禅の悟りと赤子の心

山田無文老師

このごろ(昭和37年頃のこと)は外国の方が、しきりに『禅』、『禅』、と言って日本にやって参りまして、私の方にへもよく訪ねて来られます。

ある時アメリカのカトリックの神父さんがやって来ました。わたくしの前へ坐ると、禅宗の悟りということを教えろ、悟ったらどんな心境になるか聞かせろとおっしゃる。ずいぶん虫の良い質問で、そんなことを口でいえるくらいなら、聞いて判るものなら、わたくしどもは何も苦労して坐禅なんかしやしません。日本へ来たついでに、インスタントで悟って帰ろうという訳でしょう。

わたくし、そこでお答えしたのですが、あなたの質問にお答えする前に、わたくしの方に質問がある。キリストは赤子のような心にならなければ天国へ入れんとおっしゃったが、赤子の心とは一体どんな心ですか、赤子の心理状態はいかがですか。あなたもいずれは天国へいらっしゃるでしょうが、そのとき、どんな心境で天国へ行かれますか、と訊ねましたら、神父さん、首をひねってすっかり考えこんでしまいました。

それでも、さすがに良いことを申しました。『赤子の心は無だ』と言いました。禅宗と同じことを申しました。そうだ赤子の心は無だ、その無が判れば禅の悟りだ、大人は赤子と違って色々考えるが、心そのものは無だ、実体は何も無いのだと判れば、禅の悟りだと言ったら、膝を叩いて『判った』と言って喜びます。そこで、未だ喜ぶのは早い、あんたのはここ(頭をさす)で判ったんで、禅はここ【肚(はら)をさす】で判らなきゃいかんと言うたら、自分は大学で哲学が専攻だったから、頭で判れば結構だと申します。悟りが開けると、手の舞い足の踏むところを知らずと言って、とても愉快になるがどうじゃと訊ねますと、いや、今日はとても愉快だと言って、喜んで帰って行きました。

天国に入るには、赤子のような心にならなければいけない、とキリストは申しましたが、赤子の心はたしかに無心であります。その清らかな、赤子のような無心でながめるならば、この世がこのままに天国だということではないでしょうか。

赤子のような無心にならなければと申しますと、じきに、そんな赤ん坊のような暢気(のんき)な心で、どうしてこの世知辛い(せちがらい)世の中が暮らせますかい、これほど考えてうまくいかんのに、考えなかったら毎日損ばかりしておらんならんと、どうかするとこういわれそうでございますが、実は考えるから暮らし難いんでございまして、考えんほうが、よっぽど暮らしいいのではないかと思います。

大体、この世へ生まれて来なさるときに、考えて生まれた方が一人でもございましょうか、お母さんのお腹の中で、思案分別して生まれた方が一人でもございますか。今度娑婆(しゃば)というあまり良くないところへ生まれそうだが、どういう風にやったらいいだろう。わしの気に入る仕事があるじゃろうか、うまく儲かるじゃろうか、どうじゃろうなどと、お母さんのお腹で考えて生まれた赤ん坊は、一人もないと思うのであります。

何も考えないで、計画も企画も無しに、予算も持たずに、素っ裸でみんな生まれてきたんです。ハンドバック持って生まれて来たの、トランク提げて出て来たのという赤ん坊は、ただの一人もありません。みな素っ裸で、オシメの替えさえ持たずに、これから何十年もお世話になろうという娑婆へ出て来るのに、手拭い一本の手土産も持たず、文字通り裸一貫で生まれて来て、しかも今日まで生きられたのは、おかげじゃございませんか。自分が考えて生きられた訳じゃございますまい。おかげさまで今日まで暮らさせて頂いたのではございますまいか。

生まれたら、ちゃんと、お乳というものがおっ母さんの胸から出ます。おっ母さんの胸から出ますけれども、おっ母さんには不要のもので、赤ん坊に授かったものでございます。いくら栄養があるからと言うて、赤ん坊にビフテキを食わしたって食べやしません。生まれたら直ぐ、お乳という結構なものがちゃんと備わっておる、しかもその乳が、肥立つ(ひだつ)にしたがって濃くなる。ものが食べられるようになると歯が生える。生まれた時から、ちゃんと生きられるように出来ておる世の中だから、生きられたのでございます。

"空の鳥を見よ、彼らは紡(つむ)がず耕(たがや)さず,然(しか)も神は彼らを養いたまえり"です。"信仰薄き者よ、汝ら何を着、何を食わんと憂うることなかれ"です、生まれた以上は、必ず生きられるように出来ておるのです。その人その人に備わった、特異の技能、あるいは使命というものがあるはずです。その技能、あるいは使命さえ生かして行けば、この世の中は何も考えんでも生きられる世の中だと、わたくしは固く信じておるのでございます。




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