大乗仏教の魅力(私はなぜ仏教徒になったか)

(鈴木大拙師夫人)
鈴木ビアトリス
昭和15年執筆

私がどうして仏教に興味を持つようになったか、その経路をお話しよう。――まだほんの少女時代に、私は思想的に哲学や宗教の洗礼を受けたのだが、後年、大学に学ぶようになって、幸いにも故ウイリアム・ヂェームス教授や故チョシア・ロイス教授のように立派な先生方について、薫陶を受けることが出来た。

尤も私は、いわば一個の傍観者として、飽くまでも冷静な態度でさまざまな哲学思想を渉猟したに過ぎないので、これこそ自分自身のものだと思われるような哲学は一つとして見出すことが出来なかった。

ところがある機会に、聖婆伽梵歌(バガバダ・キーダ)【註、イリアード、オディッセイに匹敵する古代インドの大史詩「マハバラヌ」の中の一篇】の写本を手に入れた私は、はじめて「これこそ自分のものだ!自分の求めていたものだ!」と叫んだのであった。かくして、私は接神論(テオソフィ)や吠檀多(ヴェダンダ)や仏教を通して、東洋の教えのなにものかを学んだのである。ところが当時の私が研究したのは小乗仏教であった。やがて円覚寺ならびに建長寺の住職釈宗演師が再度アメリカを訪問され、私は師とその同行者鈴木大拙を識るようになった。私の前に大乗仏教の真理がはじめて提示され、その教えに私は強く惹かれたのである。

その後まもなく、私は日本で生活することになり、夫大拙の指導を受けたばかりでなく、幾人かの師について熱心に仏教の研究をはじめた。特に心を惹かれたのは真言と禅で、この二つのものは私にとって興味の中心となった。私は円覚寺に参禅して禅を修め、また東寺、高野山などの諸大徳によって真言の手ほどきを受け、さらに大谷大学に教鞭を執るようになってからは真宗にも接触する便宜を得たのであった。

大乗仏教において、最も多く私にアッピールするものは菩提心の教理である。われわれ人間や動物をひっくるめて凡そこの世に生を受けたものが、ことごとく仏性を具え、やがて成仏するものだという教えは、世界中のあらゆる教えのうちで最も私にとって光明かがやかしきものに思われる。

すべての大乗仏教の宗派はいづれもかかる信仰を有し、例えば禅宗では内認によって、真言宗は即身成仏によってその境地に達すると信じているし、また真宗においては、浄土がさとり即ち仏の境地であるというふうに考えるのである。仏教はこうした衆生済度の観念と、霊的向上の観念をば、有情無情の差別無く地上のあらゆるものに生あるとなきとを問わず、あまねく与える。

大乗仏教の教えはそれゆえ、自己のみの悟りを目的とする阿羅漢やそこに究極の目的をおく独覚の教理を説くものではなく菩薩の教理を説くのである。阿羅漢や独覚がさとりのために修行するといっても、それは自分一個の涅槃を目的としているのだが、菩薩はこれに反し、宇宙空間のあらゆる存在がひとしく涅槃に到達しないうちは自分のみ独り涅槃に入ろうとはしないのである。

もし菩薩がひとり涅槃に入ろうと欲したならば、それはきわめて造作のないことであった。が、そうはせずに、自ら進んで菩薩業に身を委ね、一切衆生の済度に志したのであった。この菩薩の原理こそ、大乗教の真理であり、中核である。大乗仏教はすなわち慈悲の宗教というべきであろう。

われわれは現世来世を問わず悟りによって菩薩身を現じ、法身として諸徳を与えられるのであるが、これらの諸徳中、慈悲こそは最も主要なる徳なのである。かくてわれわれは衆生の済度と光明のために努力し、そうすることに自らの幸福を見出し、悟りによって得た法身の境地に安住するに至る。

私は光明と慈悲を説くこの大乗仏教の教理に少なからず心を動かされ、仏教というものに次第に近づくようになり、この教えをひろく西欧にも伝えるべく及ばずながら微力を挙げて尽しているのである。 キリスト教はこれまた美しい宗教であるが、必ずしもすべての人心にアッピールするものではない。東洋革新の思想を擁く人々にとって、大乗の教えこそはすばらしい啓示であり、手引きであり、理想であろう。




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