山田無文老師のご紹介

一般の方々がどれ程山田無文老師をご存知か分かりませんが、禅界では明治以降では稀代の名僧だと言われているとお聞きしたことがあります。それは、大学の学長もされ、また一般人を対象としたご法話も数多くこなされ、ご著書も多いと言う事が、そう言う評価に結び付いているものと思いますが、 話術の素晴らしさも大いに寄与していると思います。落語家がその話術を勉強したと言うような逸話もございます。最初は、なかなか聞き取り難い弱い声で、聴衆に耳を傾けさせ、徐々に声が大きくなって行き、喩えの人物に成り切っての発言は、真に迫るものがありました。

見性の無い、即ち、悟りの無い坐禅は意味が無いとまで言われ、ただ坐れば良いと言うものではないとはっきり言われた事が印象に残っています。

わたしの母が主宰していた垂水見真会に山田無文老師が初めて出講頂いたのは、昭和28年11月28日である。当時は既に神戸祥福寺僧堂師家をされながら花園大学学長でもあられました。最後は、昭和49年11月27日で、合計19回のご出講でした。恐らくは、妙心寺官長になられ、神戸を去られるまで、毎年1回のペースでご出講頂いたものと思います。
振り返りますと、私の小学3年生から私が結婚して二人目の子供が生まれるまで来て頂いたことになります。私の父は昭和30年に亡くなりましたが、社葬が山田無文老師の祥福寺で営まれ、老師に読経して頂いたことを記憶しています。
従いまして、私の学生時代の仏教の話は、浄土真宗よりも、山田無文老師の禅のお話の方が、印象深く、かなりの影響を受けたと思います。

ご経歴:
明治33年〜昭和63年(1900年〜1988年)
臨済宗、京都五山、妙心寺派26代官長。
愛知県出身。学生時代、川口慧海に師事し、静岡県細江町金胤地院の河野大圭和尚につき得度。妙心寺僧堂を経て天竜寺僧堂にて関精拙老師に嗣法する。妙心寺山内霊雲院住職、神戸祥福寺僧堂師家を勤め、花園大学学長勇退後、昭和53年、妙心寺派官長となる。通仙洞と号した。




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