって生を受け煩悩によって命をつないでいる者ではないか。自分を超えた、自分の命の本である煩悩を誤魔化そうとしたり、抑えつけようとしないで、素直に頭を下げたらどうだね。人間は所詮煩悩の塊なのだ。煩悩がお前となり、また私となっているのだ。 世界平和、社会主義、自由独立と叫んでも、それが人間の口から叫ばれるかぎりは、自分の思うようにしたいという煩悩に過ぎないのだ。お前の命の根元である煩悩を尊敬し、同じく一切の人の煩悩を尊敬したら、そこには存外自由な世界がひらけてくるのではないかな」

法蔵比丘は世自在王仏の教えを聞いているうちに、今までしっかりと持っていたはずの自信が足元からずるずると脆くも崩れおちて、誠に気恥ずかしいばかりの自分自身の姿がさらけ出され、その気恥ずかしささえ自信を保ち続けようとする最後のあがきではないかと気付かされると共に、今まで夢にも考えていなかった広い明るい世界の中に抱かれている自分を見出したのです。

「先生、私は自分が当然生きる値打ちのある者であると自分でもひそかに決め込み、一切この世に存在するものはすべてこの私に奉仕すべきものであると、意識の深い深い底で堅く信じて今日まで生きてきたように思います。自分の思うようにしたいと望み、思うようにならぬとて悩み苦しむことは、即ちかく信じているからこそでありますが、自分では少しもそれに気付きませんでした。暴君ネロとは、秦の始皇帝とは即ちこの私のことでありました。私の一息一息の呼吸、私の掌の下にときめいている心臓の鼓動、これあってこそ私の命が支えられておりますのに、それが私の意思で自由になるものではなかったのでした。私の命の根元は、実に私自身の手の届かぬところにあるのでございます。それを忘れて自分の思うようにならぬとて、腹を立て愚痴をこぼし欲を起こしておったとは、何という身の程知らずの愚か者でありましたろう。今日までの私を支えてきた命の根元に対して誠に不遜であったことを心から懺悔いたします。かかる不所存者にも、太陽は何と温かく照らして下さったことでしょう。風は何と軟らかく吹いて下さったでしょう。一切の人、一切の物は何とやさしくこの身のほど知らずの横着者を、今日まで黙って育ててきて下さったことでしょう。その寛容さに対し、私の心の狭さが血の汗が滲むほど恥ずかしゅうございます。更に親切なことには、私の思うようにならぬことが次から次へと目の前に見せて下さって、自分自身の値打ちを知れよ、思い上がっているがために、自ら苦しんでいる愚かさを知れよと、日夜お示し下さったことであります。これこそ最大の慈悲とも知らず、私は世を呪い、神仏を恨みました。私が昨日まで拝んでいた神仏というのは、自分の思うようにしたいという、その欲望を向こうに飾って拝んでいたのでございます。誠に身勝手なものを信仰だと思うておりました。私は今、外を見る目がつぶれて内を見る目がひらけたように思います。この明盲は自分の思うようにならぬ人、物、事件、そういう他力を頼まないでは別して明眼の師、先生の教えという他力を頼まないでは、到底自分自身の真の姿が見えるものではなかったのでした」

法蔵比丘の頬には熱い涙が溢れて流れました。しかし先刻ほどまでの憂鬱な表情にひきかえて、何と明るい顔でしょう。法蔵のこの大きな自己革命を師匠の世自在王仏も深く喜んでいられるのでありましょう。かねて明るいお顔が更に輝きを増したようです。顔と顔とが照らし合い、心と心が通い合い、法蔵の言葉はそのまま世自在王仏の言葉であり、やがてこれが救いを宣言するものの共通の言葉となるのでありましょう。

「私は自分自身の零であったという真の値打ちがわかって初めて、それを知らしめて下さったこの世の一切に頭が下がり、この時一切の不平不満は雲と消え霧と散じて、この身このまま大満足の境涯に転じ生まれることが出来るのでありました。私は今こそ全世界にかつて存在し、今存在し、生来存在するであろう一切を、そのまま肯定することが出来ます。私は先生の入国審査にも落第して一介の煩悩人に還りましたが、この煩悩人というものに落ち着いてみると、この世界の何と広大な明るいことでありましょう。先生の審査に徹底的に落第させられて初めて、先生の申された摂取不捨の国、浄土の真ん中に不思議に生まれている自分を発見しました。今こそ入国審査の矛盾がとけました。今こそ先生の名が世自在王仏であるいわれがわかりました。
法蔵という私の名は、立派なものが一杯つまっているように今までうぬぼれていましたが、あにはからんや法蔵とは世にありとあらゆる煩悩がことごとくおさまっていることでありました。しかしこの煩悩があったればこそ、この絶対自由、絶対満足の世界に生まれ出ることが出来たのです。浄土の荘厳とは、実に全人類の全煩悩が光り輝いている世界なんですねぇ。私もまた、光り輝く一人、今こそ阿弥陀仏の境界を頂いたわけでございます。
本来愚かな私は今のこの境界を忘れて、明日はまた思い悩むでありましょう。しかしこれからは悩むことによってまた自分自身に立ち返り、また浄土に生まれていくでありましょう。私はここに、私の後から来る悩める者のために、この浄土に生まれるよすがとしての、一つの短い言葉を選びたいと存じます。他力を頼んで自分自身に立ち返る、そこがそのまま絶対満足の境涯に転ずるという心を込めて、南無阿弥陀仏という言葉を残しましょう。今後この言葉を唱えることによって、私も一切の衆生も、われわれの終のやすらぎの場所浄土が、己自身を知らせていただくその足許からひらけいくという喜びを共に致しましょう。今日の私のこの喜び、これを今後生まれてくる幾多の悩める魂に伝えるために、私は人間界を経巡ってその傍に立ち、私の救われた絶対満足の世界を教え、この世界の言葉としての念仏を伝え、すべての悩める魂が願いの如くことごとく満足を得るまでは、私は永劫に救われない人々のところにとどまりましょう。」

かくて法蔵菩薩の永遠のさすらいが始ったのであります。法蔵比丘は自らが救われることによって阿弥陀仏となられ、一切の人々を救わずにはやまぬという決意によって、更に法蔵菩薩となられました。

二千年の昔、釈尊の胸に宿った法蔵菩薩の物語の、多分に私見を加えた紹介であります。私たちが幼い頃から耳にしている阿弥陀仏の浄土、極楽世界はこの物語を背景としているのであります。法蔵菩薩は人類の悩みと共に誕生し、その悩みの続く限り生き続けていられます。私たちが思い悩む、そこに法蔵菩薩が立たれます。

「大分頑張っているじゃないか。今息が止まり、心臓が動かなくなるかも知れぬ身と知っているのかな。自分の力で生きている私たちでなかったではないか。それを知らせていただくための悩みではないか。さぁ素直に頭を下げようではないか。南無阿弥陀仏。頭が下げられなければ、随分頑張っているうぬぼれの強い私たちだなぁということが見えてきてもよい。そこに広大な明るい世界がひらけてくるではないか」
とやさしく私たちの胸に囁きかけて下さるのです。

南無阿弥陀仏。誠に短い言葉ではありますが、この中に人類の祖先の光明を求めての悪戦苦闘と、その努力の成就した真実の喜びの歴史が結晶しているのであります。この言葉の中で、私たちは未見の全人類の悲しみと、喜びとに現実に遇うことが出来るのであります。いつ始ったとも分らない古い古い言葉、これによって次から次へと新しい魂が救われてきたのであり、この言葉を探ねあて得たものと、ついに得なかったものとの違いはあっても、ひとしくこの言葉を求めての私たちの日々の生活であることを思えば、全人類の歴史は実に念仏の歴史であると言うことが出来ると存じます。

―法蔵菩薩の誕生(完)




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