矛盾のままの無心
鈴木大拙師
これを仏教では無我の世界と、こう言う。風や雨の世界はむろん無我の世界であろう。ただ一般の生物になると「我」の世界をもっておる。ところが人間になると、一方には風や火の世界と同じものがあり、またその次に猫や犬や虎や狼などと同じ本能的「我」の世界があり、その上にもう一つ人間的有心の世界がある、いわゆる道徳の世界がある。機械の世界、本能の世界、義務の世界、宗教の世界などといろいろの世界が重なり合って、ここに人間特有の世界――矛盾の世界がそこから展開してくるのである。この矛盾はどうしても「無我」でないと解決がつかぬのである。
人間は先にもいったように、天地の心のなんら障礙なくて自然に循環し、自然に運転してゆくのに対して、反省と意識というものを起こしてきた。神ながらの動きをちょっと停めたとでも言うか、そういうものを人間がこしらえたのであるから、人間は一種の謀反児である。この謀反気は動物にはない、もちろん物質界にもない。謀反は「我」の意識から出るのである。この「我」の意識というのは人間だけにあるのであって、そうしてこれが矛盾の世界、悩みの世界なのであるから、人間である限り、これをなくするという訳にはゆかないのである。なくすれば人間はなくなるということになる。人間が天地のほかに出るということになり、いわゆる無、無存在になるというのだから、それは一種の夢だにも見ることのできない世界なのである。
それで人間はこのままのせ界を肯定する、すなわち「我」を立てるが、その肯定、その「我」の真正中から、いわゆる無我無心の世界にはいらなければならぬのである。「我」というものをもちながら、我は我、人は人ということがありながら、そこに人も離れ、我も離れたところの世界を見るということにしなければならないのである。そこに初めて無心の体得がある訳である。
そしてこの無心の世界から、今度改めて「我」の世界、他人の世界、仏教でいうところの差別の世界が出て来なくてはならぬのである。そこで決して容易な修行でゆけないのはもちろんである。それで孔子も「七十にして己の欲するところに従うて則を超えず」というようなことを言う。ある方面からみれば、「我」を存して、これを離れることは論理的には矛盾と思われるが、しかし実際の上からいうと矛盾ではない。さればなぜかというと、初めから何もないところに、何かをこしらえ上げたからである。そういうと、無心はまたきわめて容易なことであると見られる。
昔も今も、東も西も、聖者はみなこういう点を狙って話をしているのだと思う。キリスト教で「神の御心のままに」ということがあるが、なるほど神の御心のままでもあろうが、その御心のままのところに、やはり自分と言うものを感じているのである。自分と言う方から見ればこそ、神というものも立てられるのである。その自分でありながら、ここに神の意のままならしめようというところに、今先に言うような、有我と無我、有心と無心の世界の交錯がある訳である。
この入り組みがなくては人間的にならない。この入り組みがあるところ、こうだというところと、そうでないところの間に、入り組みが出来て、その入り組みのとろにいわゆる無心の世界が展開するのである。神を神としてしまい、人間を人間としてしまう、我は我、人は人というように、はっきり二つに分かれた世界をみておれば、ここに矛盾は自ずからある。それが矛盾である。
人は人、我は我、人は我にあらざるもの、我は人にあらざるもの、これが矛盾である。この矛盾をわれらは悩みと感ずる。ところが無心の世界には、人は人でありながら我、我は我でありながら人というような塩梅(あんばい)に、そこに両者の区別をなくしないで、そのままにしておいて、そうして融通の道がつくところがあるのである。そこに無心の世界が開ける。それを漠然と天地の心と言ってもよし、また神ながらと言ってもよいかもしれぬ。本能とさえ言ってもよいかもしれぬ。
しかしながら人間の本能には、動物的本能とだいぶ違った趣の本能のあることを認めなければならぬ。物質的力というものの、ただの働きではない。そこに人間の有心を加えてはいるが、しかもその有心にもかかわらず、無心の働きが見えるところ、これを人間の無我的本能といっては、どういうものか知らん。
そうしたところを見ておかぬと、無我とも無心ともいうべき境地が表れて来ぬ。ちょっと考えると、本能を肯定することがすなわち無心であるというようにも見える。ある点からみれば、その通りであるが、その本能に人間的、有意有心的鍛錬が加えられて、そうしてかえってそこに、大いに今までの動物的無心の中では味わわれない無限の意味を持ったものが出て来るのである。この無意味の意味に生きることが、いわゆる無心の境涯だと自分は言いたいのである。
―完―