続―逆境に処する道
常岡一郎
●ど根性を
人間の一生は平坦ではない。どうにもならぬ大異変も起こる。越すに越せない大節も迫る。事件に先ずのまれる。それで気力を失う。適切な判断がつかない。迷っている間につき倒される。滅びる。悲劇の中にのまれる。これは愚かなことであるが、その例はあまりに多い。根性の欠けた哀れさである。根性のすわった人は艱難に当たって光る。強くなる。人間の本質が輝き出る。順境に育つ。親に守られて生きる。周囲の人に甘やかされて伸びる。これほど弱いものはない。それでは自分自身の底力は育っていない。きっと将来は亡びる。世の中には無気力の人が多い。これは守られて甘えた自覚のない愚かもののなれの果てである。天は自ら助くるものを助ける。一番幸せの基本は自らの本質を鍛えておくことである。鉄の錆は三年でポロポロになる。しかし鍛えて刀となれば千年のいのちを保つ。
殴られる。強まる。蹴られて粘る。突き倒されて立ち上がる。踏まれて拡がる。どんな重病にもくじけない。野草のような逞しい生命を身につける。これが本当の幸せの条件である。
自由の言葉に甘やかされる。人権尊重の声をかさにきる。そうして自分を鍛える喜びを味わい得ない。そんな若人があまりに多い。磨かなければダイヤも光らぬ。古来大成した人は根性が強い。度胸が据わっている。これが幸せを生む基本になっている。
偉大な事業を生むのも鍛錬された人に許される。明るい粘り、美しい情熱、底知れぬど根性、これをどうか身につけて貰いたい。これが幸せの条件だよと呼びかけたい。
●胸突き八丁
もういけない。これ以上は駄目だと思う。それが峠である。しかし、そこでくじけてはならない。無意識になってもよい。無意識のまま前進すべし。やがて下り坂となる。胸突き八丁といわれている。いよいよ峠だという直前が本当に苦しい。これを乗り越えたら、そこに大きな自信と捨て身の勇気が湧いてくる。私もずいぶん胸突き八丁を経験して来た。中心40年もどたんばの連続であった。金も無い私が大宰府学園、中心学園、老人ホーム、健康学園をやって来た。常に胸突き八丁であった。その幾節を越えて来たが、常に勉強第一主義である。机上の空論は本当に自分が育つための血肉にはならない。思いきったことをやる。素晴らしい困難と取組む。そこに自らの未熟さが分かる。力の不足が分かる。しみじみと自分の本体がさられ出される。そこに反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのが一番惜しい。人生の無駄費いになる。
まず人がよろこぶ。世の為になる。苦労のし甲斐があると見当をつける。それからはじめる。いよいよ進退が窮まる。前進も出来ず、後戻りも出来ない。死か、夢中で前進するか。そこに心魂が定まる。死んでもよい。全部失ってもよい。つとめきって悔いなし。これが終点である。極まれば必ず転じる。天地宇宙は流転してやまない。終点は必ず出発点となる。思い切って前進して、完全に倒れてそこに何が生まれて来るか。これをじっと見詰めたいと思う。
よかったらやる。どんな苦しんでもまずはじめる。黙ってやる。この点私は独裁者である。だから一生重荷を背負って傷だらけの日々である。これはやるべき仕事だ。今の時に必要だ。こう見極めたらまずやる。それで借金の絶え間がない。その中で苦しむ。これで私自らの人間を鍛錬して貰う。これが仕事をやる第一の目的である。借金の苦しみ、恥をかく辛さ、生活にも困る家族達の惨めさを見て、人知れず涙する事もある。しかしこれは一時の姿である。新聞紙のような軽いもの、吹けば飛ぶような軽い私の不徳さ、これは重いものをのせて貰ってこそ飛ばずに残れる。重荷こそ救いである。それなくしては私の一生は空白である。私の育つ道がない。真剣に人生を学ぶことが出来ない。机上の空論は人生の無駄遣いと私は思って来た。
まずやる。重荷を負えるだけ負う。天のみぞ知るどたんばの連続である。毎日毎日が刃渡りの生活である。それで出来上がったものを世の人に奉仕する。出来上がるためにはまず自分が働く。苦しむ。それからは黙っていても人の心が動く。涙の出るような尊い心が次第に集まる。心が先に立って物や金がついて来る。
●運命の冷蔵庫
鮮魚や野菜が腐らぬように冷蔵庫に入れる。冷凍にして保つこともある。それは新鮮なものを大切に思うからである。次の大切な御用に立てたいと思うから冷蔵庫に入れる。腐らないように処置するのである。人間の心も順境に馴れて腐る。それを惜しむから神はその人を逆境におとす。運命の冷蔵庫に入れるのである。神も仏もないものかと、冷酷な運命を呪う人がある。一生懸命にやっていてもなおかつ不自由する。苦難や欠乏や不運がくる。冷たい運命に包まれることがある。これこそ冷蔵庫入りではないだろうか。よほど大切な次の御用が待っているのだと思う。
神や仏があればこそ、腐り易い心を惜しんで冷蔵庫に入れて下さったのである。神も仏もなければ、冷たい運命は与えられない。なまけて腐り放題になる他はない。運命の冷蔵庫。そこには次の、来るべき日の役に立てたいという親なる神の思いがある。
偉人と謳われ、聖人と仰がれた人の生涯には。常に運命の冷蔵庫があった。天のまさに大任を下さんとするや、まずその人に苦難を与える。そうしてその志を縛るといわれている。それが運命の冷蔵庫である。人間はとんとん拍子に都合よく行く時は、天の恵みがあるように思う。しかし本当は、魂が腐りやすくなっている場合が多い。本当に可愛いものには、冷蔵庫の恵みを与えるはずである。
おごる平家は、栄華に馴れて腐ってしまった。天下を二分して兵馬の権をあずかっていた源氏の一族は、追われて住む国もなかった。兄頼朝は幼くして伊豆に流された。義経も範頼も追われ追われて、三人の兄弟は散り散りになった。別れ別れに世をしのんだ。天も見捨て給うのか。源氏の公達のこのあわれな姿に家臣は泣いた。その間の平家の公達は腐って、次の用には立たなくなっていた。次の時代は源氏に任される日が来た。運命の転変、歴史の流転、それを見れば冷蔵庫の有難さがわかる。失敗や逆境は少しも恥ずかしいことではない。人生、その道すがらにはどんな日もある。その冷たい運命におびえて手も足も出ず、魂まで震え上がって、いじけることが恥ずかしいのである。
鰊(にしん)は燻製にされる。煙にいぶし上げられて腐らないようになる。嫁に行って姑や小姑にいじめられるのは燻製にされているのである。実家の母が引き取って甘やかしては、神が与えた燻製の教が失われる。
唐辛子をつけたり、酢につけたりする。辛酸にひたるのである。他日の大成を期するためには、日夜辛酸をなめることもある。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の苦しみが、志を固める道である。
生々しいものの腐らぬもう一つの道は、塩漬けにすることである。しっかり塩につけておくと腐らない。聖人、君子、偉人の教えに浸るのが、心の塩漬けである。塩はその身をこの世から消して、人の世の味付けとなり、命となるのである。教祖と仰がれ、宗祖と慕われる聖者の一生は。己れを忘れて人の世の塩となられたものである。
長い病に心の倒れた人、重なる不運に心の腐った人、夫の不倫に泣く妻、世の中には多くの悩む人がある。味気ない人生を歩んでいる人がある。味が無いものは、肉でも魚でも野菜でも、美味しく食べられない。塩は味なきものに味をつけて食べられるようにする。聖者の生涯は、味気ない人生を呪っている人々に、味をつけて下さるものである。その伝記を読み、その苦難の物語を聞くとき、ゆるみがちな心はおどる。奮起する。有り難さ、もったいなさが分かる。 子 ゆるみがちなわれわれは、常に塩に浸ることを怠ってはならない。そうして腐り易いわが心を世の塩となられた偉人の足跡に鑑みて、生き生きと守り育てたいものである。