真の生き甲斐―自分を忘れて自分を生かす
山田無文老師
慶応義塾を開いた福沢諭吉先生に"世の中で"という有名な一聯(いちれん)の言葉がありますが、その中に『世の中で一番楽しい立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである』とあります。たしかにそうだと思います。
『世の中で一番みじめなことは、教養のないことである』
『世の中で一番みにくいことは、人の生活を羨むことである』
『世の中で一番尊いことは、人のために奉仕して恩に着せないことである』
『世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持てることである』
『世の中で一番恥ずかしいことは、嘘を言うことである』
『世の中で一番寂しいことは、仕事がないことである』
など、すべて人生の機微を衝(つ)いた名言だと思います。自他の観念を払拭した本来の東洋的な心には、人のよい生活を喜びこそすれ、羨むことはありません。
世の中のため、人のために奉仕して恩に着せることもありません。嘘をいう必要もありません。すべてのものの中に、自分を発見するあたたかい愛情をもって、よりよい世界をつくるために、自分なりに出来る一生を貫く仕事の持てることは、人生最大の喜びであります。
朝日新聞に"ひととき欄"という婦人の投書欄があります。あるときこんな投書がありました。
『私はぼんやり学校を卒業して、人にすすめられて平凡な結婚をして、毎日変化の無い生活をしているつまらない女です。人生とか生き甲斐なんてことさえ、考えてみたこともありませんでした。ところが、子供が出来て、赤ちゃんに乳をふくませたとき、私ははじめて生き甲斐を感じました。この赤ちゃんは私がおらなければ育たない。育つかも知れないが幸せにはなれない。私と言う人間はつまらないが、この赤ちゃんにとっては日本一大切な、なくてはならない人間だなと感じましたとき、はじめて自分の値打ちがわかりました。私はこの赤ちゃんのために健康で長命してやらねばならぬと考えました』。
私はこの一文を読んで、生き甲斐とはそういうものだなとうなづきました。この世の中に、『あなたがおってくれるから』といってくれる人が一人でもあってこそ生き甲斐である。家庭においても社会においても職場においても、自分の存在に価値観を持ってくれる人が多ければ多いほど生き甲斐が大きいわけです。
人生は自分の幸福だけつかめばいいはずのものではありません。しかも、自分の幸福などというものは、泡のごとくたちまち消えてしまうはかないものです。いわゆる幸福とは、欲望というマイナスを何かで満たしていくものでしょう。その欲望というマイナスは無限で、埋めても埋めても埋め尽くされることはないのです。だから欲求不満の人が多いのです。
もし埋めることが出来たとしても、それはたんに欲望というマイナスを何か物でプラスにしただけですから、その人生はプラスマイナスゼロです。しかし、人のために働くことはすべてプラスになります。そこにのみ、人間は生き甲斐を感ぜられるものです。ひとりご馳走を食べることは楽しいかもしれない、生き甲斐と思われるかもしれません。しかしその生き甲斐は、半日ももたない生き甲斐です。ところが、いま空腹にたえかねている人にそれをさしあげたならば、どれだけ感謝されるかわからず、長い喜びとなって消えることはありません。自分のことよりも人のために働いたことは、すべてプラスになります。しかも自分と他人の区別のない心境がわかるならばなおさらです。慰めを求めて泣きしわれなれどある戦争未亡人の歌です。夫が戦争でなくなった。私ほどかわいそうなものはない。私ほどみじめなものはない。そう思って、ひとの慰めを求めて毎日泣いた。けれども、ある教えによって気持ちを転換して、すこしでも人さまのために働くことがしあわせだとわかってからは、毎日が楽しい。毎日が喜びの日々だ、というのです。『人さまのために働く、自分を人のために捧げると言うような道徳は古い道徳でいけない』といわれるかもしれません。しかしそれは決して人のためではないのです。
ささげて生きる喜びを知る
人と私とは別ものではなかったのです。社会と私とは別ものではないのです。ひとの幸福が私の幸福であり、あなたのしあわせだとわかる、そのことが実は最上のしあわせなんです。『人のことばかり考えたら自分が成り立たないではないか』といわれそうですが、まずその疑念から解放されなければならんでしょう。
松下幸之助さんに『道をひらく』という本があります。その中にこんな話がありました。松下さんが事業を始めて十五年ほどたったころ、ある宗教の本部へ連れて行かれたというのです。
行ってみたところ、そこには素晴らしい本殿が建ち、信徒の宿泊のための建物がずらっと並んでいる。びっくりしたそうです。たいしたものを建てたものだ、この新しい宗教がこんなものを建てたが、どこから金を持ってきたのだろう、財源はどこにあったのか、どうして建てられたのだろう。経済人としてまずそのことを考えられた。そして、問題にぶつかると解決するまで考えつめるのが松下さんの癖だそうです。
電車の中でも考え、うちに帰っても考え、考え抜いて結論が出ました。あれはなんでもない。その宗教の教えで社会の大勢の人を喜ばせたのだ。喜んだ人が大勢なら、わずかな金を持ち寄ってもあれが出来るのだ。大勢の人を喜ばせたということ、それだけが資本だ。おれはいままで、どうして銭をもうけようか、どうして自分の会社を大きくしようかとあせってきたが、それはまちがっていた。銭もうけなんぞは考えんでもいい。世の中の大勢を喜ばせさえすれば、金は自然にはいってくるのだ。これからは、自分の電器事業を通して、社会の大勢のみなさんに喜んでもらえる会社にならねばならぬ。それが自分の一生の事業だと気付かれたそうです。そこに松下さんにとって一大転機があったわけです。
あくる朝会社に行って、五、六十人の、当時はまだ社員とはいっておりませんでした、店員を集めて、 『今まで自分はどうして銭をもうけようか、どうしてこの会社を大きくしようかとあせったが、今日から考えを変えた。今日からは、どうしたら世の中のみなさんが喜んでくださるか、ということに全力をあげる会社にする。みなさんの欲しがるもの、必要なもの、便利なものを、なるべく安く提供すれば、社会のみなさんが喜んでくださる。社会のみなさんが喜べば、会社に金がはいるのは当たり前だ。銭もうけ等は考えないで、きょうから社会に奉仕していくことをこの会社の目的とする。みんな賛成か』といったところ、みんなもこれに賛成した。これが今日の"ナショナル"松下電器に発展するもとをなしたことは疑えません。
要するに、自分のことだけ考えていく人生は、うまくいってプラスマイナスゼロで、あとにはなんにも残りません。しかし、たとえささやかでも、毎日の生活を人に喜んでもらうために送るならば、それこそすべてがプラスとなり、自分も幸せになれば周囲も幸せになる、ほんとうの人生というものがそこに味わえるのです。そして、そういう生き方が東洋の、少なくとも日本の伝統的な精神だということに思い至されて、その精神を守って、幸せな人生、明るい人生を開かれることを、一人でも多くの人に分かって頂きたい。こう私は思うのであります。