風吹けども動ぜず

山田無文老師

黙せる者は 非難され
多く語るも 非難され
少しく語るも 非難さる
非難されざる 人ぞなき
いにしえより いえること
今また然り アツーラよ
  (法句経227)

一灯園の西田天香さん(末尾に解説)が帰光されて、はや一年になる。その頃、九州の未知の婦人から手紙を貰った。ある評論家が、天香さんの事を、にせ者だとか、まやかし者だとか、厳しく批判した記事を新聞で読んだが、あなたの本を読むと、天香さんのことをいつも讃(ほ)めてある。一体どちらが本当なのか、はっきりしてくれ、というのである。

まことに返事に困る手紙である。讃める人もあれば誹(そし)る人もある、それが世の中である。讃める人には讃めさせておき、誹る人には誹らせておけ、というより外ないであろう。十人十色、一人ひとり、ものの見方が違い、感じ方が違い、言い方が違うのだから、そして殊更に悪く言いたい敵意を持つ人も、世の中にはあるものだから。

世尊ブッダでさえ、非難するものがあった。陰で誹るものもあれば、面と向かって攻撃するものもあったのだ。
  在る時、一人の外道(仏教以外の宗教信仰または、信仰者)が、ブッダに向かって、ありったけの非難を浴びせた。ブッダは、ただ黙って聞いておられた。相手が言うだけいって口を閉じると、ブッダは静かに口を開かれた。『あなたは他家へ贈り物を持って行った時、先方がその贈り物を受け取られなかったら、どうしますか』、『それは仕方が無い。持って帰る』、『そうでしょう、先ほどからあなたは、いろいろわたしの悪口を言われたが、わたしはよう受け取らないから、持って帰ってもらいます』。こう言われて、さすがの外道も黙って引き下がったという話があるが、すばらしい応対ではあるまいか。

人というものは、黙っておればおるで、『あいつは変わり者だ』と悪口を言い、喋れば喋るで、『あれはおしゃべりが過ぎる、軽薄で実意がない』などと非難し、口数が少なければ少ないで、『良い人だが、はっきりものを言わないのが玉に瑕(きず)だ』などと、ケチをつけ、何かと悪口を言いたがるものである。

人間と言うものは、昔からそういうものなんだ。もちろん今の人間もそうなんだ。不思議がることはない。そういうものだと承知して相手にならないほうが良いよ、と孫に言い聞かすように、ブッダは、ある日アツーラというお弟子に教えられたのである。アツーラという弟子が、どういう経歴の人かよくわからないが、おそらく人から非難されて、それを苦にして悩んでおったのであろう。

こうなると、ブッダも単なる学者でも、聖人でもない。世の中の裏も表も知り尽くした、いわゆる酢いも甘いもかみわけた、苦労人だなと申さねばならぬ。
その同じ人にか、または別の時にか、ブッダは、こうも示された。

ひたすらに非難さるる 人はなし
ひたすらに称讃さるる 人もなし
いにしえも今も未来も しかあらん
絶対に誰からも非難されると決まった人はない。前科十何犯というような極悪人でも、彼の妻や子にはやさしい夫であり、思いやりの深い父であるかもしれない。朋輩や子分には義理堅い友達であり、慕われる親分でもあろう。

と同時に、どんな立派な人格者といわれる人でも、或は名僧知識と仰がれる世の師表でも、その反対者からは、もちろんのこと、内輪へ入って見ても、案外、身近な者から非難悪口が絶えないかも知れぬ。世の誰からも完全に誉められる人なんて、あるものではない。

ブッダこそ、そういう万徳円満なお方だとわれわれはそう信じ、そう尊敬申し上げるのだが、そんな人はあり得ないと、ブッダ自らが、そう仰せられるのである。古(いにし)えもそうだったが、今も未来も、世の中とは、そういうものだと、心得ておくが良いぞと、優しくお示し下さるのである。

そこで問題は、誉める人があれば誹る人があり、誹る人があれば誉める人もある。そういうものが世の中だから、たとい誉められても誹られても、そんなことを、いちいち気にしないことである。

誉められたからといって調子に乗ったり、誹られたからと言って気に病むようなことでは、人生どんな事業も出来るものではない。何事にも、こだわらぬ不動の信念をもって、初心を貫徹せねばならぬと示されたのである。

禅宗には、『八風吹けども動ぜず天辺の月』という言葉がある。八風とは、利、衰、毀、誉、称、譏 、苦、楽の八つである。利とは、成功すること、衰とは失敗すること、毀とは陰で誹ること、誉は陰で讃めること、称は面と向かって讃めること、譏は面と向かって誹ること。苦と楽は、よくわかったことであろう。おそらく人生の波風は、この八つの中に含まれるであろうが、この波風繁き世の中に処して、天辺の月のような不動心を持って生き抜けと、戒められるのである。

また『遺教経』には、『よく忍を行ずる者を、すなわち名づけて有力の大人と為す。若し其れ悪罵の毒を歓喜し忍受して甘露を飲むが如くすること能わざる者は、入道智慧の人と名づけざるなり』とも示されてある。三復すべき金言である。

西田天香(1872-1968)明治5-昭和43

宗教的社会活動家。滋賀県長浜市の紙問屋に生まれた。本名は市太郎。小学校卒業後,1889年18歳のとき滋賀県知事大越亨に面談,その二宮尊徳の報徳思想に共感し,2年後兵役を免れるため北海道開拓民として移住。開墾事業の監督となったが,資本家と小作人の間の紛争調停に苦しみ,のち数年間懐疑と求道の放浪生活を続けた。
1905年長浜愛染堂で断食中,乳児の泣声に無心の境を悟り,同年京都鹿ヶ谷(ししがたに)に〈一灯園〉を開設,懺悔生活を始め,〈おひかり〉による内面的救済を求め,無所有の共同生活をめざした。
一灯園はのち京都山科に移り,本部光泉林,諸学校施設などをもち,多数世帯の大家族的生活が実践されている。27年中国金州に開拓農場を作り,中国,朝鮮,ハワイ,北アメリカへも布教した。47年第1回参議院議員選挙で全国区に当選,緑風会の結成に参加した。教話集《懺悔の生活》(1921)は大正期にベストセラーとなった。

西田天香師は、昭和31年の5月20日に、垂水見真会に出講して頂きました。




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