仏教における法(最終回)

山田無文老師

昭和32年5月15日
神戸地方裁判所第10期司法修習生講演会にて

釈尊が12月8日の暁天、この偉大なる悟りをおひらきになったとき、まず口をついて叫ばれたことは、「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す」というお言葉であっと申します。大自覚に入られた釈尊が、自ら反省してみられたとき、その自覚の内容である智慧と慈悲は、修行してえられたものではなく、万人がひとしく、生まれながらにして心中に内在しておるものであったことに気付かれて、驚喜されたのであります。奇なる哉奇なる哉とは驚異の歎声にほかなりません。すなわち釈尊の悟りとは、万人が生まれながらにしてひとしく持っておる、尊厳なる人格の自覚だったのであります。尊厳なる普遍的人格こそ、釈尊の発見された真実在としての法でありました。

この世界の全てのものは流れて行きます。万物は限りなく進化の道を辿っております。その流れ行く終点、進化の目標は、一切の存在が尊厳なる自覚にはいるためだと申すほかありません。その自覚とは、対立なき智慧と、限りなき愛情を自覚することであります。古来神は愛なり≠ニか、仏心とは大慈悲心なり≠ニか示されておりますが、純粋なる人間性とは、この忘我的愛情にあることが自覚されたとき、わたくしどもは釈尊の大法を手にいれ、永遠なる彼岸に到着したと言えるでありましょう。

この愛情の自覚から、仏教の道徳というものが自ずから出てまいります。仏教の道徳はつまり戒法でありますが、北方仏教は、人格の自覚を主眼としておりますのに対して、南方仏教は戒法を主体としておるので、人格が自覚されれば、求めなくても道徳は自ずから備わってくるとみるのが、北方仏教の考え方であり、道徳を守ることによって、はじめて人格が完成されるのだとみるのが、南方仏教の考え方のようであります。

昨年ビルマの大僧正が二人日本に来られまして、わたくしどもの寺にも一週間滞在されましたが、この人たちは釈尊がなされた通りを今なおやっておるわけであります。素裸に黄色い木綿の袈裟を肩からかけておるだけですから、寒くて困ったでしょう。炬燵をこしらえてあげましたら、炬燵の中で座禅してふるえておりました。一日一食で、12時過ぎたら明日の朝まで、もう固形物は何も食べません。ジュース位はよかろうと思ってこしらえてあげましたが、一人は飲みましたが、一人は飲みませんでした。南方の僧侶は戒法を守ることによってのみその宗教的生命を維持し、社会の尊敬と供養を受けておるのであります。

さて出家の複雑な戒法は暫くおくと致しまして、社会人の必ず守らなければならぬ大切な戒法、すなわち仏教徒の道徳律は、南方北方の別なく五箇条が定められております。

第一、 不殺生戒 生物を殺さないことであります。人間は勿論のこと、昆虫、植物にいたるまで、不要の殺生をせぬことであります。
第二、 不偸盗戒 ぬすみをせぬことであります。たとえ一紙半銭の微物でも、与えられないものを私することは、すべて盗みであります。
第三、 不邪婬戒 男女の交わりを正しくすることでありますが、性行為における時と所と作法を謬(あやま)ることも、すべて邪婬であります。
第四、 不妄語戒 虚言(うそ)をいわぬことであります。しかしわたくしどもは口でなくとも、行動にも、生活にも多くの嘘をしがちであります。
第五、 不飲酒戒 酒を飲まないことであります。酒によって無自覚になるのは、自覚を標榜する仏法の敵であります。

 この五つの戒法が菩薩の大戒と申しまして、仏教徒の守るべき大切な道徳であります。おそらく社会のあらゆる犯罪というものは、この五つの道徳を守れないところに起因するのではないでしょうか。殺人・強盗・陵辱・詐欺・泥酔の五つは犯罪の尤(ゆう)なるもので、その他百千の罪悪も、おそらくこの五つの中に含まれるでありましょう。そこでこの五つの道徳が完全に守られたら、社会はどんなに明朗に、平和に、暮らしよくなることかと思われます。この意味において道徳教育の必要を痛感されます。

この五つは人間の基本的道徳であって、教えて善いの悪いのという論議の余地のないもので、絶対に教えられなければならんものだと思います。学校で教えられなければ宗教で、でなければ家庭で、どこかではっきり教えられなければならん大切なものだと思います。先般もわずか16ばかりの少年が、鎌倉でアメリカ人夫妻を殺し、京都駅でつかまったのでありますが、殺すつもりはなかったけれども、さわがれたから殺してしまった、悪かった、すまなかった≠ニ、さすがに懺悔し告白しておりますが、人を殺してしまってから、初めて悪かったと自覚したのではもう遅いと思うのであります。

そこで、殺すな=A盗むな=A姦淫するな=A虚言をいうな=A酒を飲むな≠ニいうこのような基本的な道徳は、今日青少年のために、あらゆる機会を利用して教えてもらわねばならん大切な道徳だと思います。それは神の至上命令ともいうべき絶対的なもので、批判の限りではないと思うのであります。

しかも仏教の教える道徳の特徴は、それが修身科教育のような他律的道徳ではなくして、あたたかい人間性そのものの中に、よりどころを持つことであります。また社会科教育のように漠然たるものではなくして、完成されたる人格者としての釈尊を軌範とし、目標として、その光明を仰いで行くところにあります。

北方仏教はどちらかといえば、自覚を主眼とし、道徳を従とするものでありますが、真実一元的自覚、自他一如の愛情が自覚されるならば、道徳は求めなくても自ら流れ出てくるはずであります。自己と他己は元来一体でありますからね殺せといわれても殺せないのであります。盗めと言われても盗めないのであります。異性を玩弄せよと言われても出来ないのであります。欺けと言われても欺けないのであります。尊厳な自覚を狂乱せしめるようなお酒は、飲めと言われても飲めないのであります。それは、ああしてはいけない、こうしてはいけないと教える教育法ではなくして、そうせずにはおれない自覚を与えてゆく教育法だと思います。

南方仏教はもっぱら戒法を主体として、自覚を従としておるようでありますが、人間性の純粋さと、真摯な信仰から戒法が尊重され、よくそれが厳守されますならば、そこにも人格は自ずから完成され、自覚されると思うのであります。

古来禅戒は一如であると示されております。自覚と道徳とは、究極において自ずから一致すべきもので、相より相たすけて、人格を完成しなければならんと思います。したがって北方仏教と南方仏教とは、全く立場を異にするがごとくでありますが、それは盾の両面であって、まことにただ一乗の法のみであって、二もなく三もないのが、仏法の神髄であると思います。

はじめに申し上げましたように、すべてのものは動いて行く、動かないものは何もないという原則の上に立ちますと、皆様のやっていらっしゃる世間の法律も、やはり動いて行くものだと思います。大日本帝国憲法が日本国憲法となり、日本国憲法がいままた何かに動こうとしておるのであります。

人間の作った法律は決して永遠ではありません。人間の作った道徳もまた決して永遠ではありません。もしもこの世の中に永遠なるものがあるとしますならば、それは純粋なる人間性の自覚にもとづく、限りない愛情だと思います。ヒューマニズムこそ永遠だと思います。それこそ釈尊が6年間の生命を賭して発見された永遠なる法≠ナあると思います。

ご清聴ありがとうございました。

――完




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